第11話 使命
『さ よ う な ら あ い し て る』
爺さんが最後に言った言葉が頭から離れない。この言葉は、この非現実的な出来事に関係あるのだろうか。この言葉は、爺さんの最も伝えたかったメッセージ、特に赤ん坊へのメッセージなのかもしれない。でも、爺さんに子どもがいたのだろうか。確か、爺さんは結婚はしていないといっていた。愛人はたくさんいたらしいが。愛人との間にできてしまった子どもなのだろうか。
なんとかなる、と思っていたけれど、もう何ともならない気がする。永遠に現実の世界には戻れないのだろう。どうせ死ぬのなら現実の世界で死にたかった。
ピッピッピッ
ピー
ピッ
何の音だ。
トントントン
誰かが何かを叩いている……?
僕の手が温かいものに包まれた。
「守、大丈夫だよ」
誰の声?
「起きたら何食べたい? 食べていないからお腹も減ったでしょう」
「守、待ってるからな」
「点滴交換しますね」
点滴……?
何が起きているのか見たい。けれど、目が開いてくれない。体も動いてくれない。音は聞こえるのに。点滴ということは、ここは病院なのだろう。さっきの声は父さんと母さんだな。懐かしい声だったから。そうか、僕は倒れたんだ。でも一応僕は生きているみたいだ。他のみんなはどうなったのだろうか。足助、木元さん、そして戸中さん。爺さんも無事なのだろうか。
「また来るからね」
ガラガラと扉が開く音がし、またガラガラと閉まる音がした。
父さんと母さんは帰ったみたいだ。
カタカタとキーボードをたたく音がする。看護師さんだ。電子カルテに記入しているのだろうか。意識はないけれど、体が機能している限り生きているとみなされ、存在を認めてくれている。ただ眠っている僕に対して何を書くことがあるのか分からないが、カルテに入力してくれて、点滴を交換してくれる。永遠に意識が戻らない場合もあるのだろう。それでも僕を人間として認めてくれるのだろうか。
「古坂君だけじゃなくて、まだみんな意識が戻らないの。一緒にいたお爺さんもね。学校の食堂ね、鍵を閉められちゃったみたいで。エアコンが壊れてサウナみたいに熱いからまさかまだ人がいるなんて思わなかったみたい。それで閉めてから6時間以上経って発見されたのよ。足助君が飲み会に現れないって言ってサッカー部の部員たちが探してくれたみたいなの。もしかしたら、ということで食堂に来てみたらみんな倒れていたの。奇跡だったのよ。次の日の朝まで分からなかった可能性もあるんだから。ご両親も心配しているわ。でも私はね。どんな状態でも目の前の患者さんに希望を持っているの。だから、古坂君も諦めないで」
涼しいはずなのに、目から汗が。あきらめちゃいけない。でも、僕にはまだ現実に戻る前にやるべきことがあるんだ。だからまだ目は覚ましちゃいけないんだ!
「泣いているの?」
看護師さんが不思議そうに聞いた。言葉を返せない僕にこんなに語りかけてくれるなんて。絶対に、赤ん坊を母親に会わせてやる。それが僕の使命なんだ。だから、まだ目を覚ます時ではない。爺さんの言葉と赤ん坊の母親、これが僕のやるべきことだ。
「もうすぐで夜勤さんに交代になるけど、また明日私が担当だから。よろしくね。その前に目が覚めちゃったりしてね」
そう言って看護師さんは楽しそうに笑いながら部屋を出て行った。
まだみんな意識を取り戻していないことが分かった。早くしないと。木元さんにはもう1人の命がある。
――目を開けると、戸中さんが僕の顔を覗き込んでいた。
「まもっちゃん!」
「良かった。目が覚めて」
「古坂君が意識失ってから、赤ちゃんも眠ったの。まだ寝てる」
そう言って木元さんは指差した。指差した方を見ると、赤ん坊が眠っている。
「僕たち、意識を失って今、病院にいるんだ」
言わなきゃ、ちゃんと。そして、行動しないと。
「爺さんも同じだ。でも僕たちはまだ目を覚ましてはいけない。この部屋でやらないといけないことがあるんだ」
みんなが瞬きもせずに僕を見つめる。ちゃんと伝えられるだろうか。伝えなきゃいけない。
「結論から言うと、赤ん坊と母親を再会させる必要がある。その鍵となるのは。みんなも聞いたかもしれないけど、爺さんの言葉。『さ よ な ら あ い し て る』、これが重要なメッセージだと思う」
「ユウはまもっちゃんの意見に賛成」
「俺も」
「私も」
――伝わった。
「でも、どうすればいいのかわかんねぇ」
足助が嘆く。
その時だった。
ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
赤ん坊が目を覚ました。
「やらなきゃなんないのは分かった。でも、何をすればいいんだよ」
足助が僕に向かって叫んだ。
僕にも方法が分からない。でも、赤ん坊は母親を欲している。
「ねぇ、どうすればいいの……。教えてよ」
木元さんが赤ん坊に問いかける。赤ん坊は木元さんをじっと見つめている。
「ママ いい。ママ いい。ママ いいの!」
赤ん坊が僕たちに向かって必死に訴えている。赤ん坊が反対側の壁に向かって走る。どん、と音がした。赤ん坊が壁におでこをぶつけたようだ。
赤ん坊がこちらを向く。
「いたい あたま」
木元さんが赤ん坊にそっと近づいてしゃがむ。そして、赤ん坊のおでこを右手でさする。優しい声で話しかける。
「いたかったね。大丈夫だよ」
「ママ ママ」
赤ん坊が顔を歪める。目が赤い。手の平で木元さんの頭を叩く。木元さんは赤ん坊を見上げる。表情は分からない。
次の瞬間。
ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
赤ん坊の叫び声と同時に、赤ん坊は木元さんの肩を押し倒す。木元さんは仰向けに倒れた。赤ん坊はこちらに走ってきた。
ハッハッハッハッ
ハッハッハッハッ
ハッハッハッハッ
赤ん坊はよろめくことなく快調な足取りだ。
「こっちにこないで」
戸中さんの声は震えている。後ずさりする。
カラン
赤ん坊の目の前に、長い鉄の棒が現れた。
赤ん坊が両手で鉄の棒を拾った。
トン
赤ん坊の身体の前に立てられた棒は、戸中さんの背丈と同じくらいだ。僕が163センチで、戸中さんはそれよりも結構低く見える。鉄の棒は155センチほどだろうか。もちろん、赤ん坊の背丈に比べるとかなり長い。それでも赤ん坊が両手で握れる太さだ。赤ん坊は平気な顔で棒を拾い上げたが、床に転がった音は結構響いた。結構な鉄の棒のような感じがする。
赤ん坊は両手で鉄の棒を剣道のように振りかざした。
戸中さんは声が出ないようだ。
赤ん坊はしっかりと戸中さんの頭を見上げる。戸中さんは赤ん坊を見下ろしている。普通に考えると、赤ん坊が自分より背の高い鉄の棒で大人をどうにかできるとは考えにくい。普通に考えればだが。
その時。
ガンッ!
「いった」
戸中さんが後ろに倒れた。鉄の棒が戸中さんの右肩に押し付けられている。そして、何度も棒が戸中さんの腕、足、腹部までを叩きつける。
「こほっ、はぁはぁ、やめ……こほっ」
戸中さんの息が乱れる。
「やめ、て。はぁはぁはぁはぁ……」
「やめろおおおおおおおおおおおおおお」
赤ん坊を戸中さんから引き離したのは足助だ。
赤ん坊は仰向けになった。全身をバタバタさせている。
「ママ ママ ママ」
「ママに会いたいのは分かってる。でも仲間をこれ以上傷つけないでくれ」
足助が鉄の棒を奪おうとするが赤ん坊は決して手の力を緩めない。
「その棒、下におろしてくれ」
「い や だ」
戸中さんはうずくまって息を乱している。
「うっ」
赤ん坊が足助の腕に噛みつく。
足助は自分の腕を何とか引き離そうとするが、噛みつかれたままびくともしない。
「やめてくれ。離せ」
赤ん坊は力を緩めようとはしない。
ギギギギギギギ
緩めるどころか、さらに力を入れて足助の腕を噛んでいる。
「うっ、はぁはぁ」
足助がもがき苦しんでいる。
「助けてくれ」
「足助君!」
木元さんが背後から赤ん坊を力ずくで引っ張る。
ドンッ
カランッ
木元さんが尻餅をついた。赤ん坊も木元さんに倒れ込んだ。鉄の棒も赤ん坊の手から離れた。
「はぁはぁ……」
「死ぬかと思った。いってぇ」
足助は噛まれた腕をまじまじと見つめている。
「なんだこれ」
足助の腕は真っ赤に腫れ上がっている。目を覆いたくなるほど痛々しい。
「つか、腕やっぱいてぇわ」
足助は腕を動かせずにいる。
僕はこの痛々しい一部始終を見て、一歩も動くことができなかった。ただの傍観者だ。恐ろしくて足がすくんだのか、機能的な原因で動かないのか分からない。
「ぐずっ。ママ」
赤ん坊が泣いている。赤ん坊は木元さんから離れ立ち上がった。再び鉄の棒を握りしめる。そして、木元さんの後頭部めがけ、鉄の棒を振りかざそうとした。
「やめろっ」
足助が木元さんに覆いかぶさる。
「きゃっ」
「うっ」
足助は木元さんに倒れ込んだ。赤ん坊は鉄の棒を足助の後頭部めがけ強打したのだった。
「足助君!」
赤ん坊は容赦なかった。赤ん坊は僕をめがけ鉄の棒を投げ捨てた。木元さんの髪の毛の毛を引っ張り上げる。木元さんは顔を歪める。必死で赤ん坊の手を振り払おうする。
「亜也加ちゃんの髪の毛を、引っ張らないで」
か細い声の主は戸中さん。全身を鉄の棒で強打されボロボロだ。
パラパラパラ
赤ん坊の手から黒くて細い髪の毛の毛が床に落ちた。
木元さんは無表情で抜かれた自分の髪の毛の毛を見つめる。木元さんへの攻撃は、これで終わりではなかった。赤ん坊は僕に近づく。鉄の棒を拾う。木元さんに向かって走り出す。木元さんの後頭部を一撃した。
ガンッ!
木元さんは声すら出せないままその場に倒れた。
「ヒッ、あ、あや、亜也加ちゃん」
木元さんと足助が意識を失った。戸中さんもほぼひん死状態だ。いつ意識を失うか分からない。かろうじて目は開いているようだが。赤ん坊は木元さんに最後の一撃を加えた後に、啼泣し、そのまま眠ってしまったのだ。このまま僕も死ぬのだろう。赤ん坊と母親を会わせてやりたいと思った。そしてそれが僕の使命だと思った。でも、赤ん坊と心が通じ合わない。赤ん坊から見て、僕たち4人は見知らぬ敵なのだろう。
最後に生き残った僕だが、その理由がただ一歩も動かなかったからだなんて。
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