錯綜
錯綜 1
「はぁ、どこのお大尽かは知らないけど、酔狂なこったね。あたしも一緒に捕まりたいくらいだよ」
アストリアーデの後方から、溜め息と、リアの呆れたような声が聞こえてくる。少し離れたところから、水が流れるような音も聞こえた。近くに川でも流れているのだろうか。
足の裏が捉える感触は、やがて土からより固いものと変わって行った。誰のものともわからない靴音が、かつかつと乾いた音を響かせる。
建物のような場所に入ったと思われてからも暫く歩いた。
何度か角を曲がり、階段を上り、床は、固いものから次第に絨毯と思われる柔らかなものとなる。
どこかの洞窟とか、誰も寄り付かない廃墟とか、地下牢という場所ではなさそうだった。リアの言葉からしてもかなり快適な場所で、そして広い。
「!?」
腕に触れられた感触があり、思わず身を硬くしたが、それはリアとは違って、とても控えめで優しいものだった。
それは逆に、アストリアーデを不安にさせる。
その手は、そのままアストリアーデを導き、歩みを進めさせる。戸惑いながらも従う他はなく、気がつけば、椅子に座らされていた。
多くの人の気配、金属音――誰かが息を呑む音。
痛いほどの緊張感が、ぴりぴりと肌をさする。
やがて、目にかかる布が静かに外された。
誰も声を上げず、それぞれの驚きの反応をし、視線を彷徨わせた。それは、あまりに意外な光景だったからだ。
真っ白なテーブルクロスの上に几帳面に並べられたナイフとフォーク、スプーン。
湯気の立つスープと色鮮やかなサラダ。
先ほどから香りはずっとしていたから、料理が近くにあるというのは何となくわかっていた。けれども、それは椅子に座った囚われの身の自分たちの前に置かれている。
アストリアーデは周囲を見回す。
細長いテーブルから離れ、控えている数人の男たち。皆、給仕服を身にまとい、白い仮面をつけていた。
そして、腰には剣。
物騒な代物だが、それを隠そうともせず――いや、明らかにこちらに見せるようにしている。牽制のつもりだろう。だが、それは見掛け倒しではないはずだ。
続いて席についている者たちを見る。
アストリアーデが馬車に乗る前に見かけた女たちは、全員揃っているようだった。
皆一様に青白い顔をしていた。俯いている者もいれば、震えているものもいる。泣き出しそうになるのを、必死で堪えている様子の者もいた。恐らく皆、剣を持つ男たちに囲まれていることに怯えているのだろう。
そしてもう一つ、彼女たちを震え上がらせているのが、目の前に置かれた食事だった。
今はスープとサラダしか皿にはないが、美しく畳まれたナプキンに、銀色に輝く食器。
捕らえてきた者に、こんなに豪勢な食事が必要だろうか。
誰もが直感していた。
――これは、最後の晩餐だ。
「いただきましょう」
そんな緊張の中、暢気な声をあげたのは、ナオだった。白いナプキンを静かに開き、膝の上へと乗せる。
「皆、お腹すいてるでしょ? せっかくのこんな豪華な食事、食べないと損だし、食べておかないと、いざという時動けないわ」
彼女の言葉に、誰も応えなかった。ただ困惑したように、ナオの動きを眺めている。
皆が空腹なのは確かだ。ここへ来るまでにも多少の食事は与えられていたが、ただでさえ恐怖と不安に身を縮こまらせているというのに、狭い馬車の中で、目の前にこちらを監視する目があり、とても食べた気になれるものではなかった。
「あたしも食べようっと!」
そんな中、アストリアーデも明るく声をあげ、急いでナプキンを広げる。
ナオが食べようというのだから、きっと変なものは入っていないのだろうし、彼女の言うように、逃げるには体力が必要だ。
傍らのスプーンを手に取り、まだ湯気がのぼっているスープを掬うと、口へ運ぶ。
「うん、すっごく美味しい!」
周囲に笑顔を向けるアストリアーデを見て、向かいの席に座っていた少女が、少し迷うようにしてから、自らもおずおずとスプーンを手に取り、スープを一口飲んだ。その顔に、ほっとしたような笑みが自然と広がる。
「美味しい。こんな美味しいスープ、初めて」
すると、堰をきったように、皆食事を口にし始めた。ある者は少しずつ、ある者は一気に。
そして、ぽつぽつと他愛のない話をし合う。
その間だけ、今の状況を忘れられる気がした。
「……ちゃん、……アストリアーデちゃん」
囁く声に、アストリアーデは目を開けた。辺りは真っ暗だった。時々寝息と、虫の音が聞こえる。
すぐ近くに迫った人影に驚き、一瞬声を上げそうになるが、短い制止の言葉で、声の主をようやく理解した。
「ナオ? どうしたの?」
皆寝静まっているので、アストリアーデの声も自然と小声になる。すると、ナオは無言のまま、ドアの方を指差した。
食事の後、そのまま同じ部屋に寝床が作られた。食事の時は気づかなかったのだが、部屋の隅に簡易的なベッドが人数分用意されていたのだ。
ベッドだけではなく、同じ部屋に手洗いもあり、用を足したいからと言って部屋を抜け出す方法は使えなかった。また、部屋のどの窓にも頑丈な格子がついていた。
見張りの男たちも姿を現さなかったので、どうにか逃げ道はないかと皆で探して回ったのだが、それも徒労に終わり、流石に疲れも押し寄せてきて、いつの間にか一同は眠りに落ちていた。
「!?」
また声を上げそうになったアストリアーデを、ナオが手の動きで制する。ドアが、いつの間にか開いていた。彼女の手に細い針金のようなものが握られているのが、夜目がきくアストリアーデには見える。
ナオはそのままアストリアーデの手を引くと、外へと出た。
外には長い廊下が左右に伸びており、等間隔に並べられたランプの炎が、古風な調度品や絨毯を淡く照らしていた。
そのままドアを元のように閉め、再び針金を鍵穴に差し込もうとするナオに驚き、服の袖を引くと、彼女はアストリアーデの耳元に顔を近づけ、「後で説明する」とだけ言うと、素早い手つきで針金を動かす。かちり、と小さな音がした。
ナオは訳がわからず佇んでいるアストリアーデに小さく頷き、もう一度その手を取る。
アストリアーデは少し逡巡した後、今はナオを信じてみようと、静かに足を踏み出した。
「ここまで来れば、大丈夫かな」
建物を出て、暗い道を暫く歩いた。
木々が生い茂る場所へと入った時、ナオが口を開き、立ち止まった。彼女は、そのまま深い息を吐く。
アストリアーデは来た道を振り返った。
そこには、大きな屋敷が立っていた。規模が大きくはあるが、普通の家のように見える。
やがて屋敷から視線を離し、姿勢を戻したアストリアーデに向かい、ナオは懐から出したものを見せた。
通行証だった。
「私は、アレスタン軍の任事官をしているの」
ナオの言葉が、最初は上手く頭に入ってこなかった。
けれども、その意味がわかると、安心感と戸惑いが、ない交ぜになった奇妙な感情が訪れる。
「今回の事件の捜査のために、囮として潜入した」
事件。――そう、確かに事件だ。自分も誘拐され、囚われの身となった。
でも、自分たちはこうして抜け出せたが、他の者はどうなるのだろうか。
「あの屋敷の場所が特定できるものを仕掛けておいたから、暫くしたら私の仲間が来る。そうすれば、あの人たちは助かるわ」
アストリアーデの心配を読み取ったかのように、ナオは続ける。それを聞き、気持ちがほっと緩んだ。だが、まだもやもやと燻るものはある。
「私はこれから別の場所に向かわなきゃいけないの。そこでサリュートア君たちとも合流することになってるわ」
サリュートア。
その名前を聞き、驚いたと同時に、懐かしい気持ちが体にふわりと広がった。まだ会えなくなってからそんなに経った訳ではない。けれども、あの後どうなったのかがずっと心配だった。
「サリュートア、無事なんだね!?」
「ええ。私の仲間が見つけたの」
無事なことがわかって心底ほっとしたと同時に、会いたいという気持ちが膨れ上がってくる。
そんなアストリアーデに大丈夫だと言うかのように、ナオはゆっくりと頷いてみせた。
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