夜雨 2
◇ ◇ ◇
アストリアーデは、今どうしているだろう。
サリュートアは、妹のことをぼんやりと思った。
まだ数日しか離れていないというのに、まるでずっと会っていないかのような感じがする。
だが、彼女は結構肝が据わったところがあるから、きっと大丈夫だろう。任事官もそばについていることだし、問題はないはずだ。
それでも、不安はざわざわと、静かになる様子を見せない。
それを一生懸命抑え込んでいた時、オーファの停止の合図が示された。
サリュートアはそれを馬へと伝える。馬は鼻を鳴らし、速度を緩めていった。
もうすぐだ。
すぐに、助けに行く。
「バート、お前はギルと組め」
作戦を決行する直前になり、オーファはバートにそう指示を出した。
覚悟はしていたのだろう。バートは「へーい」と軽い言葉を返したのみだ。
そして彼はサリュートアの方を向くと、舌を小さく鳴らす。
「何だよおめー、その不満そうなツラは」
「……別に」
顔に出したつもりはない。だが、仕方ないとはいえ、正直、嫌だった。
あれからもバートには、事あるごとに絡まれた。
あまり認めたくはないが、彼のアドバイスは実際に役に立ち、馬も以前よりずっと速く走るようになった。そのおかげで、皆からも遅れることはあまりなくなった。
けれどもバートは、不満に思うことをいちいち気遣いもなく、ストレートに言ってくる。口も悪いし、言い返せば子供のようにムキになる。付き合いにくいことこの上ない。
オーファもそれを見ても何も言わず、助けを求めるような視線を向けてもニヤニヤ笑っているし、サリュートアに味方してくれる者は誰もいなかった。
その代わり、不満を態度や視線でぶつけてくる者もいなくなったが。
だがオーファは指揮官という立場ではあるし、お荷物であるサリュートアを抱えておくわけにはいかないのだろう。他の者には相手にもされていないし、唯一構ってくれるバートが適任というわけだ。
自分が厄介者だという自覚はある、無理を言ってついてきたのだから、そのくらいは我慢するしかない。
「宜しくお願いします」
サリュートアは殊勝にもそう言って、頭を下げる。
作戦開始と共に、任事官たちは速やかに散った。
屋敷のことを詳しく調べる時間はなかったが、事前に入り口や窓などのある場所の確認はした。
オーファは玄関から堂々と訪ね、主に取り次いでくれるよう、執事らしき者と交渉している。
その間に数人の任事官は、高い塀を越えて屋敷の庭へと侵入していた。
サリュートアとバートは塀の外で待機し、周囲を油断なく窺っている。
同じ役目を与えられている者は他にもいたから、サリュートアたちだけが外にいるわけではないが、一番安全な持ち場であることは確かだ。
しばらく、雨の音だけが大きく聞こえていた。それでも、緊張した空気は辺りに漂っている。
やがて、怒鳴り声や銃声が聞こえ始めた。交渉が決裂したのだろうか。だが、その音が遠いため、サリュートアには戦いが始まったという実感はあまり湧かなかった。
屋敷の外は静かで、人が動く気配もない。そうなると緊張も続かず、手持ち無沙汰な感じもしてくる。自分が動けないというのも、どうにももどかしい。
「ギル、ここを動くなよ」
突然バートが声を出したので、サリュートアの心臓が跳ね上がった。
呼吸をし、顔を向けると、もうすでにバートはこちらに背中を向けていた。何か不審なものでも見つけたのだろうか。
サリュートアは少し身を硬くし、左右に視線を何度も向ける。
どのくらいそうしていただろうか。
道の先に、何かが光るのが見えた。それは、バートが向かったのとは逆の方向だ。
首を巡らせる。バートが戻ってくる様子はまだない。
動くべきではない。それは理解していた。
大声でバートを呼ぼうか、とも思う。しかし、それで作戦を台無しにしてしまったらどうしようもない。
ならば、このまま待つのか。
だが、バートがいつ戻って来るのかもわからない。もしかしたら、戻って来られない状況にあるのかもしれない。考えたくはないが、そういうことだってあるだろう。
そして――もしあの光が、アストリアーデと関係のあるものだったとしたら。
確認しに行くだけだ。何かを見つけたら、また戻って来て報告すればいい。
サリュートアはそう結論づけ、もう一度、バートが戻って来ていないかを確かめてから、静かにその場を離れた。
慎重に、塀沿いに歩く。
空は段々と白んできているが、雨雲が覆っていることもあり、まだまだ暗い。
(――!?)
その時、サリュートアの目が塀の上に動くものを捉えた。咄嗟の判断で、壁にぴったり張り付くようにして身を隠す。
人影だった。それは、塀の上から、地面へと降り立つ。
サリュートアの全身に、衝撃が走った。
纏わりつく水滴を、鬱陶しそうに振り落としているその人物は――リアだった。
赤い瞳が、こちらへと向けられる。
サリュートアが声を発するより早く、リアが口を開いた。
「あら。誰かと思ったら、あの時の坊やじゃない」
雨音は相変わらず、ざあざあとうるさい。
「動くな!」
サリュートアは腰に帯びた剣を引き抜き、リアへと向けた。そのままじりじりと間合いを詰める。
憎しみと怒りがふつふつと体内を燃やし、瞳に集められた。
こいつのせいで、こんなことになった。
「坊やのせいで、こんな面倒なことになったってことか」
だが、思うところは同じようだった。リアも不機嫌そうに顔を歪める。そして腰へと手を伸ばした。
「あの時、殺しておけば良かった」
彼女は銃口をこちらへと向け、定める。
「アストリアーデはどこだ!?」
サリュートアの問いに、リアは心外だとでも言うように声を漏らした。
「知らないよ、そんなの。あのナオとかいう女がどっかにやったんじゃない?」
「何だって!? ――どういうことだ!?」
言っている意味がわからない。
アストリアーデを連れ去ったのはリアで、ナオはその事件を解決するため潜入した任事官だ。
「さぁ? あたしの知ったこっちゃないね。それよりさ、見逃してくれない? あたし、これからもっといい所に移り住んで、のんびり暮らしたいの」
リアの媚びるような声に、サリュートアの怒りはさらに沸き立った。そんなことを許すはずなどない。
「見逃したりするもんか!」
「そう。やっぱりダメか。――じゃあ、仕方ないね」
その言葉を言い終わる前に、リアの手が動いた。
飛んできたのは銃弾――ではなく、銀色のコインだった。
サリュートアはコインを避けようとしたが、嫌な予感がし、さらに体を捻る。すると彼のいた場所を、短剣の切っ先が掠めた。
リアは小さく舌打ちをすると、今度はもう片方の手に持った短剣を振るう。
サリュートアは今度は背後へと跳び、距離を取ると、剣を振るった。それはリアの足を狙ったものだったが、難なくかわされる。
そしてリアは、一気に間合いを詰め、サリュートアの懐へと飛び込んで来た。咄嗟に剣を構えるが、それは簡単に弾かれ、地面へと転がる。サリュートア自身もバランスを崩し、尻餅をついた。痛みに顔をしかめるが、じっとしている暇はない。すぐに横へと転がると、顔があった場所に短剣が突き立てられる。
起き上がる余裕など与えてもらえなかった。雨でぬかるみ、波打つ地面を、サリュートアは泥だらけになりながら転がり、逃げ続けた。攻撃をかわすので精一杯で、声を出すことも出来ない。動きが止まれば、リアの短剣は確実にサリュートアの息の根を止めるだろう。
サリュートアは、ただ本能のままに逃げていた。それが出来たのは、ジェイムに教えられた武術が、体に染み付いていたからでもあるだろう。
だが、疲労は確実に動きを鈍らせ始める。止まない雨も、それを助長していた。
けれどもそれは、リアの方でも同じだった。大体、普通の『坊や』は、こんなに見事に彼女の攻撃を避けたりしない。
やがて。
誰かがこちらに向かってくる気配に、先にサリュートアが気づいた。
そして一瞬、そちらに気を取られてしまった。
慌てて意識を戻した時には、リアの短剣は、もう目前に迫っていた。
――殺される。
そう思った時、右手に硬いものが触れた。考えるよりも早く、体は自然に動いていた。
くぐもった悲鳴が、空気を震わせる。
気づけば――リアが地面に倒れていた。
周囲に、水とも土とも違う質のにじみが広がっている。
棒立ちになったサリュートアの右手には、先ほどリアに弾き落とされた剣が握られていた。
「ギル!」
バートの声だった。でもそれよりも、自分自身の荒い息の方が大きくサリュートアの耳には届いていた。
服には、べったりと血がついていた。手のひらにも。
これだけ雨が降っているのに、それは簡単には流れなかった。
地面に伏せているリアは、動かない。
右手から力が抜け、泥の上に剣がぼちゃりと落ちた。
――人殺し。
頭の中で、誰ともわからない声がした。
『人を殺す覚悟はあるか?』
違う。――違うんだ。
そんなつもりはなかったのに。
これっぽっちも、なかった。
――人殺し!
――人殺し!!
違う。――違う。
自分を責める声は、どんどん大きく、強くなる。
一歩、二歩――よろよろと足が動き、段々と早くなる。その場から早く逃げろと動く。
空が光り、雷鳴が轟いた。
「うわぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!!」
サリュートアは、いつの間にか駆け出していた。
「ギル!」
バートの声が、遠くなる。
違うんだ。本当に違う。
違うからもう――ほっといてくれ。
ほっといてくれ。
息は荒く、体が重い。それでも、立ち止まれないと思った。
どうしたら良いのかもわからず、ただサリュートアは闇雲に逃げる。
フードが脱げ、雨が皮膚の表面を冷たく打つ。ぬかるみが、足もとをさらに覚束なくさせた。
「ギル! 待て! そっちへ行くな!」
泥が嘲笑うかのように足を掬い、サリュートアの体が重力を失った。
あれだけ強かった雨音は遠のき、やけに世界がゆっくりと動く。
体が回転し、景色も回転し、バートの泣きそうな顔が逆さまに見えた。
彼は何かを叫びながら、手をこちらへと伸ばしている。
サリュートアは、その手が遠ざかっていくのを、ただ眺めていた。
空が、見えた。
さっきよりも明るくなった空は、ただ雨を吐き出していた。
自分が落下しているのだと悟った時、感覚が一気に目覚め、恐怖が体内を駆け巡ったが、それも一瞬のことだった。
目の前には、轟々と唸りうねる――水が。
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