軌道
軌道 1
「サリュートア――!?」
苦悶の声とともに、アストリアーデは目覚めた。
全身に汗をびっしょりとかいている。胸騒ぎが止まらない。
「サリュートア」
サリュートアは、無事だろうか。
幼い頃、これと似たような感覚に襲われたことがある。サリュートアと二人で、『鎮守の森』で遊んでいた時のことだ。
怖くてたまらなくなり、姿の見えなくなったサリュートアを探してもらおうと、必死でジェイムに訴えかけたのを覚えている。
その後サリュートアは、足を痛め、森の中で動けなかったところを発見された。
ナオは彼が無事だと言っていたが、アストリアーデのことも騙したのだから、本当のことを言っているとは限らない。
考えれば考えるほど、胸の中をかき回されているような嫌な感覚が強くなる。
呼吸はまだ荒く、全身もべっとりと気持ち悪くて寒気がする。思わず両手をぎゅっと握り合わせた。
ふと、視線を落とす。彼女は、ベッドに居た。
清潔そうな真っ白なシーツがずれ、服が露になっている。ここに来た時と同じ服装だった。
続いて周囲を見回す。誰も居ない。
アストリアーデは体を軸にし、回転させると、足をそっとベッドから下ろした。
「っ――!?」
だが、体重を乗せた途端、足首に激痛が走る。
その痛みに体を曲げたアストリアーデは、そのまま床へと倒れこんだ。思わず掴んだサイドテーブルの上の水差しが倒れる。それは金属製だったため、水と共に大きな音が辺りに撒き散らされた。
すると、部屋のドアが唐突に開く。
「大丈夫――!?」
そして、慌てた様子でこちらへと駆け寄ってくる者がいた。
あの少女だ。
アストリアーデは思わず身を硬くし、近づく少女を腕で跳ね除けようとした。けれども不自然な体勢と、足の痛みで思うような動きにはならない。
だが、少女はアストリアーデの剣幕に圧され、一歩後ずさる。
「あの……あなた、階段から落ちて、気を失ってしまったから、ここへ運んできたの。足、痛いのね?」
アストリアーデは、答える代わりに少女を睨みつけた。少女はびくりと体を震わせたが、今度はその場を動かなかった。
足首を動かすと、鋭い痛みが走る。でも、動かさなければどうということはなかった。捻っただけかもしれない。
だが、しばらくの間は走って逃げることは難しいだろう。
「えっと、あのね、あなた今までずっと一日中、寝てたのよ。すごく疲れてたのね。……そうだ、お腹もすかない? 食事を用意したの。マーサのお料理、とっても美味しいのよ」
少女は、部屋の中央に置かれている小さな丸テーブルに置かれた盆を指差して言う。ほんのりと湯気が立っているところから、まだ運ばれてからそんなに時間が経っていないのだろう。
だが、食事などする気には到底なれない。こんなに胸が締め付けられるようで、苦しいのに。
少女のわざとらしく明るい表情も、上ずって裏返っている声も、全てが癇にさわり、苛々した。
「出てって」
「えっ……?」
倒れた水差しに目を向け、そちらへ近づこうとした少女は、驚いたように小さく声を上げる。
「出てけっていってるの! もうあたしに構わないで!」
アストリアーデは再びそう言い放つと、もう少女の方は見ずにベッドへと戻り、頭からシーツを被った。
そのまま、胎児のように体を丸める。
少しの後、ドアが閉まる音が聞こえた。
何故。
何故、こんな目に遭わなければいけないのだろう。
自分が、一体何をしたというのだろうか。
そんな風に思うと、また涙が体の奥から湧き出し、溢れ出す。
アストリアーデは、声を殺して、また泣いた。
泣いても泣いても、まだ涙は枯れることはなく、ベッドを濡らして、頬に嫌な感触を残す。
ぼんやりと視界を覆う白いシーツが、何故か母の着ていたワンピースを思い出させた。
『お母さん』
ずっと前、母に尋ねてみたことがある。
『あたしの取り柄って何かな?』
唐突なアストリアーデの質問に、母は不思議そうにこちらを見た。
天気の良い春の日のことだった。中庭で母は、お気に入りのサラウェアのお茶を飲んでいた。
『えっとね、サリュートアは勉強が出来ていつも学校トップの成績だし、スポーツも何でもこなすし……あたしには何があるのかなって。――あっ、カワイイっていうのは今回なしね!』
母はそれを聞いて、しばらくの間笑っていた。
あまりにも笑い続けるので、流石に馬鹿にされている気がして、文句を言おうとした時だ。
『そうですね、沢山あるけれど……一番は、その明るさでしょうか』
母は、タイミングを計っていたかのように笑うのをやめ、そう言った。
あの母のことだから、実際そうだったのかもしれない。
『明るさ?』
今度はアストリアーデが首をかしげて母を見る番だった。
母はにっこりと微笑むと、アストリアーデの分もお茶を淹れ、手招きをした。
『アストリアーデ。あなたが居るだけで、その場に花が咲いたみたいにぱっと明るくなります。その前向きな明るさは、周囲の人も前向きにするんですよ』
『えー、そんなの面白くないよ。サリュートアにだって、「いつも君は能天気でいいね」とかバカにされるし』
口を尖らせ、拗ねたようにお茶を飲むアストリアーデを見て、また母は穏やかに微笑んだ。
そして、その碧い目がアストリアーデに真っ直ぐに向けられた。
『それは、素晴らしい才能ですよ。サリュートアもあなたの輝きに助けられていることに、まだ気づいていないだけです』
「無理だよ……こんな時に、どうやって前を向けっていうの?」
アストリアーデは、掠れた声でそう呟く。
その言葉に、母からの答えが返ってくることはなかった。
◇ ◇ ◇
雨が止んでも、増水した川は凶暴ともいえる速さで流れていた。
濁流が、少年の姿を浮かび上がらせることはない。
オーファたちは地元の住民にも支援を頼み、捜索を行ったが、思わしい結果は得られなかった。
昨夜、執事との押し問答に見切りをつけ、屋敷に強引に入ったまでは良かった。思ったほどの混乱や抵抗はなく、目的の部屋まで進むことが出来た。
だが、屋敷には囚われているはずの女たちの姿はなく、彼女たちを誘導し、避難させるはずのナオの姿もなかった。
その部屋が、『リポーター』が置かれていた部屋であることは間違いない。『リポーター』が消滅しても、『リーダー』へ送られた記録は残る。
部屋は綺麗に片付けられ、誰かがいた痕跡は綺麗に消えていた。
『リポーター』が日の光に反応するという性質上、設置されたのは夜であると考えるのが妥当だろう。さらに、昼間よりも人の目を盗んで行動しやすくなる。
そして、目につくという危険を避けるならば、やはり昨日の夜だ。
もし何らかの理由があり、ナオが女たちを連れ、ここを脱出したとして――だが、ギルから聞いた囚われの者はナオを含めて六人。それだけの人数で移動して、果たして誰にも見つからずに逃げることは可能だろうか。
ナオはともかくとして、訓練もしていない一般人が成し遂げるには、難しいように思える。
そして、ナオからの連絡はなく、彼女は姿も現さない。
ならば、何かを勘づかれ、移動させられたのか。
戸惑うオーファに向かって、玄関でやりあった執事は、不当捜査で訴えてやると勝ち誇った笑みを浮かべていた。
ギルは、生きているだろうか。
でこぼことした、人気があまりない道を歩きながら、オーファは少年の顔を思い浮かべる。
もちろん、諦めてなどいない。
だが、あの荒れ狂う流れを思い出すと、前向きな感情が雲に隠れるかのように翳った。
今もバートを筆頭に捜索が続けられているが、現段階では、あまり詳細には出来そうもない。探す方まで流れに巻き込まれてしまっては意味がない。
バートは青ざめた顔をしていた。彼は軽い風を装っているが、責任感の強い男だ。
彼は理由を口にしなかったが、ギルにあからさまに絡んでいたのも、他の者のギルに対しての気持ちを代わりに発散させ、ギルへの不満が爆発したり、軋轢を大きくしないためのものだということはわかった。
だから止めはしなかったし、それは少年を守ろうとする行為でもあったから、彼のことはバートに任せてみようと思ったのだ。
担当であった以上、確かにバートには責任がある。
だが指揮官はオーファであり、バート一人に任せることにしたのもまたそうだ。
そして、連れ去られた女たちもまた、救出しなければいけない。こちらも、一刻を争う事態だ。今の状況で、ナオが何とかしてくれているなどと考えるのは間抜けすぎる。
オーファたちは、あの屋敷の情報を急いで集めていた。土地や家から、関わっている人間まで。恐らく偽の情報だらけだろうが、必ずどこかに綻びはあるはずだ。
「――くそっ!」
こみ上げてくる感情に、思わず声が口から漏れ出る。きつく握り締めた拳が、ぎりぎりと痛んだ。すれ違った若い男が体を強張らせ、こちらから視線を外すのが目の端に映る。
空は憎々しいほどに澄み渡り、明るい日差しが降り注いでいた。
あの時、雨が降っていなければ、また結果は違っただろうか。
――いや、そんなことを考えても仕方がない。あるのは今の結果だけだ。
オーファはあの少年に、「死ぬ覚悟はあるか」とは聞かなかった。
それは、自分たちが必ず守ると考えていたからだ。
それすらも出来ず、助けてやると言った妹の行方もわからず、捜査も全く進展していない。
あまりにも、不甲斐なかった。
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