追跡
追跡 1
「アストリアーデ! ――ぐっ!」
足がもつれ、サリュートアの体は勢いをつけ、硬い地面を転がった。体に走った痛みに、思わず顔を歪める。口の中に血の味が広がった。
急いで体を起こすが、馬車の姿は土煙を上げ、どんどん小さくなる。もう人間の足では追いつけない距離だ。
「くそっ!」
握り締めた拳で地面を叩いても、返ってくるのは痛みばかり。サリュートアは挫けそうになる心を、必死で叱咤した。ここで諦めてはいけない。投げ出してはいけない。そんなことをすれば、その時が終わりだ。
考えろ。
彼は頭を目まぐるしく回転させる。この状況で最善の策は何だろう。あの馬車に追いつくには。
――やはり、馬が必要だ。
最後に馬が居た場所はどこだっただろう。最後に馬が居そうだった家は。
――何故、もっと注意して見ていなかったのだろう。
あの女たちや、地理だけに気をつけていれば十分だと思った。まさか、いきなり馬車から突き落とされるとは思わなかったのだ。
後悔ばかりが、次々とわき出てくる。
でも、そんなものに浸っている場合ではない。
サリュートアは痛む体に顔をしかめながら、気を奮い立たせ、立ち上がる。
土煙の残滓が、目に染みた。
『サリュー。迷った時は、直感を信じろ。それが、正しい道だ』
ふと、父の言葉が思い出される。
父は、サリュートアのことを『サリュー』、アストリアーデのことを『アーデ』と呼ぶ。幼い頃は、それが特別な名前のようで嬉しかったが、今は違う。父が、ただ後ろめたさからそう呼んでいるのが分かったからだ。
それを思うと、胸の辺りが重くなるが、今はそんなことを考えている場合ではない。
サリュートアは目を閉じ、深呼吸をする。
そして、くるりと踵を返すと、馬車の走り去った方角とは、逆の方へと走った。
◇ ◇ ◇
「……鬼! 悪魔! 人でなし! ヘンタイ! ブス! 厚化粧! ……えっと……」
「あら、もう終わり? ボキャブラリーが貧困だこと」
リアが面白そうに目を細め、笑う。
彼女は、アストリアーデが思いつく限りの罵言を浴びせかけても、余裕の態度を崩さない。『ボキャブラリー』という言葉が何を指すのか、いまいちよく分からなかったが、酷く馬鹿にされているということは分かる。
銃はもう、腰に着けたバッグに仕舞われていた。それを使わなくても、アストリアーデのことなど、どうにでも出来るということだ。馬車の外には、二人の護衛もいる。
アストリアーデの体を、怒りと恥ずかしさが駆け巡り、震えた。悔しくて、また涙が出そうになる。
「座ったら?」
そんなアストリアーデのことを見兼ねたのか、ナオが穏やかに声をかけてくる。アストリアーデは興奮のあまり腰を上げて、不自然な姿勢のままだった。馬車の中は、人が完全に立てるほどには高さがない。
「なんでそんな落ち着いてるの!? あたしたち、悪いやつらに捕まっちゃったんだよ!? それとも、あんたもグルなの!?」
ナオの平然とした態度を見て腹が立ち、アストリアーデは早口で捲くし立てる。自分が見ていたものは何だったのだろうと、心が折れそうになる。
「違うわ」
けれどもナオは、穏やかな口調のまま、しかしきっぱりと否定した。眼鏡の奥の表情は窺えなかったが、怒っているようにも見える。
「怒ったり、泣いたり、騒ぐのは簡単だわ。でも、こんな時は何もしないのが一番よ。余計なエネルギーを使うだけで、何にもいいことなんてないもの」
「ナオ、あんたはおりこうさんね」
そう言ってリアが笑う。本当に可笑しそうだった。こういった状況で、こんな態度を取る人間は、なかなかいないのかもしれない。
「そうかしら。ただこのお嬢さんよりも、少しだけ色々と知っているだけよ」
ナオはそう言って肩を竦める。
アストリアーデは、再びナオを見た。
彼女の言う通りかもしれない。ここで騒いでも、状況は良くならないどころか、悪くなる一方だろう――そう思い、溜め息をついて腰を下ろす。
きっとサリュートアならば、ナオと同じことを言うに違いない。そう思うと、僅かな安心感が生まれ、しかしそれを押し流すようにすぐ不安が拡がってきて、胸の奥がざわざわと鳴った。
彼は、無事だろうか。
いや、馬車から落ちたくらいでは、大丈夫だろう。
それよりも――また、会えるだろうか。
「アストリアーデちゃん、景色をよく見ておいたほうがいいわ。もう、見られなくなりそうだから」
ナオの言葉に、アストリアーデははっとして顔を上げた。
そう、よく景色を見ておかねばならない。彼女は、一度見た景色を忘れない。それは、両親から受け継いだ才能だ。
急いで噛りつくように近づいた窓の外を、景色が流れるように過ぎていく。
◇ ◇ ◇
「すみません! すみません!」
激しく叩かれるドアの音に、けれども返答はない。サリュートアは、それでもドアを叩き続ける。もしかしたら、聞こえていないだけかもしれない。
しかし、なかなか人が来る気配がない。気ばかりが焦る。
「はい、はい! 今開けますよ!」
サリュートアが諦めて引き返そうと思った時、ようやく待ち望んだ人の声が、奥から聞こえてきた。
「ごめんなさいね。ちょっと今、手が離せなかったから」
扉を開け、中から出てきた中年の女は、そう言って申し訳なさそうな顔をする。
「いえ、すみません。こちらこそ。お忙しいのに」
サリュートアは出来るだけ礼儀正しく見えるように気をつけて謝ってから、単刀直入に用件を切り出した。
「あの、馬をお借りしたいんです。どうしても必要になったものですから」
すると女は目を瞬かせ、それから苦笑いを浮かべた。
「馬、って……そんなこと急に言われても。うちの人はまだ仕事から帰ってこないし」
「いつ頃、帰ってきますか?」
「そうね……大体いつも、日が落ちる前には帰ってくるけど。危ないでしょ? 暗くなると」
サリュートアはそれを聞き、空を見上げた。
分かっていたことだったが、日が暮れるまでにはまだ時間がかかる。待っていたら、確実に間に合わなくなる。
「じゃあ、他に馬を持っている人の家を知りませんか?」
サリュートアの質問に、女は今度は、はっきりと困惑の表情を浮かべる。
「ご近所さんは大体持ってると思うけどねぇ……皆使ってると思うよ。ここいらは町への出稼ぎが多いから。牧場でもあれば別だけど」
「ないんですか?」
女は腕を組むと、溜め息をついた。それから視線をあちこちに彷徨わせる。
「うーん、ないね……ザデアさんのところは……ああ、確かもう使わないから売ったって言ってたかね……」
彼女の話は全く要領を得ない。近くに住んでいるといっても、いちいち馬のことなどを確認し合ったりはしないのだろう。
サリュートアだって、近所の者が何を所有しているかなんてことを聞かれたら、きちんと答えられる自信はない。それどころか、そんなことを知るわけないと突っぱねるかもしれない。
「すみません、ありがとうございました!」
「あっ、ごめんねー!」
サリュートアは慌しく頭を下げると、その場を急いで離れた。
何としてでも、馬を見つけなければ。
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