決意 3
「……大切な、友達だったの」
ぽつり、と。
小さな部屋で、守りがカップに入れてくれた温かなミルクを少し飲んでから、アストリアーデは言った。
ある程度の大きさの教会であれば、来た者が気軽に相談事が出来るような部屋が設けられている。
「あたし、助けてあげられなかった」
また涙があふれて来て、カップの中へと落ちる。
「あたしなら、助けてあげられたかもしれないのに……」
何でもっと一生懸命ウィリスを説得しなかったんだろう。
何で自分は、ウィリスにもっと優しくしてあげなかったんだろう。
もっと出来ることがあったはずなのに、どうしてやらなかったんだろう。
何で、どうしてと、意味のない言葉ばかりが頭の中でぐるぐると回る。
あの時、嘘でもウィリスに、ずっとそばにいると言ってあげれば良かった。
テーブルの向かい側に座った守りは黙って泣くアストリアーデを見守っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「お友達は、何て言ってたの?」
「何て、って……?」
「あなたによ。何か言ってた?」
アストリアーデは、ウィリスの最期の言葉を思い出す。
「……あ、ありがとうって」
彼女の純粋な瞳や、微笑み浮かぶ唇の動きが目の前に蘇り、声が震えた。
「あたしと出会えて、良かったって。……幸せだったって」
守りは宙を彷徨うアストリアーデの手に、そっと温かな手を重ねる。
「あなたは、助けてあげたじゃない。お友達を、幸せにしてあげたんじゃない。それって、凄いことよ」
「でも……でも……」
「もし私があなたのお友達なら、自分を責めているあなたを見たら、きっと悲しむと思う」
「――でも、本心じゃないかもしれない」
口から思わず滑り出した硬い言葉に、自らはっとする。
「本当に、そう思うの?」
守りに言われて、アストリアーデは首を何度も横に振った。
頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたら良いのかわからなかった。
手の甲を優しく叩かれる感触と一緒に、守りの声が届く。
「いいよ、もっと泣いて。悲しい時は泣いたら、すっきりするから」
「……そんな言い方されると、泣けない」
思い切り泣こうとしたけれど、悲しみにどっぷり浸かっている自分を見る別の自分が、急に隣に現れたかのような感覚だった。
顔を上げたアストリアーデに、守りはにっこりと微笑む。
「じゃあ、新しいミルクを飲みましょう」
そして立ち上がり、ドアを開けて一旦部屋から出て、すぐにまた湯気の立つカップを持ってきた。
テーブルの上にそっと置かれたそれを受け取り、一口飲む。先ほどよりも温かさや、味がよくわかった。
「……神さまって、いるのかな」
その言葉は、別段守りに向かって言ったものではなかった。自然と口から出たのだ。
何故、ウィリスはあんなに悲しい生き方や死に方をしなければならなかったのか。そう思った。
「いるよ。このテーブルの中にも、この花の中にも、あなたの中にも」
そう言って守りは、テーブルとその上に置かれた花瓶の中の花、そしてアストリアーデを順に手で示す。
「違うよ。……そういうのじゃなくて」
「わかってる。どうして、こんなに辛い思いをするのかってことだよね」
アストリアーデは、小さく頷いた。
「私はね、人は、色々なことを経験したり、学んだりするために生まれてくるって思ってる」
「悲しいことなんか、経験したくないよ」
すぐにそう言ったアストリアーデに、守りは頷く。
「そうだね、誰だってそう。でも、辛いことを経験したから、楽しい時の素晴らしさがわかるってこともあるんじゃないかしら」
今日話した人と、明日また会えるかはわからない。
そうウィリスが言っていた。そうなってから初めて、気づいたこともある。
「それに、その悲しみを乗り越えた時、あなたはもっと強くて、優しい人になれるよ。悲しみを経験する前よりも、ずっと。誰かに優しくすることも、同じ経験をした人に、色んなことを教えてあげることも出来る。もちろん、そうしないことも出来るけどね」
その明るい佇まいからは想像もできないけれど、彼女も何か、悲しいことがあったんだろうか。そんなことを、アストリアーデは思う。
「ね、すごいと思わない?」
そう言って、守りは微笑む。
「私たちは、同じ時代に生まれて、広い広い世界の、沢山沢山人がいる中のただ一点で出会って、こうして話してるのよ。あなたのご家族だってそうだし――そのお友達だってそう。出会った人に沢山のことを教わって、そしてまたあなたも、沢山のことを教える。それが、人と人との縁なんじゃないかしら」
彼女の声は落ち着いていて柔らかなのに、どこか力強く、独特のリズムのようなものがある。よく動く表情も、何だか面白かった。
「私は神様は信じているけれど、お勤めするのはテラ・パトリシュア教会でなくても良かった。そういう『形』に、あまり意味があるとは思えなかったから」
「そんなこと言って、神様に怒られない?」
アストリアーデの漏らした言葉に、守りはくすりと笑みを零す。
「神様はそんなに心が狭くはないと思うけど」
「でも、他の人に何か言われるかもしれないよ」
「だって、私の信仰心は本物だもの。ただ、表現の仕方が人とは違うだけ。私はそれを知っているから、他の人が何を言おうが関係ないわ。その人がどう思うかってことだって、別に自由だけどね」
「強いんだね」
「そんなことないよ。私だってよく迷ったり、悩んだりする。だけどね、昔よりも慣れて、上手になったのかな。そういうの」
「どういう意味?」
アストリアーデが尋ねると、守りは首を少しかしげ、考えるようにしてから言った。
「あなた、何か得意なことある?」
「えっと……」
そう聞かれると、自分は何が得意なのかは良くわからない。
「……馬に乗るのは、少し得意かな」
しばらく考えた末に思いついたのは、それだった。
ジェイムに色々と教えてもらった中で、唯一サリュートアよりも上手くなったものだ。
「いいわね! それ、最初から上手に出来た?」
「出来るわけないよ! すっごい練習したんだから!」
優秀な兄に何か一つくらい勝ちたくて、出来る限り毎日馬に触れ、練習を繰り返した。
「そういうことかな」
「うーん……」
何だか、わかったようなわからないような話に、アストリアーデは呻る。守りは「そのうちわかるよ」と言って、それ以上は説明してくれない。
「どうして、テラ・パトリシュア教会の守りになったの?」
アストリアーデは考えるのをやめ、別のことを尋ねることにした。テラ・パトリシュア教会でなくても良かったというのに、彼女がここにいる理由が知りたくなったのだ。
「テラ・パトリシュア教会は、アレスタンはもちろん、東リドスでも最大級の組織なのよ」
守りは、授業をする先生のような口調で言う。
「だから、ここに決めたの。ここで働いて、偉くなっていけば、沢山の人を助けることが出来ると思ったから」
「偉くなるつもりなんだ」
アストリアーデは、思わず口元を綻ばせた。自然に笑いが出てきたのは、いつぶりだろう。教会を『組織』と呼び、そこで『働く』と言う守りを初めて見た。
「知ってる? 歴史上、まだ女性の大守長はいないのよ。私がその最初かもしれないわ」
そんなことを簡単に言う彼女に、アストリアーデは呆れてしまう。
大守長とは、すべてのテラ・パトリシュア教会のトップのことだ。
「もしかしなくても呆れてる? でもね、何でもまず信じないと叶わない。自分で自分のことを信じてあげなきゃ、誰が信じてくれる?」
まさか、本気でそんなことを思っているのだろうか。でも、彼女ならやり遂げてしまいそうな気にもさせるから不思議だった。
「大分元気になったみたいね。もう大丈夫」
そう言って彼女は、アストリアーデの頭を優しく撫でた。その手はとてもあたたかくて、心を落ち着かせてくれる。
「またいつでもここへ来てね。私は、その時はもう、いないかもしれないけれど」
「どこかの教会へ移るの?」
今までの話しぶりから、辞めるということは考えにくかった。
彼女は頷くと、両手をぱっと広げる。
「マイラの中央教会へ呼ばれてるの。来月にはそっちにいると思う」
マイラの中央教会は、アレスタンで最も大きな教会だ。アストリアーデは、驚きに目を見開く。そこで守りが得意気な顔をするものだから、思わず吹き出してしまった。
「あたしも……マイラに住んでるの」
「あら、そう! これもきっと母のお導きね」
少しだけ迷った後、アストリアーデが言うと、それを聞いた守りは嬉しそうに声を上げる。
「じゃあ、またぜひ会いましょう。まだ名前を名乗っていなかったわね。私はミューシャ」
「あたしは……アストリアーデ」
「そうだ、アストリアーデ。あなた、一人でここへ来たの?」
「あっ、もう行かなきゃ!」
サリュートアに、また心配をかけているだろう。
慌てて立ち上がった彼女に、ミューシャは気をつけて、と口にしてから言う。
「その人に、自分の気持ち、もっと話したらどう? きっとお互い、楽になれるよ」
アストリアーデは頷き、そして礼を言って、教会を後にする。
教会を出てすぐ、アストリアーデは途方に暮れてしまった。
周囲を見ることもせずに必死で走って来たので、どうやって帰れば良いのか全くわからない。
引き返してミューシャに道を聞こうかと思った時、腕を強く掴まれた。
「……サリュートア」
振り返ると、よほど走り回ったのだろう、肩で大きく息をしている兄の姿があった。
「何で勝手に居なくなるんだ!! どれだけ心配したと思ってる!? 叫びながら走ってるのを見たっていう人がいたから……」
彼がこんなに感情を露わにして怒るのを、初めて見た。
「ごめんなさい……本当に」
アストリアーデは、そう言って、ただ頭を下げる。
サリュートアのまだ荒い息遣いは聞こえたが、もう彼はそれ以上、何も言わなかった。
ゆっくりと顔を上げた目の前で、泣きそうに歪む兄の顔を見て、アストリアーデも、また少しだけ泣いた。
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