分岐 2

 もう、辺りは暗くなってきている。このままアストリアーデを一人にしておくのは危険かもしれない。気は進まなかったが、探しに行くしかなさそうだ。

 そう思った時、聞き慣れた声がした。


「サリュートア~!」


 アストリアーデが、手を大きく振りながら、満面の笑みでこちらに向かって走ってくる。勝手にどこかに行ったくせに、いい気なものだとは思ったが、それはいつものことだ。

 サリュートアは大きく息をつくと、体をそちらへと向ける。アストリアーデは彼のもとまでたどり着くと、肩で息をするのももどかしそうに、早口で話し始めた。


「あのね、ファンサーレ方面の馬車に一緒に乗せてってくれるって人が見つかったの!」

「乗せてくれるって……何で?」


 サリュートアが聞き返すと、アストリアーデは首を横に振った。


「わかんない。酒場で声をかけられたの」

「バカ、あからさまに怪しいじゃないか」

「何でバカっていうの!? リアはいい人だし、荷台なんかに乗っていかなくても済むし……それに、お金も払うんだから、長距離馬車と一緒じゃん!」

「お金取るの?」

「うん。それがおかしいの?」

「いや……」


 サリュートアは腕を組み、考えた。それは、おかしくはない。


「格安なんだよ!? 五千リューゼ! サリュートアだって、長距離馬車が高いって愚痴ってたじゃん。これはチャンスだって! どちみちファンサーレの方に行くし、馬車が余ってるからやってるんだって」


 アストリアーデが、形勢が有利になったと悟ったか、一気に畳み掛ける。

 確かに、ラウストスの長距離馬車の料金は高い。ファンサーレにある、ここから一番近い町まででも、一万リューゼはかかる。そちらに行く用事があり、馬車も用意できるのであれば、他人を乗せて金を稼ぐことは、悪くないアイディアだ。半額にしたところで、儲けは出るだろう。


「それにね、一緒に乗る人は、全員女の人なんだよ。お客さんも、護衛の人も。あたしたち、格闘もジェイムに教わってるじゃない。なんかあっても大丈夫だって」


 確かに、腕には多少の自信がある。ジェイムだけではなく、父の部下たちも、皆褒めてくれる。

 自分が注意していれば、きっと何とかなるだろう。


「……分かった。いいよ」

「やったぁ!」


 サリュートアが頷くと、アストリアーデは跳び上がって喜ぶ。妹の姿を見ていたら、つられて顔が綻んだ。


「出発は?」

「明日の朝だって! あたし、リアに返事してくるね!」

「分かった。ここで待ってるよ。宿はもう取ってあるから」

「うん!」


 一時はどうなることかと思ったが、何とか旅は続けられそうだ。

 サリュートアは空を見上げ、大きく息を吐いた。満天の星に、少し欠けた月。

 明日は、良い天気になりそうだった。


 翌日の早朝、町の郊外に集まった面々は、挨拶もそこそこに、馬車へと向かった。四人乗りの馬車が二台ある。

 昨日アストリアーデが言ったように、女性ばかりだった。皆若く、少女と呼べる年代の者もいる。


「女の人ばっかりだから、サリュートアの方がよっぽど危ないね」

「うるさいよ」


 アストリアーデは、サリュートアに向けてにっこりと笑うと、上機嫌で馬車の中に入っていく。リアがそれに続いた。

 サリュートアも乗り込もうと馬車へと近づいたが、ふと、視線を感じ、振り向く。

 そこには、帽子を目深に被った、小柄な女が立っていた。帽子も、この気温の中暑いのではないかと思われるジャケットも、パンツも地味な色で、大き目の眼鏡に遮られ、その奥の瞳も良く見えない。


「あなた、サリュートア君っていうの?」


 しまった、と、サリュートアは内心舌打ちした。何があるか分からないから、偽名を使っておくべきだった。

 しかし、ここで嘘をついても、相談もなしにアストリアーデが合わせられる訳はないし、どちみちリアには本名がばれている。

 仕方なしに、サリュートアは頷いた。


「……はい。そうですけど」

「あの子は、アストリアーデちゃん?」

「ええ。……だから何なんでしょうか?」


 サリュートアの声が、警戒の色を帯びる。女はそれに気づいた素振りも見せずに、ゆっくりと首を振った。


「ううん。素敵な名前だと思ったの。……わたしはナオ。宜しくね?」


 そう一方的に言うと、ナオは口の端を少し上げ、ジャケットの裾をひるがえし、サリュートアよりも先に馬車に乗ってしまう。

 サリュートアは、腑に落ちない気分でその姿を見ていたが、やがて、後に続いた。

 そして、馬に乗った護衛二人に挟まれるようにして、馬車はゆっくりと動き出す。


 ゴトゴトという音と振動が、耳を、体を叩く。

 最初は物珍しそうに窓から景色を眺め、いちいち感嘆の声を漏らしたり、はしゃいだりしていたアストリアーデも、半日以上乗っていたら、流石に飽きたようだ。やや傾いた日の光は明るさを変え、窓から差し込んでいる。リアは腕を組んで目を閉じ、ナオは帽子と眼鏡のせいで、視線がどこを向いているのか分かりづらい。

 そしてサリュートアは、窓の外をじっと見ていた。

 ラウストスの町役場で見せてもらった、長距離馬車の地図は頭に叩き込んである。今乗っている馬車が、同じルートをたどっているか、ずっとチェックし続けていた。

 アストリアーデには悪いと思うが、サリュートアは彼女ほどリアたちを信用していない。それは、不信感というよりは、自分がしっかりしなければならないという思いからかもしれない。

 だが、ここまでルート通り来ている。こんなことをするのも、取り越し苦労になるのかもしれない。大体、金だって払っているのだから、自分たちを騙すメリットなど何もない。

 そう思って、背を椅子にもたれかからせ、大きく息をついた時――胸がどきり、とした。


 今、馬車が道を右に曲がった。落ち着いて視線を走らせる。やはり右――街道を離れ、人家のない方へと行こうとしている。

 いや――しかし、近道を通ろうとしているのかもしれない。急いで頭の中の地図と照らし合わせる。

 でも、答えはひとつだった。この馬車は、ファンサーレへの最短ルートを通らない。そして、それは自分たちに告げられない。

 まだ、家はまばらにある。ここで逃げれば、何とかなるかもしれない。もし自分の勘違いだったとしても、アストリアーデと話し合う必要があると思った。

 サリュートアは深く、静かに呼吸をすると、何事もなかったかのように口を開く。


「……トイレに行きたいんだけど」

「そう」


 リアはゆっくり目を開けると頷き、御者台の方へと合図する。馬車は、大きく何度か揺れると止まった。それを確認すると、サリュートアは席から腰を上げてドアを開け、アストリアーデの方へ目を向ける。


「アストリアーデ、ちょっと」

「え? あたし?」


 戸惑いながらも立ち上がろうとするアストリアーデの腕を、リアが掴む。彼女はサリュートアへ挑むような視線を向けた。


「トイレくらい、ひとりで行けるでしょ? ねえ?」


 サリュートアとリアの目が、お互いを牽制し合うかのようにぶつかる。


「いいから、ちょっと」

「う、うん……」


 その合間で、所在なげにしていたアストリアーデは、サリュートアの真剣な態度に気圧され、リアの手を振りほどこうとした。

 その時。


「――!?」


 空だ、とサリュートアは思った。

 次の瞬間、背中に重い痛みが走り、口から空気がこぼれる。

 一瞬の間のあと、馬車から落ちたのだと理解すると、彼は急いで体を起こした。扉がバタン、と閉まり、再び馬車は走り出す。


「くそっ! ――アストリアーデ!」


 サリュートアは背中の痛みをこらえながら、足に力を込め、走った。


 ◇


 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 でも、じわじわと実感が湧いてくる。

 リアが、サリュートアを馬車から蹴り落としたのだ。


「なんで!? ――なんでこんなことするの!?」

「何でって、あの坊やが邪魔だったからよ」


 楽しげに笑うリアを目にしながらも、まだどこか諦めていない自分がいた。これは、きっと何かの冗談だ。


「馬車を止めて!」

「嫌よ」


 大きな声で訴えるアストリアーデに、リアの返答は素っ気なかった。馬車の後ろから、サリュートアが必死に追いすがってくる。けれども、その距離は離れていく一方だ。


「止めなさいよ! 止めないと――!?」


 力を帯びてきたアストリアーデの声が、振り向きざまに小さくなる。

 リアの右手には、何かが握られていた。

 金属製の筒――銃だ。

 アストリアーデは現物をまだ見たことがなかったが、それでもそれが、人を殺す武器だということを知っている。

 指先が震えた。それは決して、怖いからではなかった。


「騙したのね!?」


 これ以上はないというくらい、瞳に憎しみを込めて、リアの目を見据える。しかし彼女は、心を動かす素振りすら見せない。


「騙しただなんて人聞きの悪い。あんたが納得してついて来たんじゃない」


 指先の震えは、止まらない。

 悔しい。悔しくて、情けなかった。目先のことに惑わされて飛びついた自分の浅はかさも、こんな女を良い人だと思って信じた愚かさも、サリュートアまで巻き込んでしまった馬鹿さ加減も。


 けれども、アストリアーデに今出来る精一杯のことは、せめて泣かないように堪えることだけだった。

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