箱庭
箱庭 1
アストリアーデが自らの名を告げると、ウィリスの表情は見る間に綻んだ。
彼女の周囲に輝く光が実際に見えたような気さえして、アストリアーデは思わず目をしばたたかせる。
「わたしはウィリス! ウィリスよ!」
それはもう聞いたと返す間もなく、右手をがっしりと掴まれ、勢いよく引っ張られた。
「ちょ――痛い! 痛いから!」
「あ……ごめんなさい」
痛みに声を上げると、彼女は慌てて手を離し、しゅんと小さく体を縮こまらせる。ついさっきまでとの落差に、アストリアーデは思わず吹き出してしまった。
それを不思議そうに見ていたウィリスも、照れたような表情で笑う。
「マーサ! アストリアーデちゃんって言うんだって! わたしのお友達よ!」
そう嬉しそうに声を上げる彼女に、後ろに控えていたマーサも嬉しそうに何度も頷いた。
友達なんかじゃないという言葉が喉元まで出かかるが、それは口には出さなかった。
大体、学校には挨拶を交わすだけの『友達』だって沢山いる。お互いに名乗って喋っているのだから、似たようなものかもしれない。
何よりウィリスが本当に嬉しそうで、心の底から嬉しそうで、とてもそんなことを言えなかったのだ。
◆
翌日の朝早く、アストリアーデはウィリスの声に起こされた。
とはいっても直接ではない。部屋の外から聞こえてくる。
『アストリアーデちゃん、まだ寝てるのかな? 起こしたらダメ?』
恐らくマーサに話しかけているのだろう。声を潜めているつもりなのだろうが、喋っているうちにすぐに声が大きくなる。その後すぐにまた小さくなるのは、マーサが窘めているに違いない。
だが、そもそも小さな声と言っても十分な大きさであるし、何度もそれを繰り返されれば、気にするなという方が無理だ。
「何なのよ、まったく」
そう毒づくと大きくため息をつき、アストリアーデは恐る恐る足を床につけた。昨日よりも、確実に痛みは引いている。
そのまま家具に掴まりながら移動し、ドアを開けた。
「あのさ――」
「アストリアーデちゃん、おはよう! よく眠れた?」
アストリアーデの抗議は、ウィリスの無邪気な笑顔と声に力なくかき消される。視線を逸らせば、申し訳なさそうにしているマーサと目が合うのだから、アストリアーデはまたため息をつくしかなかった。
着替えを済ませると、ウィリスに連れられて部屋を出る。
窓から射す光が、屋内に明るい模様を添えていた。
案内されたのは、他に比べると質素な部屋だった。中央に置かれたテーブルを囲むようにして、四つの椅子が置かれている。
部屋の中には良い匂いが漂っていて、食器がぶつかり合う音がしていた。続きの部屋は台所になっているようだ。
「さ! 座りましょう!」
ウィリスに促され、先に奥に座った彼女の向かい側に座ると、すぐにマーサが食事を運んで来た。
焼きたてのパン、小ぶりなオムレツとサラダ、野菜が多めのシチューと紅茶。
「美味しそう! いただきます!」
アストリアーデが料理を眺めているうちに、ウィリスはさっさと一人で食べ始めてしまう。それを呆れて見ていると、マーサがアストリアーデにもどうぞと言うかのように、料理を手で指し示した。
「じゃあ、いただきます」
マーサの作る料理は、とても美味しかった。
昨晩も口にしたが、冷め切っていた上、あまり味わって食べられるような状況でもなかったから、きちんと食べるのは初めてとも言える。
簡素といえば簡素だが、どれも彩が良く、食欲をそそるものだった。オムレツはふわふわと口当たりが軽く、シチューは程よくとろみがある。そして、あまり食べたことのないような変わった味がした。
良い朝食に感謝もしたが、食べながらアストリアーデは、家での食事のことを思っていた。
色々な場所で食事をするようになってから、ジェイムの料理はとびきり味が良いというわけではない、というということがわかったが、それでもアストリアーデにとっての家庭の味は、彼の作ってくれる料理だった。
色々文句を言ったりもしていたが、今はただ、あの味が懐かしい。
ふと顔を上げると、ウィリスがじっとこっちを見ていたので、すぐに視線を目の前の食事に戻し、知らん顔をした。
まるで珍獣にでもなったかのような気分だ。
アストリアーデは大きく溜息をつき、パンをちぎると口の中に入れた。
朝食の後。ウィリスは連れて行きたいところがあるのだとアストリアーデに言った。
逸る気持ちを抑えるのが大変なのか、廊下を歩く足は段々速くなり、度々走り出しそうになっては、二人の距離が空いてしまったのに気づき、急に立ち止まる。マーサから杖を借りたアストリアーデは、その後をゆっくりと進んだ。
その間、多くの扉や調度品の前は通ったが、人と会うことは全くない。顔を巡らすと、待ちきれないようにこちらを見ているウィリスと目が合った。
アストリアーデは慌てて足をまた動かす。
そうこうしているうちに、目に入る光の量が次第に増え、風が肌に触れるのが感じられるようになってきた。
外だ。――そう思うと、杖を持つ手に力が入り、足の動きも自然と速くなる。
一足早く到着していたウィリスが開けたガラス扉の向こうには、花が咲いていた。
アストリアーデが早速外へ出ようとすると、ウィリスはそれを手で制し、しっと人差し指を唇に当てる。
だが周囲には、誰の姿も見当たらない。
「ああっ、逃げちゃった」
そうして、彼女は残念そうに息を漏らした。
「時々ね、鳥さんが来るの」
とても綺麗な鳥で、絶対に見せたかったのにとしょげるウィリスに、アストリアーデはどう声をかけたら良いのか迷ってしまう。
「でも、いいわ」
しかし、彼女はぱっと顔を上げると、にっこりと微笑んだ。
「アストリアーデちゃんがいるもの。それだけで幸せだわ。――ねぇ、来て!」
そしてそのまま手を引かれ、外へと急かされる。
不思議な感覚だった。
近くで見るウィリスの顔立ちは整っていて、大人びている。ただ並んで座るだけならば、アストリアーデの方が幼く見えることだろう。けれども彼女の言動は、まるっきり小さな子供のようだった。言葉遣いだけではない。さっき落ち込んだかと思えば、もう何事もなかったかのように笑う。
それとも、自分も周囲からは、そういう風に見えるのだろうか。
「ここは、わたしだけのお庭なのよ」
そんなことをぼんやりと思っていたら、ウィリスの声で我に返る。
「へぇ」
自分でも間の抜けた返事をしたなと思ったが、ぼんやりしていなくても、同じような返事を漏らしていたかもしれない。
庭には色とりどりの花が咲き誇っていた。赤いアジラ、黄色と紫のリフィエウス、白いレティア=ミシア――アストリアーデも知っている花もある。レティア=ミシアは、自宅の中庭にも咲いていた。
花はそれぞれ陽光を受けようと、精一杯伸びをしているかのようにも見える。
周囲は高い壁で囲われて、外の景色は見えなくなっている。どうやら、中庭と呼べる場所のようだった。
綺麗な空間とは言えるのかもしれないが、アストリアーデとしては物足りない。数日は広い外の世界を見ていないから、なおさらだった。
上を見上げると、空は切り取られた絵のようで、何だか現実味がない。
「外には出られないの?」
そう言うと、ウィリスは不思議そうな顔でこちらを見る。
「ここがお外じゃない」
「ここは中庭でしょ? せめて外庭とかさ」
「ソトニワ?」
どうやら本気で困っているらしい彼女に、アストリアーデは聞き方を変えてみることにする。
「人の家に行ったりとか、街に出たりしないわけ?」
「しないわ。わたしはお家にいなきゃいけないんだもの」
「何で? 出たいと思わないの?」
「お父さまの言いつけは、守らなくちゃいけないのよ」
にべもない返答だった。それが絶対で、その他の答えはまるで用意されていないかのようだ。
アストリアーデは息を小さくつくと、周囲を見回してみる。すると向こう側の壁の奥のほうに、小さな門のようなものがあるのが見えた。
「あっちに見える門みたいなのは?」
「あれは、お母さまのお庭なの」
「お母さん?」
「ええ、お母さま、わたしが小さい頃に天に召されたんですって。だから、わたしは何にも覚えてない」
「そう……」
悪いことを聞いてしまったように思い、ウィリスの顔を窺うが、特に気にしている様子はなかった。覚えていないからなのかもしれないが、それも悲しいことのようにアストリアーデには思えた。
「お父さん……は、何してるの?」
話を変えようとそう言ってはみたものの、ウィリスの口からは出てくるが、全く姿を見せない『お父さま』のことも聞いたらまずいのではないかという思いが一瞬よぎる。
「お父さまはね、とってもお仕事が忙しいから、なかなか帰ってこられないの。だからいつも、マーサと二人でお留守番なのよ」
「そうなんだ」
だが、そうではなかったようで、少しほっとした。
では普段彼女はずっとマーサと二人きりなのだろうか。
「あんた、学校は?」
この状況で、ウィリスが学校に通っているとも思えない。それでもアストリアーデは、そう尋ねていた。
けれども返ってきた答えは、予想もしないものだった。
「ガッコウって何?」
彼女は目を丸くし、不思議そうに問う。
アストリアーデは思わずその目をじっと見ていた。嘘をついているようには全く見えない。
「勉強……するところだよね。基本的に」
そう自分に言い聞かせるように頷き、もう一度ウィリスを見る。
「ホントに知らないの?」
彼女は少し困ったように視線を彷徨わせ、上目遣いでこちらを見返すと、ゆっくりと口を開いた。
「……おかしいかな?」
「おかしいって、絶対!」
アストリアーデが力をこめて言った途端、ウィリスの表情がさっと曇る。
「わたし、先に中に入ってるね」
「あ――」
そうしてウィリスはさっさと背中を向けて行ってしまう。アストリアーデは呆然とその後姿を見送った。
気まずさに襲われたが、でもやっぱり、おかしいと思ったものを、おかしくないなんて言えないと思った。
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