第9話 夢の中

「高齢になると、身体機能の衰えや……」

 はぁ、退屈だ。早く終わらないかな。

「まもっちゃん、起きて」

 僕に話しかけてきたのは、戸中さん? 珍しいな。僕が戸中さんと一緒に講義を受けるなんて。右側に戸中さん、左側に木元さん。いつもは一人ぼっちで座っているのに、今日は、両手に華。この僕が女子に挟まれてるって、天地ひっくりかえるぞ。しかも、僕が最前列に座ってる。てかこの先生、どっかで見たことあるけど、誰だ、誰だ、誰だぁ? 


 それにしてもだ。100人収容の広い講義室で、満員。こんなに静かなのはは初めてである。誰一人としてしゃべっていないではないか。みんな、真剣にノートを取っている。なのに、僕は、全然書けてないじゃないか。木元さんだって、先生の言葉を1語1句書き留めているような細かさだ。

「大丈夫よ、まもっちゃん。私もノート取ってないから。後で亜也加ちゃんに見せてもらおう」

 戸中さんが僕の白紙ノートと、挙動不審の僕を見て焦っていると思ったのだろうか。戸中さんはいつも通りのようだ。ゼミでもそうである。メモを取っていないがためにしょっちゅう僕に、後から連絡事項等を確認されるのだ。まぁそういうことを僕は気にしないのだけれど。メモを取ってないなら、取った者が教えてあげる。それでいいじゃないか。それに、毎回聞くことが面倒になり、自分でメモを取った方が効率的だ、とどこかで学べばメモを取るようになるだろうし、聞く方がその人にとって好都合ならばそれでいいと、僕は思う。それに、僕は幸いにして普段から人との関わりを節約しているため、ゼミのときくらい、毎回しつこく聞いてくる人の対応が嫌になることもない。稀に意地悪な奴もいる。メモを取らなかったのが悪い、と。世の中厳しいものだと思ってしまう。

 しかし、退屈だ。退屈だからこそ、ノートを取るのだと思う。僕はノートを取り始めた。でも、この先生はホワイトボードに書かない主義のようだ。全て口頭で話が進んでいく。どこが重要なのかもわかりにくいし、やっぱり書くのやめよう。


と、思ったものの。



「ふぅ。ここからが重要な話じゃぞ。テストに出るからな」

 テストに出るのか。ここからはちゃんとメモしよう。それにしてもこの先生、汗だくである。ロングの白い髪の毛とロングの髭から汗がしたってる。ここエアコンも効いて、結構寒いくらいなのに。

「わしはもう85じゃ。昔は質素な生活をしとった」 

 なんだ、昔話か。こりゃ長くなるぞ。とりあえず、年齢はテストに出るのかな。メモしとくか。

 


 延々と先生いや、爺さんの昔話が続いている。僕以外の学生は相変わらず真剣に聞いている。僕は何でこの大学を選んだんだっけ。何で福祉学科にしたんだっけ。「福祉」っていいことだと思って、人の役に立つと思って、選んだんだ。でも、それは僕にとっての綺麗ごとの言いわけだ。本当は、「何となく」、「入れそうだったから」という理由である。それに「福祉」というと聞こえがいい。そういうわけで僕はこの大学の「福祉学科」に入学したのである。



ぐおぉおおおおおおおお、ぐおぉおおおおおおおおおおお……。



 先生はおろか、僕しか気にしていないようだが、戸中さんのいびきが聞こえる。しっかりと前を向いたまま目を閉じている。さすがに前列でこれはないだろ。



 ハックション!

 豪快なくしゃみと同時に、ずずっと、鼻をすする音が聞こえる。木元さんが横を向いてティッシュを渡した相手は、足助だ。

 


ぐおおおおおおおおおおおおおおお。

 

 授業をきちんと聞いているわけではないが、これは迷惑だ。耳が痛い。一言、声をかけよう。

「戸中さん」

 ぐおおおおおおおおおぉおおおおお。

「戸中さん」

ぐおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。

「戸中さん」

 ぐぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。

  


 爺さんは耳が遠いのだろうか。さすがにこのいびいは無視できないレベルなのに。ほかの学生も淡々とノートを取っている。僕は神経質すぎるのだろうか。木元さんも何も気にしていない。戸中さんに何度も声をかけているのにも関わらず、いびきは大きくなるばかりである。戸中さんには申し訳ないが、ちょっとつつかせてもらうことにする。つんつん、と僕は戸中さんの肩を指でつついてみた。すると、戸中さんが半目でこっちを見た。

「なに?」

 戸中さんが僕に聞いた。なにと言われても、いびきがうるさかったから起こしたんだよ。声をかけても聞こえてないみたいだったから、肩をつつかせてもらった。というのが正直なところなのだが……。実際は何て言えばいいのやら。普通の友達とかなら、こう言うのだろう。『いびきうるさかったぞ』って、小声で。僕には言えない。寝ていたから起こしたって言おう。

「寝ていたから、起こした」

「誰が?」

「誰がって。戸中さん」

「えぇ! ユウは寝てないんですけど。だって、見て、私の超びっしりノート」

 そう言って戸中さんは誇らしげにノートを見せてきた。す、凄い。確かにびっしりと書かれている。

 じゃあさっきのいびきは何だったのだろう。僕の聞き間違いなのだろうか。どうりで誰も気に止めていなかったのか。



「ナラティブとは、語ることじゃ。聞いてくれる相手に、語るのじゃ。そうして新しい自分の物語が誕生するのじゃ」

 物語、か。僕の語りを聞いてくれる人はいるのだろうか。語ることで物語が生まれるのなら、誰かに聞いてほしい気もするけれど。でもやっぱり聞かれたくない、僕の心の内なんて。

「そろそろ、時間じゃな。今日はこれで終わりじゃ」

 待ってました! と言わんばかりにみんなが一斉に立ち上がる。そして、ぞろぞろと教室を出て行った。僕のゼミ仲間もいつの間にか、もういない。なんて早いのだろう。



「おっと、言い忘れとったわい。最後のまとめを」

 そう言って爺さんが僕に近づいてきた。そして、ぎゅぎゅっと髭を絞り、ぽたぽたと目の前の机に汗を垂らす。

 突然、爺さんはカッと目を見開き、とんぼの目になった。そして僕を真っ直ぐ見つめた。すると低く恐ろしい声で言った。











「さ よ う な ら あ い し て る」

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