ヨセミスフィア

ヨセミスフィア 1

「一体どうなってんだ……? さっきまでいただろ、あんだけの人が……」


 バートは信じられないという表情で呟きながら視線を彷徨わせる。しかしその目が拾うのは、空っぽの建物か、仲間たちの姿だけだ。

 サリュートアは上手く言葉を発せず、ただ周りを見ていた。注意深く見なくてはという思いとは裏腹に、目は景色の表面だけを滑って行き、何も思考のきっかけを掴んではくれない。

 アストリアーデが、必死でこの街は変だと言っていたことを思い出す。

 隣を見ると、彼女もセシリアも、ぼんやりと佇んでいた。

 一陣の風が通りを吹き抜け、それが頬を撫でる冷たさも、埃っぽく乾いた感触も、混じる草のにおいも、確かに感じられるのに、現実感だけがぽっかりと抜け落ちている。


「とにかく落ち着けよ、お前ら、落ち着くんだぞ!」


 そう唾を飛ばしながら、上ずった声で口走っているバートが一番うろたえているようにも見えるが、しかしその言動が、この非日常の状況の中に、日常的な息吹を吹き込んでくれたかのようだった。

 震える耳朶は、次第に脳まで彼の言葉を届けるようになる。


「おい、あの看板見てみろ!」


 その頃にはもう、バートは周囲の状況を観察するまでに至っていた。任事官という職につき、日々事件に揉まれている状況というのは、やはり伊達ではないのだろう。

 皆、彼の指先に吸い寄せられるかのように、そちらを見た。

 建物の壁に、素朴な看板が掲げられている。先ほどその前を通った気もするのだが、何の店だったかは思い出せなかった。

 誰もそこへ近づいてじっくり見ようとはしなかったものの、バートが何を伝えたかったのかは、すぐに理解できた。

 その隣の店も、向かいの店も、ここから見えるどの店先の看板にも、記号のようなものが描かれているのだ。

 内容はわからなくても、それが何なのかはわかる。

 一斉に視線が自分に向いたことに気づき、セシリアは一瞬息を止めたが、やがて小さく喉を鳴らすと、ゆっくりと頷いた。


「アイセフバックですね。……全部」

「どうして、アイセフバックなんだろう」


 アストリアーデの呟きを聞き、サリュートアは考えを巡らせた。

 セシリアによれば、アイセフバックは昔、アレスタンの一部で使用されていた文字であったが その後、使われなくなっていったという。


「私は以前、アレスタンの一部でアイセフバックが使われていたと言いましたね」


 彼の思考の声を聞いたかのように、セシリアが再び言葉を発した。


「父から聞いた話だと、アイセフバックで書かれた文書は、北の方で多く発見されたそうです」


 ここも、アレスタン北部に位置する町だ。

 もしかしたら、ここが発祥の地だとでもいうのだろうか。


「あっ」


 アストリアーデが唐突に声を出す。


「もしかしたら……どこかに『ヨセミスフィア』って書かれてる看板があるんじゃない?」


 一同は顔を見合わせ、それからまた無人の街へと視線を向けた。


「……そうかもしれない」


 サリュートアはそう言って頷いた。それはあり得る話のように思えた。

 あのイシュターという男が研究の末に辿り着いた、ヨセミスフィアという存在。それはここサマルダにあり、街はアイセフバックで埋めつくされている。

 だが、この広い中から一つの言葉を探すのは、骨が折れる作業になるだろう。想像しただけでも気が遠くなる。

 アストリアーデも、同じ心境ではあっただろう。しかし、そんな自分や周囲を鼓舞するかのように、彼女は明るい声で言った。


「セシリアさん、『ヨセミスフィア』って書けるかな?」

「あ、はい。ちょっと待ってくださいね……表現に曖昧な部分がないので、出来ると思います」


 セシリアはバッグの中から紙とペンを取り出し、少し考えながら手を動かしていく。

 やがて、記号のような文字が書かれた紙が、それぞれに配られた。

 それが正しい道かはまだわからないが、全く手掛かりとなるものがないのに比べれば、大いに気持ちが軽くなるのは確かだ。


「よっしゃ、この通りに書かれた看板を探しゃいいんだな? だいじょぶだいじょぶ、きっとすぐ見つかるって!」


 元気を取り戻したバートが、いつもの陽気な調子で言った。


 ◇


「見つかんねーな……」


 ぐったりした声で、バートが言う。

 そうやって本音を素直に口にするのは彼だけだが、そのおかげで皆、気が晴れる部分もあった。

 先ほどまでの元気はどこへやら、という感じではあるが、それがどのくらい前のことだったのか、よく思い出せない。周囲の変化があまりにもないからだ。

 街は死んだように静まり返っていて、見上げれば雲ひとつなく、薄めた絵の具を流し込んだような色の空が張り付いているのが、ひたすらに不気味だった。

 懐中時計はいつの間に壊れてしまったのか、針が動かなくなっていた。そういえば、この街では時計は見かけないということに今さら気づく。

 ただ、喉が渇き、体に疲労は溜まってきているので、時間が過ぎているということは確実だった。

 今は水筒の水があり、非常用の食料もある。

 だが、このままこの状態がずっと続けば、どうなるかは明白だ。流石にそのことは、バートも口には出さなかった。

 皆の顔には疲労の色がにじみ出てはいたが、希望の色もまだまだ失われてはいない。しかし、徐々にではあっても、焦りは大きくなっていく。

 行き交う人々の姿が消えるだけで、これほどまで違って見えるのかと思うほどに、建物も、道も同じように見えた。

 いや、人が歩いていたとしても、同じ印象だったかもしれない。

 壁は元からこのような色だったとは思うが、屋根は空と同じように鮮やかな色彩を失い、濃淡や明暗が違うだけにも見える。

 看板の形は少しずつ異なるため、それは取っ掛かりにはなりそうにも思えるが、気を緩めていれば見落としてしまう程度のものだ。観光気分でその違いの発見を楽しめるというのならともかく、今の状態では集中力を余分に使う。

 サマルダへと来た時、真っ先に目に付いた格子状の街並みは、この迷宮のために用意されたものなのかもしれないと、そんな気がした。


「とにかく、少しずつやっていくしかないよ」


 サリュートアはそう言って、看板を確認する作業を再開する。

 アストリアーデは黙々と続け、バートは時々大きく息をつきながら手に持った紙と看板を見比べ、セシリアは単語一つ一つを紙に書き留めた。

 手分けをして探そうということは、誰も提案しなかった。下手をするとはぐれてしまい、もう二度と会えなくなってしまうかもしれないと思ったからだ。

 アストリアーデは文字と一緒に、あの狼の姿も探していた。でも、真っ白い尾の先すらも、全く目に触れることはない。

 あれだけはっきり見たけれど、やはり見間違いだったのではないかという思いが浮かんでくる。サリュートアも、恐らくバートやセシリアも、あの狼の姿を見てはいない。

 それとも、彼はここへは入れなかったのだろうか。もしくは、迷っているのだろうか。

 自分たちで考え、謎を解き、迷宮を脱せよということだろうか。

 考えれば考えるほど、よくわからなくなる。

 自分が狼を追ったりしなければ、こんな事態にはならなかったのかもしれない。

 ――それでも、ヨセミスフィアというものの核心へと近づいているという感覚は、確かに強くなっていた。


「ねぇ」


 サリュートアの声が近くでし、アストリアーデは我に返る。

 彼は皆に視線を配ってから、続けて言う。


「少し休もう」

「でも……」


 アストリアーデの口からは、ついそんな言葉が出ていた。

 ぐずぐずしていたら、ここから出られなくなってしまうのではないかという恐怖が、抑えていてもせり上がって来る。その力は、疲労と共に強くなっていく。


「闇雲に歩き回るだけじゃなく、少し立ち止まって考えてみるのも大切だって」

「そうだな」


 こちらに再び目を向けたサリュートアの言葉に、バートも同意した。

 彼がちらと視線を向けた先にいたセシリアは、まだ作業を続けている。その顔は真剣だったが、悲痛とも受け取れるものだった。

 アイセフバックを解読できるのは、彼女しかいない。そのことに、彼女自身、大きな責任を感じているのだろう。

 そんな姿を目にしてしまうと、やはり休むという意見に、同意せざるを得なかった。


「セシリアさん」


 アストリアーデが声をかけても、作業に没頭しているためか、反応がない。


「セシリアさん、少し休もうって!」


 もう一度声をかけると、少し間をおいてから、「はい」と小さな返事があったが、それでも彼女の手は休まらなかった。


「きゅーけー!」


 急に耳を引っ張られて驚き、彼女は手に持った紙を取り落とす。

 それを空中でキャッチしたバートは、追いすがる彼女の手を、ひらりとかわした。


「返してください! まだ、全然進んでないんです!」


 珍しく強い口調で言うセシリアに、バートは少し面食らうが、紙を返すことはしなかった。


「だから、休憩してからな」

「そんな呑気にしてたら、ここから出られなくなるかもしれない!」


 静かに作業をしている彼女からは伝わってこなかったが、思っていたよりも追い詰められているようだ。声にも表情にも、強い焦りが見られた。


「……じゃあ、セシリアさん」


 その様子を見ていたサリュートアが、口を挟む。


「ここまででわかった言葉、読み上げてみてくれるかな? 整理したら、何かわかるかもしれないし」

「でも、わからない言葉が沢山あるんです!」


 彼女は泣きそうな顔で言う。


「だけど、なんかヒントになることもあるかもしんねーだろ」

「みんなで考えれば、わかるよ、きっと」


 皆の説得に、彼女は大きく息をつくと、やがて観念したように頷いた。


「……はい」

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