旅立ち 2
翌日、フローティア邸では、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
「奥さま! 旦那さま! 大変でございます!」
ジェイムが、ひどく興奮した様子で、ホールの中を歩き回る。手には紙切れを持っていた。彼は、もう八十に近い歳だが、まだまだ背筋もしゃんとし、血色も良い。
「どうしたのですか? ジェイム。怖い顔をして」
仕事から早めに帰ってきたミストが、穏やかな微笑を浮かべて言う。金色の髪は短く切ったため、ホールに飾ってある母の姿にそっくりになっていた。それに続いて、ヴィンスターレルも部屋に入ってきて笑う。
「入れ歯でもなくしたか? じいさん」
「私の歯は全部自前でございます! ――冗談を仰っている場合ではありません!」
すると、ジェイムはさらに顔を赤くし、声を荒げた。
「悪ぃ悪ぃ……で? どうしたって?」
「お――お坊ちゃまとお嬢さまが!」
ジェイムは二人に、手に持っていた紙を見せる。
そこには、『しばらく出かけてきます』という言葉と、サリュートア、アストリアーデの名前が書いてあった。
「ああ、意外と早かったですね」
ミストが静かに言う。それを見て、ジェイムは目を大きく見開いた。
「……どういうことでございますか?」
「二人で、旅に出たんです」
あくまで穏やかな態度を崩さないミストに、ヴィンスターレルは呆れた顔をする。
「お前、分かってたんなら言えよ」
すると、ミストは悪戯っ子のように笑った。
「『予見』ですから」
「ああ、そっか、それなら仕方ない」
『幻影師』の一族に受け継がれた力――フローティアの一族は、予知能力に長けていたが、今は『予見』という、占いのような能力しか残っていない。曖昧なことしか分からない場合も多くある。
和やかに話している二人に、痺れが切れたように、ジェイムが噛み付いた。
「お二人とも何を呑気なことを! お坊ちゃまもお嬢さまも、まだ十四になられたばかりですぞ!」
ジェイムは、二人を本当の孫のように可愛がっている。二人に何かあったらと思うだけで、気が気ではない。
しかし、親はというと、呑気なものだった。
「でも、俺が十四の頃は、もう独り立ちしてたぞ?」
あっさりと言うヴィンスターレルに、ジェイムは、頭を抱え、大げさな身振りで訴える。
「お坊ちゃまとお嬢さまは、旦那さまのように頑丈ではないのです!」
「何だよ頑丈って。人を家具みたいに」
「それは言葉のあやでございます! とにかく――」
「まあまあ、とりあえず、座りましょうか」
ミストが二人の間に割って入ると、ヴィンスターレルは頷き、ジェイムは大きくため息をついた。
「はい。どうぞ」
ミストがティーポットから、カップに緑色の茶を注ぎ、皆の前に置く。柔らかい香りが鼻腔をくすぐった。
アレスタンでは良く飲まれている、サラウェアという薬草の茶だ。心を穏やかにする作用があると言われている。
「ありがとうございます」
ジェイムが申し訳なさそうに言いながら、一口飲み、大きく息を吐いた。
ヴィンスターレルも礼を言い、口をつける。
「予見では、こう伝えられました。『子らは、北へと向かう。自らを知る旅に出る』」
「北ってぇと……リシュエンスかエンデルファ、もっと行くならファンサーレか……?」
「そこまでは、わたくしには分かりません」
ヴィンスターレルに答えてから、ミストも静かに茶を飲む。
「でも、分かるのは……あの子たちは、何かを学ぶために旅に出たということです。それはきっと、止めてはいけません」
少し寂しげに言うミストを見て、きっと彼女も同じことを思っているのだろうと、ヴィンスターレルは感じた。
十五年前、自分が殺した少年と少女がいた。それは、避けられないことだったのかもしれない。けれども、ヴィンスターレルの心に、深い思いとして残っている。
彼らは、大人たちに愛されたかったのに、それが得られなかった。それが得られたなら、また違ったかもしれないと考える自分がいる。そして、自分たちに双子が遣わされたと知った時、ヴィンスターレルはミストと二人で、その子供たちと同じ名をつけた。
贖罪という思いは、あったのかもしれない。それは、否定できない。でも、それよりも、その名前しかない、という衝動の方が大きかった。
そして十四年経った今、子供たちは、あの時の子供たちと見まごうような姿に成長した。
もし彼らが、何らかの方法であの子供たちのことを知ったら、それは何故なのかと悩むかもしれない。答えが欲しいと思うかもしれない。そういう道を与えてしまった。
「そしてたぶん、俺たちも何かを学ばなくてはならない」
「……そうですね」
そう話す二人の横で、ジェイムはもう落ち着きを取り戻し、黙って茶を飲んでいた。
サリュートアたちのことは、可愛くて仕方がない。けれども、それならばこの二人も同じだ。そして、ジェイム自身も、家族に何かが必要なことは感じ取っていた。
ミストの横顔を見る。
彼女も、ヴィンスターレルと出会って変わった。心を閉ざし、人を遠ざけていた彼女も、子を成して母となった。歳は重ねたが、以前の彼女よりもずっと穏やかで、魅力的な美しさを備えたとジェイムは思う。
「わたくしは、あの子たちを信じています」
そう言うミストの横で、白い大きな狼が、頷くように顔を揺らした。
「あははははっ! かんた~ん!」
「しっ! 静かに! ばれたらどうすんの」
「ごめーん」
サリュートアに小声で叱られ、アストリアーデは慌てて口をつぐむ。御者台の方を見るが、何の変化もなく馬車も走っているところを見ると、気づかれてはいないのだろう。
幌のついた荷台の中は、荷物のほか、多少売れ残った商品があるだけなので、思ったよりも広く、居心地は良かった。
「あと、どれだけ乗ってればいいの?」
「明日にはつくと思うよ」
「えーっ! 長いー!」
そう不満を漏らすアストリアーデに、サリュートアは表情を変えずに言う。
「じゃあ、帰れば?」
「も~っ! いちいちマジにならないでよ! 言っただけじゃん! 分かってるわよ!」
「そう」
素っ気なく返事をするサリュートアを横目に、アストリアーデは、荷台の端から外を覗く。
「見て! マイラがあんなに小さい!」
「そうだね」
少し傾いてきた日に照らされ、遠くに首都マイラが見える。
両親に旅行に連れて行ってもらったことはあるが、二人だけでマイラを出ることなど、初めての経験だった。不安よりも、高揚感の方がずっと強い。何故、今までこうしなかったのだろうという思いすら湧いてきていた。
馬車は、ごとごとと揺れながら進んで行く。
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