箱庭 2

「ったく、何なの!」


 杖を頼りに、長い廊下をアストリアーデはゆっくりと進む。道は覚えていたが、伴侶のいない道はやけに長く、退屈だった。

 一人で文句を言いながら、ようやく食事をした部屋に戻ると、マーサがぽつりと椅子に座っている姿を発見する。


「あの子は?」


 アストリアーデの声に少し驚いたようだったが、彼女はやがて穏やかに微笑み、心配ないとでもいうかのように頷いた。

 何となくもやもやとしたものが胸に残ったが、自分から様子を見に行くのも癪だったのもあり、アストリアーデはマーサの向かいの席に乱暴に腰を下ろした。

 すると程なくして、目の前にティーポットとカップが静かに置かれる。

 アストリアーデが驚いていると、カップには琥珀色の液体が注がれ、湯気を立て始めた。

 顔を上げてマーサを見ると、彼女は笑い、カップを手で示す。


「プロってすごいんだね」


 そんな感想を漏らしつつ、喉は渇いていたので、早速カップに口をつけてみる。お茶だとは思ったが、飲んだことがない味と香りだった。


「美味しいね、このお茶」


 マーサはどこの生まれなのだろうかと、そんな疑問も頭を漂ったが、アストリアーデは結局それだけを言った。

 それを聞いてマーサは嬉しそうに微笑み、自分の席へと戻っていく。

 その彼女を何気なく目で追っていくと、座る時に手にしたものが少し見え、アストリアーデはつい声をかけていた。


「それ、何? 本?」


 マーサはぴくり、と体を動かす。

 アストリアーデはテーブル越しにそれを覗こうとしたが、よく見えなかったので、杖を持って席を立つと、テーブルを伝ってマーサの方まで移動した。

 やはりマーサの膝の上には、古そうな本が置かれている。


「ね、見せてよ」


 しばらく迷うように本を撫でてから、マーサは本をアストリアーデに渡した。

 きっと大事な本なのだろうと思ったから、彼女は慎重にそれを受け取り、眺めてみる。赤茶けた紙の表紙には、何も書かれていなかった。

 そっとめくってみる。本はとても傷んでいて、気をつけないとページが破れてしまいそうだ。

 中には大きめの文字と、奇妙な挿絵が描かれていた。


「これ、イーヴァ・イーヴァ?」


 何気なくそう言うと、マーサは大きく目を見開き、アストリアーデの腕を掴む。


「痛っ」


 その力が思いがけず強かったので、アストリアーデが声を上げると、マーサはすぐにその手を離し、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。

 その姿を見て、アストリアーデは少し考えてから、また口を開く。


「読んで欲しいってこと?」


 『イーヴァ・イーヴァ』とは古い詩集で、それぞれに節がついている。マーサはそれを聞き、何度も何度も頷いた。


「いいよ。お茶のお礼ね」


 アストリアーデはページを慎重にめくりながら、一番歌いやすそうな詩を探した。


「えっと、これにしようかな」


 彼女は本の中盤、仮面をつけた馬が、豪華なドレスを身に纏って走っている挿絵のところで手を止めた。

 ここは、妖精イーヴァ・イーヴァが、仮面舞踏会に行くためのドレスを魔法で出してあげようとしたところ、間違えて貴婦人を馬に変えてしまうという場面だ。

 アストリアーデは小さく咳払いをすると、歌い始める。


「イーヴァ・イーヴァ、ペス・カレイト、今宵いくわマスカレイド! 馬の貴婦人、ドレスふわり、あわてんぼう! 前脚で踏んづけて、後脚で蹴っ飛ばし――どうしたの!?」


 若干の気恥ずかしさを堪えつつ歌っていると、急にマーサが涙を流し始めたので、慌てて歌をやめる。


「どこか痛い?」


 マーサは首を横に振る。


「じゃあ、あたしの歌が変だった?」


 今度は、何度も力強く、首が横に振られた。


「……懐かしいの?」


 マーサは両手で顔を覆い、繰り返し頷いた。


 マーサはしばらく泣いていたが、アストリアーデが飲んでいたお茶の残りを差し出し、それを飲んでいるうちに落ち着いたようだった。


「もしかして、マーサが勉強をあの子に教えてるの?」


 ふと思い浮かんだことが口から出た。

 マーサは、訳がわからないという顔をしている。


「いや、学校には行ってないみたいだったから、マーサが家庭教師してるのかと思って……」


 マーサは話すことが出来ないと言っていたが、こちらの言葉は聞こえるし、目も見えるから、筆談をすれば意志の疎通はしやすいはずだ。

 そこまで考えて、アストリアーデは気づく。

 彼女が紙とペンを持ち歩いている様子はないし、第一、この屋敷に来てからその類のものを見ていない。もちろん、彼女が筆談をしている姿も見たことがない。


「もしかしたらマーサ、本……読み書きは出来ない、とか?」


 その問いに、マーサは頷く。

 だから、あんなにアストリアーデに本を読んで欲しがり、あんなに喜んだのだ。

 そしてマーサの手にある本を見て、はっとする。


「あの子も、出来ない?」


 マーサは、その問いにも頷いた。

 アストリアーデ自身はそれほど本が好きなわけではない。

 だが、貪るように本を読むサリュートアの姿を思い出すと、どんな本であっても時間を忘れるくらい夢中になって読むことが出来るのだということくらいは理解できる。

 何故だろう。

 アストリアーデは疑問に思う。

 何故、ウィリスの『お父さま』は、彼女に何も教えないのだろうか。

 ずっと家を空けておくならば、残された娘には楽しみはあった方がいい。外にも出られないなら、本くらいは読めた方がいいだろう。

 学校に行けない理由があるのなら、家庭教師だっていい。どうしてもマーサでなければならないなら、彼女が勉強し、ウィリスに教えることだってできるはずだ。

 だが、ウィリスだけではなく、マーサも何も教えられていない。

 そもそも何故、ウィリスは外に出られないのだろうか。

 そんな状況で友達もおらず、ウィリスはマーサと二人きりで過ごしているという。

 想像すると、ぞっとした。

 だから、あんなに必死だったのだ。アストリアーデに逃げられたら、もう次の『お友達』は二度と現れないかもしれない。

 この広い屋敷で、ただ二人で。

 本当はこの二人こそが、囚われの身なのではないだろうか。

 アストリアーデは、そんなことを思った。


 ◇ ◇ ◇


 古めかしい、しみだらけの木の板だ。

 それが天井だとぼんやり認識出来るようになって、やがて体に走った痛みに意識がはっきりとしてくる。

 ギル。――サリュートア。

 自らの名を噛み締めるように確かめると、彼はゆっくりと首だけを動かし、周囲を見た。

 首もとても重たく感じられ、覚えている感覚の通りに動かそうとすると、やはり鈍く痛む。

 ここがどこなのかは全くわからないが、どうやら、命はあるようだった。目前に迫る激しい濁流と息苦しさが思い出され、思わず呼吸が浅くなる。

 目だけをゆっくりと動かすと、肩に包帯らしきものが巻かれているのがわかった。それは誰かが手当てをしてくれたということだ。

 部屋はそれほどの広さはなく、所々板で補強されているところが古さを感じさせた。寝かされている場所の近くには、小さなサイドテーブルが置かれている。その先には、ドアが見えた。

 首を少しずつ戻し、反対側に目を向けると、窓からは明るい光が差している。そこからは豊かに生い茂った緑も見ることが出来た。

 はぁ、と長く深い息を吐く。

 体はあちこち酷く痛むが、それが自分がまだ生きているという実感に繋がった。

 だが、そのことに安堵すると同時に、様々なことが脳裏をよぎり、ずっと目覚めないほうが楽だったのではないかと囁く声の余韻が、最後に粘りつくように残る。


『サリュートアって、いつも考えすぎなんだって』


 一転して明るい声が聞こえたような気がして、助けを求めるように視線を彷徨わせても、もちろんどこにもアストリアーデの姿はない。

 離れ離れになってから、いつも気がつけば妹の姿を探している自分がいた。

 考えもせずにすぐ一人で突っ走って、頼りない妹だと思っていた。だから、自分が支えてやらなければいけないと感じていた。

 けれども彼女の明るさに、ふとすれば思考の中にどっぷりと浸り、囚われてしまう自分の方がよっぽど救われていたのだと、離れてみて初めて気づいたのだ。

 彼女の何気ない仕草や一言に、どれほどの力があったことか。

 その笑顔も言葉も、もう隣にはない。

 これからどうすれば良いのかもわからない。

 心細くて、不安で、その暗い圧力に押し潰されてしまいそうで、それに必死に抗おうとしても、体は情けなく震えるだけだった。

 その時、物音がした。

 サリュートアはすぐに目を閉じ、寝ているふりをする。

 ドアの軋む音がした後、忍ばせた足音がこちらへと近づいてきた。意外に軽い足音だ。液体が容器に当たって跳ねる音も僅かに聞こえた。

 足音はすぐそばで止まり、コトリと何かがぶつかる音がする。先ほど見えたサイドテーブルに、飲み物か何かを置いたのだとサリュートアは思った。

 細心の注意を払いながら目蓋に意識を向け、薄っすらと開ける。

 その隙間から見えたのは、自分とそれほど歳も違わないように見える、少女の姿だった。

 その少女の顔が急にこちらへと向く。

 意志の強そうな瞳に覗き込まれ、サリュートアは起きているのがばれるかもしれないという不安で鼓動を逸らせながら、それでも呼吸を自然な寝息に聞こえるように意識を巡らせる。

 少女の短く切った髪がさらり、と揺れ、彼女は再び体を起こすと、静かに部屋を出て行った。

 足音が遠ざかるのを確認してから、サリュートアは大きく息をつくと目を開け、サイドテーブルを見る。思ったとおり、水差しとカップが置かれていた。

 あの少女は誰なのだろう。そして、ここはどこなのだろう。

 そんなことを考えているうちに、サリュートアの意識は次第に遠のいて行き、再び深い眠りに落ちていた。

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