軌道 2
◇ ◇ ◇
また、夜が来た。
アストリアーデは、すっかり冷めてしまった食事を見る。食事は、サイドテーブルへと移されていた。
食べる気はあまり起きないが、体は空腹を訴えている。
これじゃ、何だかカッコつかない。
そんなことを思ったりもした。
もし、最悪の場合――たとえば、近いうちに殺されるとして、もしくは、ずっとこのままこの家に閉じ込められたとして。
想像するだけでも怖ろしかったが、でも、その瞬間まで、自分はずっとこのまま、周囲を恨んで、世界を呪って、泣いて過ごすのだろうか。
正直、そちらの方が耐えられそうもなかった。
「……しょうがないか」
アストリアーデはそう呟くと、サイドテーブルにある食器を引き寄せた。
腹が満たされると、朦朧としていた頭も体もあたたかくなり、生気が戻ってきたように感じられた。
先ほどまで全くなかった気力も湧いてくるから不思議だ。
そういえば今まで、ここまで物を食べないという経験をしたことはなかったかもしれない。
少し明るくなったように思える視界に、ドアが入った。
アストリアーデは一人頷くと、慎重にベッドから降りる。
周囲のものに掴まり、時には床を這うようにして移動して、やっとの思いでドアまでたどり着き、ドアノブに掴まる。回してみると、ドアは少し軋む音を立てながら開いた。
痛めた足に負担をかけないよう気をつけながら、顔を傾け、廊下を除くと、黒いつぶらな瞳と目が合う。思わず声を上げそうになったが、それは何とか喉の奥に押しとどめた。
ドアの脇には椅子が置かれ、老女と少女が座っていた。
黒い瞳の主は、老女だった。彼女はこちらをじっと見ている。少女は彼女にもたれかかり、寝ているようだった。
「トイレに行きたいの」
アストリアーデが小声でそう言うと、老女は微笑んで頷く。そして少女を起こさないように、静かに椅子から立ち上がると、アストリアーデの腕をそっと取り、導いた。
アストリアーデは素直にそれに従い、今度は老女を支えにして足を進める。
老女は歩幅を調整しながら、ゆっくりと歩いた。
ふかふかとした絨毯の上を、老女に支えられて歩きながら、アストリアーデは可能な限り周囲を見回し、観察する。この機会に、出来るだけ屋敷の内部を知っておきたかった。
すぐに逃げるつもりはない。何より、この足では満足に動けない。
チャンスを待つつもりだった。そのためには情報も必要だ。情報収集が基本というのも、サリュートアが教えてくれたことだった。
そして、今になってようやく気づいたことがあった。
今まで混乱していたこともあっただろうし、また、あまりにも馴染んだ状況だったからということもあるかもしれない。
この屋敷の天井も、妙に明るい。
今も、そして最初に部屋を飛び出した時も、もう夜だというのに、廊下も明るかった。
間違いなく、『遺産』だろう。
『遺産』がどういう仕組みで動いているのか、どうしてあったりなかったりするのか、アストリアーデにはさっぱりわからない。
けれどもわかっているのは、『普通の家』にはないということだ。
アストリアーデたちの住む家は、恐らく『普通』という範疇には入らないだろう。
では、ここはどうなのだろうか。
でも――と、アストリアーデは思った。
ナオは何かの目的があって、この家へとアストリアーデを連れてきたのだ。
「あの! もう大丈夫……なの?」
トイレから出ると、すぐに声をかけられた。予感はしていたから驚かなかった。あの少女だ。
といっても、単に興奮して老女に話しかける大きな声が、ドアの中まで聞こえてきたというだけだったが。
老女は素早くアストリアーデのそばまで来ると、彼女の手を取り、体を支える。
少女はどこか怯えたような目でこちらを見ていた。
足はまだ痛くてまともに歩けないし、大体がこんなところに閉じ込められて大丈夫な訳などない。それとも、おかげさまで大丈夫よとでも言ってやれば良いのだろうか。
そんな思考がとりとめもなく浮かび、アストリアーデが黙っていると、少女は一旦目を伏せ、唇を噛むようにしてから、また口を開いた。
「お名前! あなたのお名前、まだ聞いてない」
アストリアーデは、少女の目をじっと見返す。
揺れる感情を湛える水色の目の、でもその底で光るきらきらとした好奇心は、まるで幼い子供のようだった。
アストリアーデは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。
そして再び目を開くと、答えを口にした。
「アストリアーデ。――アストリアーデ・フローティア」
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