錯綜 3

 ◆


 それから二回、日が昇った。

 途中小さな町にも立ち寄り、食料や必要なものを買うことも出来た。だが、先を急ぐとのことで、宿泊することはなかった。

 でも、野宿にも慣れたし、夜でも十分に暖かい季節だったから、そんなに問題はなかった。

 ――虫が多いのは、少し嫌ではあったが。


「アストリアーデちゃんは、好きな人、いるの?」

「えっ?」


 三回目の日が昇り、手ごろな木の根に座って簡素な朝食を食べていた時、ナオに唐突に問われ、アストリアーデは戸惑いを隠せず声を上げる。

 彼女にそういう話題は似合わないような気もしていたから、そういった意味での驚きもあった。


「好きな人……いないなぁ。ナオはいるの?」


 丸く硬いパンをかじりながら顔を覗き込むが、明るくなってきた空が眼鏡に反射して、相変わらずナオの目はよく見えない。彼女は少しだけ俯き、頷いた。


「私は、いるわ」

「へぇぇぇぇ! どんな人? どんな人? カッコいい? 背は高い?」


 こちらも予想外の答えに、興味が次から次へと沸いて来て、アストリアーデの口から遠慮なく飛び出す。

 ナオは水筒の水を一口飲むと、少し遠くを見るようにして、再び口を開いた。


「素敵な人よ。年上なの。大切な人を守るためなら、危険も顧みない人」

「へぇー!」


 アストリアーデは、彼女の好きな人というのを思い浮かべてみる。

 情報が少なすぎるものの、何となく頼りになりそうな男性像が形作られ始めた。

(お父さん!?)

 それは固まって、何故か父の姿になる。アストリアーデから見れば、それほど頼りがいのある男性という印象ではなかったのだが。

 母もジェイムも――今、どうしているだろうか。

 思い出してしまうと、胸の辺りを重たい感情が雲のように覆うが、サリュートアと合流さえすれば、もう家に戻れる。

 こんな危険な目に遭ってまで旅を続けるなんてまっぴらだし、彼も無理は言わないだろう。


「私ね」


 ナオの続く言葉に、アストリアーデの顔と意識が、再びそちらへと向く。


「その人のためなら、何だって出来るわ」

「へぇー」


 アストリアーデは、気の抜けた言葉しか返せなかった。

 自分は今まで、そこまで思える人に出会ったことはない。

 何となく好きになって付き合い、何となく嫌になり、付き合いをやめてしまうのが常だった。

 いつか、自分もそんな風に人を好きになることがあるのだろうか。イメージしてみても、あまり実感は湧かなかった。

 しかし、そうやって自らの恋の話も、まるで人事のように淡々と話す、いつも冷静なナオの中に、それだけの強い情熱が秘められているというのも驚きだった。


「さ、私の話はおしまい。……行きましょ」

「え? もう!?」


 立ち上がり、服についた汚れをぽんぽんと手で落とすナオを見上げ、アストリアーデは抗議の声を上げた。まだ手の中のパンは、半分ほど残っている。


「歩きながらだって食べられるでしょ」


 そんなに急がなくてもいいのに、という気持ちと、早く到着してゆっくり休みたいという気持ちが、アストリアーデの中でせめぎ合う。

 ナオは、もう少しで目的地に到着すると言っていた。

 そう、あともう少しだ。もう少し頑張れば、家に帰ることが出来る。

 自分を励まし、アストリアーデは大きく頷くと、勢いよく立ち上がった。


「アストリアーデちゃん」


 名を呼ばれ、そちらを見る。

 いつの間にか少し先の方まで進んでいたナオが、肩越しにこちらを見ていた。


「何?」


 何かを言われたような気がして、アストリアーデが尋ねると、ナオは首を小さく振り、また前を向いた。


「ううん。……行きましょう」


 そして、足早に歩き出す。


「あっ、待って!」


 アストリアーデも慌てて、彼女の後を追った。




「うわ、大きな家」


 ナオが到着したと言い、アストリアーデを振り返った時、目の前には大邸宅と呼ぶに相応しい建物があった。

 華美さはなく、歴史を感じさせる重厚な佇まいだ。

 ナオはその大きな門へと近づくと、鍵を開け、手で押す。門は重そうな音を立てながら、ゆっくりと開いていった。周囲には、門番のような者はいなかった。

 雑然とした草地の上を、二人は無言で歩く。これだけ大きな家なのに、人影を全く見かけないのは不思議な感じがした。

 もしかしたら、誰も住んでいないのだろうか。

 きょろきょろと周囲を見回していると、いつの間にかナオの背中が遠ざかっている。アストリアーデは、慌てて足を速めた。

 玄関の扉も、同じようにナオが鍵を開け、中へと入る。やはり、そこには誰もいない。

 だが、高級そうな調度品には、埃や蜘蛛の巣などはなく、綺麗だった。それは、少なくとも誰かが掃除をしているということだ。そのことに、少しホッとするものを感じる。

 繊細な彫刻が施された手すりのある階段を上り、そこから緩やかなカーブを描く廊下を通ってたどり着いた部屋には、細長いテーブルがあり、それを囲むように椅子が並べられていた。

 食堂のようにも見えるが、それには殺風景すぎる気もする。大きな窓からは、遠くに連なる山々が見えた。


「ちょっと、ここで待っててね」


 ナオはそう言うと、椅子の一つを引いた。アストリアーデは促されるまま、そこに座る。

 ずっと歩き詰めだったし、ちゃんとした椅子に座るのは久しぶりだった。力が抜けると同時に、疲れが急速に体を巡る。

 ナオは、何か用事があるのか、急いでいる様子で部屋を出て行った。

 アストリアーデは、明るい日が輝く窓の外を見、大きく息をついた。


 ◇ ◇ ◇


「ナオからの信号だ!」


 オーファの持つ『リーダー』はほの白く光り、地図を映し出していた。

 その上の一箇所で、赤い光が点滅している。

 静かだった基地内は一気に慌しくなり、熱気を帯びてきた。


「準備は出来ているな! すぐにでも向かうぞ!」


 彼は落ち着いているけれどもよく通る声で、仲間へと指示を出す。

 サリュートアはそれを眺めながら、思いを巡らせる。


 ◇ ◇ ◇


 どのくらい、時間が経っただろうか。

 ここに来るまでのことや、サリュートアと一緒に旅したこと――そして、父や母、ジェイム、学校の友人たちとのこと、また家に戻っていつもの生活に戻ったら、どんなことを話そうか、何をしようか、そもそも、旅のことをどう言い訳しようか――そんなことを、椅子に座ったまま、取りとめもなく思い浮かべていた。

 そわそわしたり、うろうろしたりすることは、まるでナオを疑うようで――いや、不安が実現してしまいそうで怖かった。

 それでも、視線は背後のドアの方へと向かう。あのドアをナオは閉め、暫くしてから、彼女の足音は遠ざかっていった。

 顔の位置を元に戻し、アストリアーデはゆっくりと、とてもゆっくりと腰を上げ、窓の外を見る。

 空は赤々と燃え上がり、遠くに見える山々を覆っている。

 もう、日が落ちようとしていた。


『アストリアーデちゃん』


 森の中、木々の隙間から差す光に染められ、まだらになったナオの背中が、脳裏に浮かぶ。


『……ごめんね』


 何故、今まで気づかなかったのだろう。

 そう。確かにあの時、彼女はそう言った。

 記憶が意識の表面へと浮上してくると、今度は交代だとでもいうかのように、頭の先から現実感が遠のき、鼻の奥が鈍く痺れた。

 そしてただ無感動に、目の端から涙が零れ落ちてくる。

 生ぬるい雫が、頬を、顎を舐めるようにして伝って行った。手で拭っても、拭っても、それは消えず、さらに勢いを増す。

 足の感覚がなくなり、膝が震えていたが、それでも立っていたのは、役に立ちもしないプライドのせいかもしれない。

 もう、認めないわけにはいかなかった。

 また――騙されたのだ。

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