交差 2

 ◇ ◇ ◇


「どうして、これとこれが組み合わさると『イーヴァ』になるのかしら?」

「ええ!? 知らないわよそんなこと。そういう――ルールなのよ、きっと」

「ふーん」


 ウィリスから何度目かの質問をされ、アストリアーデはもう面倒になってそう返事をする。

 あれからアストリアーデは、それならばまず字を覚えたらどうかと提案してみた。自分が知っていることを色々話すのも良いが、字を知っていればこれからもきっと役立つと考えてのことだった。

 マーサはあまり乗り気ではないようだったが、ウィリスが期待の目をじっと向け続けたので最後には折れ、せっかくならと彼女も一緒に勉強をすることとなった。

 教科書はイーヴァ・イーヴァの本、紙とペンはどこかからマーサが持って来てくれたので、それを使ってアストリアーデの『授業』が始まる。

 彼女自身、勉強も好きではないし、成績もお世辞にも良いとはいえない。だが、字を教えるくらいなら簡単だろう。

 そう考えていたのだが――。


「どうして、こっちの点がこっちに移動すると、違う字になるの?」

「それはそういう形って決まってるの!」

「どうして、この字の次にこの字が来ると、読み方が変わるの?」

「だから、そういう風に決まってるんだって!」


 サリュートアだったら、もっときちんとした答えを返せるのかもしれないが、何も知らない状態の人に何かを教えるというのが、こんなにも難しいことだとは知らなかった。

 もっと早くに知っていたならば、先生に的外れな質問をわざとして、受けたくない授業を滅茶苦茶にしたりはしなかったのに、とアストリアーデは無責任なことを思う。

 ウィリスも頑張ってはいるものの、意欲も明らかに失せてきていて、アストリアーデとしても自分から提案したことを、このまま終わりにしてしまうのは悔しかった。

 そんな二人の様子を見兼ねたのか、マーサはイーヴァ・イーヴァの本をさっと手に取り、それを軽く振りながらアストリアーデに微笑んでみせる。


「え?」


 意味がわからず尋ねると、今度は彼女は口をパクパクと動かしながら、体も左右に動かした。


「ああ、節をつけて読めってこと?」


 マーサはそれを聞き、にっこりと頷く。アストリアーデは少し考えてから、マーサに向かって頷きを返した。


「そうだね。丸暗記するなら、それでも一緒か」


 そちらの方が覚えやすそうだし、何より楽しそうだ。ただ字を書くだけの勉強よりもずっといい。

 そう思い、アストリアーデはウィリスに向き直ると、やや改まった態度で言う。


「ちょっと、勉強のやり方を変えます」

「どういうこと?」

「今からやって見せるから待ってて」


 アストリアーデはひとつ大きく呼吸をし、それから歌い始める。一度マーサの前で歌ってみせたから、それほど緊張はしなかった。

 最初は困惑していたウィリスの表情は、楽しげな歌に見る間に明るくなり、瞳は輝き出した。

 歌にあわせて嬉しそうに手を叩き、やがて彼女も立ち上がると、一緒になって歌い出す。聞こえるまま歌い、最初は怪しかったその内容も、段々とらしくなってくる。

 自信がついてきて、明瞭に歌われ始めたウィリスの歌は、驚くほど上手かった。アストリアーデがわざわざ歌って手本を見せるのが恥ずかしくなるほどだ。美しい声で、まるで水を得た魚のように生き生きとした表情で歌う。もう質問をすることもなくなり、ただ音符を読むように文字を歌に変え、あっという間に詩を覚えて行く。

 アストリアーデも節を覚えていないものは、ウィリスと一緒に作って歌った。

 まずどんな物語なのかをアストリアーデが話し、それからこっちの音の方が良いとか、もっと速く歌った方が良いとか、そうやって議論しながら新しい歌を作り上げて行くのは、面白い作業だった。

 実際イーヴァ・イーヴァには特定の作曲者というのはいないし、様々な歌い方が伝わっている。

 マーサも、彼女が覚えている節とは全く違うものになっても喜んでくれた。二人が揉めた時には、どちらが良いかをマーサが決めた。

 静かだった屋敷に、歌声が流れていく。

 囚われの身ということを忘れてしまうくらい、アストリアーデもただそれに没頭し、楽しんだ。


 ◇ ◇ ◇


 目の前に、湯気の立つカップが差し出される。

 サリュートアは躊躇いがちに手を伸ばし、それを受け取った。カップを落としてしまうようなことはなく、きちんと握っている感覚もわかるし、手のひらに温かさも伝わってくる。中にはスープが入っていた。

 少女の方に視線を向けると、彼女は大丈夫とでもいうように、小さく頷く。

 ここまで来て警戒しても仕方がないだろう。起き出した腹の虫は暴れ始めているし、食べなければ、いずれは飢え死にするしかない。

 サリュートアはカップをゆっくりと口に近づけてみる。とても良い匂いがした。唇に触れたスープは温かく、熱すぎるということはなかった。唇を少し開いてスープを流し込むと、多少口内に刺激を感じはしたが、旨みと温かみがじわりと広がる感覚に、それも次第に薄れていく。

 スープは喉を通り、体へと染み渡っていった。生きているという実感が、また強さを増す。


「回復が随分早いんだね。もう動けて、食べられるようになるなんて」


 その様子を見て、少女が言った。


「あ……」


 サリュートアはカップを下ろすと少しだけ声を出してみる。それほどの問題はなさそうだった。


「そんなに、酷かった?」


 ゆっくりと紡ぎ出した言葉に、少女はまた頷く。


「そうだね。命に別状はないとは思ったけど、暫くは身動き出来ないかと思ってた」


 サリュートアは彼女の姿を改めて見た。

 自分よりは少し年上だろうか。髪も短く、着ている服も地味で飾り気がない。口調も、男のようだというのは少し違うかもしれないが、随分とさばさばとしていた。


「そういうの……詳しいの?」


 視線を落とせば見える包帯は、実に綺麗に巻かれている。


「わたしの父さんは、医者だったからね」


 少女は立ち上がって静かに窓に近づき、外に視線を移す。もう大分暗くなって来ているようだった。


「ここの近くに川が流れていてね、そこできみを見つけたんだ」


 彼女はそう言うとこちらを振り返る。

 サリュートアの脳裏に、また轟々と唸る水の映像が閃き、厭らしく踊り始めた。


「あとは一人で飲めるね?」


 少女の声に我に返り、サリュートアは慌てて小さく頷く。彼女は普段、あまり笑ったりしないのだろうと思った。


「そう。水も、ここにあるから」


 彼女はサイドテーブルを動かし、より水差しに手が届きやすい位置へと移動させる。


「あの……ありがとう」


 サリュートアはそう言って顎を少し下げた。まだ大きく体を動かすのはきつい。

 こうして彼女が助けてくれなければ、生きてはいなかっただろう。自分の身を守ることばかり考えてしまったのが恥ずかしかった。


「いや、いいんだ。早く元気になって」


 彼女は首を振り、ベッドから離れると、ドアの方へと向かいながら言った。


「そして、ここから出てって欲しい」


 ドアが閉まり、彼女が姿を消すのを、サリュートアはただ見送ることしか出来なかった。

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