夜雨

夜雨 1

 夜半過ぎて、雨足は強くなった。被ったフード越しに、雨音が大きく響く。

 ぬかるんだ道を、十数頭を数える馬が走る。ランプの明かりだけが、頼りない導き手となっていた。

 サリュートアも馬を与えられ、任事官たちと一緒に駆けたが、どうしても洗練された技術を持つ彼らには遅れを取ってしまう。

 天気の良い日中でもそうなるだろうに、あまりに視界も足場も悪すぎた。乗馬は何度もしているが、こんな状況で馬を走らせた経験は、サリュートアには一度もない。

 任事官たちには、オーファが妹のことを説明してくれていたから、表立って文句を言う者はいなかったが、視線や態度で露骨に示して来る者もいたし、肩身は狭かった。


『覚悟は、あるよ』


 サリュートアは、オーファにそう答えを返していた。

 人を殺すつもりなどはない。ただ、そう言わないと連れて行ってはもらえないと思った。

 数々の事件を乗り越えてきた任事官たちと一緒なのだ。そうそう危険なことはないだろうし、させないだろう。オーファの言った言葉は、それだけの覚悟を持って臨めという戒めのようなものだ。

 もちろん、サリュートアは気を抜くつもりなどなかった。

 けれども、少し進んではサリュートアだけが遅れ、皆がそれを待つということが何度も繰り返されると、流石に空気がピリピリとしたものに変わり始める。皆の視線が痛いほど突き刺さり、ため息がよりはっきりと聞こえるようにもなる。

 これならば、面と向かって文句を言われた方がマシだ。

 一旦休憩しようということになり、雨を避けて木陰で休みながらそう思った時、任事官たちの中でも比較的若い男が、やおら近づいてきて、サリュートアに向かって言葉を放った。


「おめーさ、妹助けたいのかなんかしんねーけど、トロトロ走んなよバーカ!」


 確か、仲間にバートと呼ばれていただろうか。

 金髪のツンツン頭。口もとには無精ひげ。幼い頃読んだ絵本に、この男の髪の毛のような針を生やしたネズミがいたような気がする。

 言葉の調子が軽すぎて、怒られているのかバカにされているのか良くわからなかった。


「すみません」


 けれども、謝りはする。迷惑をかけているという自覚はあったからだ。

 再び顔を上げると、目が合う。バートは目を細め、ふん、と鼻を鳴らした。


「あと走る時な、力入りすぎ。緊張すんのはわかっけど、そーいうの、馬に伝わっから」


 そして彼は、木々に繋ぎ留められている馬たちを見やる。


「馬っつーのはな、走るための道具じゃねーんだよ。俺たちはお馬さんに乗せてもらってんの」

「そんなこと」

「わかってねーから、あーやってトロトロ走んだろ!」


 何も理解していないかのように言われることに流石にむっとして、サリュートアが言い返そうとすると、あっさりその言葉は封殺された。

 そして自分の言いたいことを言い切ったのか、バートはこちらに背中を向け、さっさと行ってしまう。サリュートアにくすぶる不満を示していた他の者も、いつの間にかいなくなっていた。


「出発だ!」


 オーファの声が雨越しに聞こえる。サリュートアも急いで自分の馬のところに行った。

 馬と目が合う。

 意外と、可愛い目をしているんだなと思った。


 ◇ ◇ ◇


 外がすっかり暗くなってもまだ、アストリアーデはぼんやりと外を見ていた。降る雨が、窓を強く叩く。

 その時、ドアのノブがガチャガチャと動かされる音がし、それから鍵が外れる音がした。

 アストリアーデは、思わず身を硬くする。

 けれども、逃げようとか、何とかしなくてはいけないとは思わなかった。ドアが開き、人が部屋を覗き込む気配がしてから、ようやくゆっくりとそちらを見る。

 そこには、少女が立っていた。

 アストリアーデと同じくらいの年頃だろうか。細身で、手足もほっそりと長い。フリルが多めの、見るからに高そうな服を着ている。

 『肌が透き通るように白い』という表現がこれほど似合う者を、アストリアーデはこれまで見たことがなかった。蒼く長い髪も、よりその白さを際立たせている。

 ぱっちりとした水色の瞳が、こちらをじっと見た。


「……見たことない人が、ここに入っていくのが見えたから」


 少女は、恐る恐るといった調子で、そう言葉を口にした。やや掠れた声が、語尾に行くほど小さくなって行く。

 アストリアーデは何も答えず、少女をぼんやりと眺めていた。すると少女は落ち着かない様子になり、視線をあちこちへと彷徨わせる。

 そうしながら、何かを言おうと言葉を探しているようだった。けれども何も見つからないのか、少しの時間が経ち、少女の顔に焦りの色が浮かび始める。

 やがて、その視線が再びアストリアーデの上で止まり、少女は驚いたように目を瞬かせた。


「泣いてるの?」


 言われて、アストリアーデも自分が泣いていたことを思い出したが、それを見られたからといって、もうどうでも良いという気になっていた。


「あんた、誰?」


 ようやく抑揚のない声が、口から滑り出る。


「わたし……? わたしは、ウィリスよ」

「そう」


 少女の名前に興味はなかったが、人と話をすることで、少し投げやりな気持ちが遠ざかったようだった。

 当たり前とも思える疑問が浮かび、それを少女に放ってみる。


「ここは、どこなの?」

「わたしの家よ」


 そんなの当たり前じゃない、とでも言うかのようだった。

 少し迷ったが、アストリアーデはここにいる理由を素直に話してみることにする。


「あたし、ここに無理矢理連れてこられたの。ナオってやつに」

「さっき、一緒にいた人?」


 どこかから様子を窺っていたのだろうか。だが、どうやら少女は、ナオのことを知らないらしい。

 その表情は、嘘をついているようには見えなかった。


「……でもきっと、あなたはわたしのお友達なんだわ」


 続けて言った少女に、アストリアーデは言葉を失った。

 なぜ、そうなるのだろう。無理矢理連れて来られたと言っているのに。


「この前お父さまにお会いした時、多分お友達が屋敷に来るよっておっしゃってたの。それは、きっとあなたのことだと思う」


 そう嬉しそうに、はにかむような笑顔を見せる少女に、気味の悪いものを感じながら、それでもアストリアーデは気力を奮い起こし、訴える。


「あたしは無理矢理ここに連れてこられたのよ!? あたし以外にも、何人も誘拐されて、どっかの屋敷に連れて行かれたの! それってあんたの父親が犯人の一味ってことなんじゃないの!?」


 言っているうちに、目の前の変な少女や今までのことに、どんどん腹が立ってきて、語気が荒くなっていった。

 そんなアストリアーデの姿に怯えるように少女は身を縮め、小さな声で、けれども確信を持って言う。


「お父さまは、そんなことをなさる方ではないわ」


 ざわっと体中が逆立ったような気がし、アストリアーデの頭の中が真っ白になる。


「どいて!」


 少女を押しのけ、ドアから勢いよく飛び出すと、アストリアーデは周囲を見回し、記憶をたどって走り出す。


「あっ、待って!」


 少女の声が後ろから聞こえるが、振り向くことはしなかった。

 足が疲れきっていて、上手く動いてくれない。柔らかな絨毯が足に纏わりつくかのようだった。

 やけに廊下が長く感じる。

 緩やかなカーブを描く道をたどっている時、向かい側から老女が一人、歩いてきた。顔には深いしわが刻まれ、頭も真っ白だったが、背筋は真っ直ぐに伸びている。

 老女は、走るアストリアーデの姿を認めると、道をふさぐように、両手を大きく広げた。

 そのまま突き飛ばしてでも進むことも考えたが、それは流石に気が引けた。やや距離をおいて立ち止まったアストリアーデを見て、老女は優しげに微笑む。

 彼女ならば、先ほどの少女よりも話が通じるかもしれない。

 そう思い、アストリアーデは老女に必死で訴えかけた。


「そこをどいて! あたし家に帰りたいの!」


 それを聞き、老女は困ったような顔をすると、ただゆっくりと首を横に振る。

 どうして、何も言ってくれないのだろう。

 何かねっとりと重い感情が、胸の奥でぼこぼこと音を立て、首をもたげた。背中に汗が滲み、少しひやりとする。

 後ろから、荒い息が聞こえて来た。次いで、少女の声が届く。


「マーサは、口がきけないのよ」


 その瞬間、先ほどの感情がぶわっと何倍にも膨れ上がり、そして、一気に弾け飛んだ。

 リアも、ナオも、皆で囚われた屋敷も、ここも、老女も、少女も、そして、少女の父親も。

 世界の全てが悪意となって自分を陥れようとしているかのように思えて、ただ怖かった。

 こんな場所には、もう一時たりとも居たくない。

 アストリアーデは老女の脇をすり抜けると、周囲には目もくれず、ただ足を動かした。

 前へ、前へ。――大丈夫、玄関までの道は覚えている。


「待って! そんなに走ったら、危ないわ!」


 少女の声が、背後から追いかけてくる。だけど、そんなものは知らない。

 足を限界まで動かす。もっと速く、速く――速く!


「あっ」


 思わず、声を上げていた。体のバランスが急速に失われる。

 手すりに施された花の彫刻が、逆さまに見えた。

 そしてアストリアーデの体は、赤い赤い絨毯の上を転がり落ちていく。

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