第8話 晴海波
帝の住まいである御所の南西に位置する
豊灯院は主に饗宴に用いられる施設であり、塀で囲まれた中に、中央の舞台を囲むようにいくつかの建物がある。建物の中でもひときわ大きい豊灯殿が中心施設となり、その他の建物とは吹き抜けの廊下で繋がっていた。
豊灯殿にて、宴の説明を受けた六白は、二百年前とほぼ変わらない景色と駆け回る人々を見ながら疑問に思ったことを口にする。
「非常にお忙しそうですが、何か問題でもあったのでしょうか」
「ああ、ちょうど衣替えと重なりまして。衣装や調度品を冬から春の装いに変える必要もありますから、それで慌しくなっているのです」
「そうでしたか。私の装束を新たに作って頂けるそうですが、これほど忙しいのであれば断った方が良かったでしょうか」
「いえ、装束の準備をする者はそれのみに注力しますから、ご心配は無用です。それに既に仮縫いが出来上がったと聞いていますよ」
「早いですね。あとで見に行ってみましょう。それから、今回は二人舞と聞いていますが、お相手の方はもういらしているのでしょうか。打ち合わせが出来れば嬉しいのですが」
「いらしてるはずですが……。どこかでつかまっているのかもしれません。顔が広いというか……話したがるものは多いですから」
「そうですか。ではお邪魔にならないところで練習していてもよろしいですか?」
「ええ。相方殿がいらしたら声をかけます」
如才なく立ち回る文官へ軽く会釈をして、人気のない隅の方へと移動する。
「花の匂いが立ち上るようですね……」
既に桜は満開の頃合いを迎え、柔らかな桃色が洪水のように溢れ出していた。少しだけ舞い散る花弁を手で受け止めて微笑んだ。ここが良い。
六白が踊ることを頼まれたのは、祝賀でよく舞われる古典的な演目だった。ゆったりとした動きで簡単そうに見えるが優美に舞うのは難しい。それも二人で対照的に動くのだから、相手と呼吸を合わせねばならない。
つまりは、本番一発勝負は無理ということ。
考えながら、軽く型をなぞる。
舞うのは好きだ。
雅楽には明確なストーリーもなければ喜怒哀楽の表現もない。あるのは大自然や世界、流れ行く悠久の時の表現。どこか非現実的な音が重なり、動きも呼応し、世界と自分が融合して行きーーいつしか安楽を得る。
音楽を心の浄化と言った人がいたが、その感覚には納得できる。
寄せては返す波の如く袖を返す。
六白の世界を壊したのは、突然現れた足音だった。土を踏みしめて歩く音がして、そのうち止まったかと思うとそこで立ち尽くしているようだった。いつのまにか閉じていた目を開けてそちらをみると一人の青年がいた。
金髪に赤毛が入り混じった不思議な色合いの短髪に、少々鋭い目つき。六白より少し若く見えるが、身丈は彼の方がある。一番の特徴は耳に多くのピアスがつけられていることだった。……痛くないんだろうか。
「やっぱり上手いな、あんた」
「え」
「帝直々の指名があるわけだ。しかも装束も特注だし」
男の口調は軽いものの抑揚に乏しく、その低くしっとりとした声と相まって見た目より落ちついてみえた。
「貴方は?」
「あんたの相方ってヤツ」
「旬宴ですか」
「それ以外にある?」
「それ以外に、特に相方を求めていませんからそうなのでしょう。私のことは六花とお呼びください」
「俺は衝羽根家の鳴莵」
「よろしくお願いします、衝羽根殿。先程、やっぱり、と仰ってましたが、私の舞を見たことがおありですか?」
「いや」
男はトラウザーズのポケットから貝殻を取り出す。手のひらに乗る大きさのそれは内側に鮮やかな絵が書き込まれていた。「再生」と彼が呟くと、貝殻が浮かび上がって空間に映像を写しだす。音とともに流れるのは、六白の舞であった。
「映像記録でしたか。二百年前のささいなことでも残っているものですね」
「公式行事は保管されているからな。参考に借りてきた。ちょうど今回のと同じ演目だし、この音を聞きながら合わせてみるか?」
「そうしましょう。一度やってみて、間違いがないか確認したいですね」
「それならお互いに見合ったほうがよくないか?」
「今流れているのは公式映像ですから、それを見ながらやれば、大きな間違いには気づけるかと。そのあと、お互いに見合って細かな修正をかけるのはどうですか?」
「異論ない。ただ、俺はこの曲をやるのが初めてだし、周りに知ってるやつがいなかったから映像で覚えた。細かい動きは分かってないかもしれない」
「そうなのですか。でしたら、先に振りを教えましょうか」
「ああ」
ふむ。教えてみて、彼の飲み込みの早さに驚く。この調子なら今日中に一旦全て伝えてしまえそうだった。
それにしても、端的に話す男だと思ったが、舞の方もそうらしい。情感たっぷり、とは程遠い動きだ。振りは完璧なのだがどこか素っ気ない。
面白いなあ。
決められた振りであっても、踊るものによって異なる印象を与える。
個性とはこういうものなのかもしれない。
「なあ」
「……はい?」
思考に気を取られて、反応が一拍遅れた。
「ぼーっとしてるけど。……俺は下手か?」
「いえ、そんなことはありませんよ。むしろ覚えは早いですし、元々素養がおありなのでしょう」
「昔少しやっただけだけどな」
「もっと練習を積めば良い舞い手になれますよ。……どうかしましたか?」
男の視線が自分から外れていることに気づき、視線の先を追って行く。前方にある建物の廊下に向けられているようだが、特におかしなところはなさそうだった。
「いや、何でもない」
「そうですか? お会いしてから既に半刻以上は経っていますしお疲れではありませんか? 休憩しましょう」
彼の行動を疲労からの集中力低下と捉えた六白は一休みすることを提案した。ほぼ自己紹介をすることもなく今に至るから、ついでに相手のことを簡単に知っておきたいとも考えている。
「ああ」
「この辺りは準備でお忙しそうですし、どこかちょうどいい場所はないでしょうか……」
「今は比較的どこも慌ただしいから静かな場所はそうそうない」
「そうですか。そうなると木陰で休むくらいになってしまいますが」
「俺は構わないけど」
「ではそうしましょうか」
桜の樹の下に二人で座り込み、一息つくと当たり障りない世間話から入ろうかと思い、しかし思い留まる。相手の性格からして、不必要な会話は好まなそうな気がした。では、単刀直入にあなたはどこの誰で何をしてる人なんですか。と問うのがいいのかもしれないが、それはそれで尋問の様に聞こえそうだ。
「なに?」
「……ああ、いえ。そういえば、きちんと自己紹介していなかったなあと思いまして」
「俺はあんたを知ってる」
「では、貴方のことを教えてくださいますか?」
「ふうん。あんたみたいなヤツでも俺のことが気になるんだな」
「私みたいな、とは?」
「他人に興味なさそうだから。それに滅多にこっちに出てこないから、俺とはもう会わないかもしれない。そういう関係の薄いヤツをわざわざ覚えようとはしないんじゃない?」
確かに。誰彼構わず気になることはないし、よほど興味を惹かれなければ自分から話しかけることもしない。家の者以外に親しいのは幼馴染くらいである自分が社交的でないのはわかっていた。
代わりに一度親しくなったものには、過多に気持ちを入れてしまう面もあることを自覚している。いわゆる、狭く深く人付き合いをする方なのだ。
「しかし、せっかくお相手になったのですから、お名前以外にも知りたいくらいの欲求はありますよ」
「そう」
で、何が知りたいの?と目で問いかけられて唸る。改めて訊くとなると難しいものだ。
「では、今回選ばれた経緯はなんですか? 楽家の出というわけではないんでしょう」
「そこそこ踊れて暇だったから声をかけられたってだけ。あんたとは見た目の年齢はそれほど変わらないからちょうどいいと思われたんだろ」
「見た目の年齢……、となると実年齢はおいくつですか?」
「二十」
「お若いのにご立派ですね」
二十など、三百年程生きている六白にとっては子どもに等しい。その心中を察したのか鳴兎は嫌そうに口を歪めた。
「長命のあんたらと違って、俺たちはもう成人の歳なんだからガキ扱いするのはやめろよな」
「何も言ってませんよ」
笑い含みの声では真に迫らない。当たり前に男の機嫌を損ねてしまい、内心苦笑する。むすっと不機嫌さを露わにしているのも若々しいことだ。
ここでからかい交じりに親愛を示すのがラディだが、生真面目に捉えるのが六白である。
「貴方の矜持を傷つけるつもりではなかったのです。私も友人からいつもその様な扱いを受けていますから、気持ちはよく分かります。どうか機嫌を直して頂けませんか?」
「……はあ。てか、あんたが子ども扱いとか。歳いくつ?」
「三百ほどです」
「大ジジイじゃん」
「は……」
口を謹んで欲しい。
長命である神々の中ではかなり若い部類だし、見た目も人で言えば二十歳ほどだ。それなりの経験や自負もあるが老成には程遠く。いやしかしよりにもよってジジイ扱い。納得できようもない。
「私がジジイなら貴方は胎児になりますよ、いや生まれてすらいないのではないですか……?」
「へ」
「生まれていない貴方をどの様な扱いにすればいいんでしょうね?」
「想像上の生き物みたいな……?」
「え」
「幻獣と同類ってことだろ。竜とか」
「竜はいますよ。人里には降りてきませんから見かけないだけでしょう」
「ここ数十年確認されてないって聞くけど?」
「最近見てないからといって決めつけるのは早いですよ。近視眼は良くありません」
「数十年が最近?」
下手したら人の一生分の期間を”最近”で括ってしまえる感覚を、短命である鳴兎は持ち合わせていない。同じように見えてやはり違う生き物なのだと悟った。
それとは逆にたった数十年が、人にとっては長い年月であると六白は気づく。ほんの少しの間に生を終えてしまう者達とは根本的に見方が異なるのかもしれない。
そこで少しだけ幼馴染の親衛隊の気持ちを理解する。
瞬く間に過ぎ行く命だからこそ、一つの感情に心を燃やすのだろう。
燃え盛る情動とは一体。
己を焦がすほどの情熱など知らない。知りたいとも思ったことがなかった。
ふと幼馴染はどうなのかと考える。淡白な自分の目から見ても魅力的な男だ。一度や二度はそういった経験があっておかしくない。機会があれば聞いてみたい。
「貴方にジジイと言われる理由がなんとなく分かりましたよ」
「俺はあんたがジジイじゃないってことがわかったよ」
「しかし、ジジイと呼ぶのはよしてくださいますか?」
「ああ」
良い子の返事を聞いて、六白は若々しく鮮やかに笑みを浮かべた。
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