第7話 悪魔に憑りつかれる
「悪魔に憑りつかれたのよ! 悪魔に!」
戸中さんが余計なことを喋ってしまった。この件に関しては口にしないことが暗黙の了解だと思っていたのにも関わらず、だ。あろうことか、戸中さんは、木元さんが赤ん坊を振り回したことなどを詳細に語ってくれた。足助がため息を漏らすのも無理はない。臭いものには蓋をするべきなのに。
肝心の木元さんは、きょとん、とした顔で戸中さんの話を聞いている。
「あんたはねぇ、悪魔なのよ。まだユウは信じないから。またいつ豹変するかも分からないし。あんた、赤ん坊を殺そうとしたの」
ここまで言い終えて戸中さんは一呼吸おいてさらに続けた。
「……亜也加ちゃんが悪いんじゃない。けど、憑りついている悪魔がいる限り、亜也加ちゃんとして思えないから」
ここまでの戸中さんの話を聞いて、僕はひらめいてしまった。こんな時に笑いそうになる。僕が笑いをこらえている間も、足助は相変わらず怪訝な顔で戸中さんを睨んでる。
僕は気づいてしまったのだ。戸中さんのセリフが、この前、偶然にも立ち読みした漫画の中にあったことを。これを言うべきか、言わないべきか。また話がややこしくなるから言わない方がいいだろう。よりにもよって、漫画なんてめったに読まない僕が、読んでしまっていた。タイトルは『悲報:わたし、憑りつかれました』。戸中さんのセリフは、漫画に出てくる主人公『ミゾレ』と大筋合っている。
足助の顔からイライラが噴き出ている。足助はこの漫画を知らないのだろう。戸中さんも、悪気があるわけではない。漫画の世界に行ってしまっただけだ。
「戸中、いい加減にしろ。木元は何もしていないだろう。目を見ろ。木元の目だ」
「亜也加ちゃんの仮面を被った悪魔なの」
「そしてみんな悪魔になる」
あ、言ってしまったと思った。絶対に黙っておこうと決めてたはずなのに、言ってしまった。僕の口から出てきた『そしてみんな悪魔になる』、聞こえたはず。もう僕は言い逃れできない。最悪な状況になってしまった。
戸中さんが、えっという表情で僕を見ている。そりゃそうだ。足助も僕を見ている。見ないでくれ。そう思ったとき……。
「悲報、わたし……憑りつかれました……」
言ったのは木元さんだった。
「でしょ、ユウちゃん。私も好きなの、この漫画! この続きが気になってしょうがなくてさ。てか、古坂くんも読んでたんだ。新事実だね」
そう言って木元さんが笑う。
まさかの展開?
「ええええええええええええ。まもっちゃんも読んでたんだ!」
木元さんに突っ込むでもなく、僕に突っ込む戸中さん。
「要するに、漫画の話ってことだな」
足助は納得したようだ。
「うーん、足助くんはあれだね、ミゾレを助けるために生まれてきた『ウコン』! でもって、ミゾレは亜也加ちゃんだから、足助くんが亜也加ちゃんを守る、まんまじゃん!」
戸中さんが興奮してキャラクターの説明をしている。
「えー、ウコンじゃかわいそうだよ。ちっちゃい石みたいなやつなのに」
木元さんと戸中さんは『悲報:わたし、憑りつかれました』の話題で盛り上がっている。僕はこの漫画の続きを読むつもりもない。僕にとってみれば大して面白くないのだ。
「古坂も、読むんだ」
足助が僕に話を振ってきた。
「いや、そんなには」
気まずい。この漫画について語れと言われても自信がないのに。何でさっき、口からセリフが出てしまったのだろうか。
「古坂も、そういう、少女が出てくる系が好きなんだ? アニメとか」
「あ、いや、たまたま……」
本当にたまたま、偶然だったのだ。確かに、『悲報:わたし、憑りつかれました』は世間一般でいうオタクが好んでみるような類である。主人公も、大きい目をした巨乳のボッキュボンの2つ結びの高校生だ。だけど、僕はそういうのには全く関心がない。今回のだって、不運としか言いようがない。興味本位で手に取っただけである。
木元さんと戸中さんはすっかり意気投合している。
「電話が鳴ると赤ちゃんが現れて、成長してる」
足助がふと言った。
「足助くんの言うとおり。最初は寝てて、次は座ってて、さっきはハイハイしてた」
ん? 今、木元さん、『次は座ってて』って言った? 木元さんが突然笑い出し、振り回したのは座った赤ん坊だった。確か木元さんは赤ん坊が現れる前にその場に倒れ、その時は確か赤ん坊はいなかった。つまり、木元さんは赤ん坊には気づいていなかったはずである。座っていたことを覚えているならば、その時の記憶があるということなのだろうか。赤ん坊は木元さんの隣にいた。座っていたことは認識しており、自身の行動は意識にはない可能性もあるのだが。
「古坂くん、私の顔に何かついている?」
「え? いや何も」
気づいたら木元さんの顔を凝視していたようだ。
「ところでさぁ、私が悪魔に憑りつかれたってどういうこと?」
「それは気にしなくて……」
足助が言いかけると戸中さんがそれを遮った。
「亜也加ちゃん、本当に覚えてないんだね」
「うん。なーんにも。突然目の前が真っ白になっちゃってさ。私が変なことしてたならごめんね」
「大丈夫だ。木元、そのことは忘れていいから」
「この状況、どう解釈すればいいんだろう。死んでるのかな。生きてるのかな。どうすればいいのかな」
木元さんは目を潤ませる。しばらく僕たちは無言だった。
その時だった。
ぐぅ……。
戸中さんのお腹の音だった。
「ふっ」
僕はつい吹きだしてしまった。
「まもっちゃんが笑った! でも、だめっちだよそれじゃあ。笑うときはもっと大きい声で笑わなきゃ。『ふっ』って何よ」
「腹減ったな」
「お腹が減るということは、ユウたち生きてるんだよ。細胞はまだ生きてるってこと。お腹が空くホルモンはちゃんと働いてるってこと!」
「あは、あは、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっははっははっははっはははっはあはっははははははははははははははぁはははぁはっはぁはははははははは!」
突然、木元さんが笑い出した。
時が止まった。
サ―っと背中に冷たいものが流れた。
「って、笑うんでしょ。ユウちゃん、頭いい! もし細胞が全部死んでたらお腹空かないもんね」
木元さん、やっぱりまだ何かに憑りつかれているのか。戸中さんの言ってたこと、当たっているかもしれない。そうであれば、木元さんがあの時赤ん坊が座っていたことを知っているのもありえる話だ。
「木元がそんな風に笑うの初めて見たわ」
足助は明るく努めてくれている。
「そ、そう? いつもこんな感じなんだけどな」
木元さんは、何か変だった?というような表情をしている。
「お腹空いても食べるものないじゃん。あーあ」
戸中さんがふてくされる。
確かに腹が減った。昼を食べてからこの状況に至っている。今はもう夕方は過ぎているに違いない。
「じゃ、じゃあ、しりとりしようぜ。食べ物で」
「余計お腹空くよ」
木元さんは冷静だ。
「楽しそうー。どうせ暇だし、お腹は空くし、想像で満腹になればいいんじゃない。じゃあスタートね。まもっちゃんから」
何故僕なのだろう。
「バナナ」
「なっとう!」
「うなぎ」
「ぎんなん、あっ」
「足助くんブブー! 一人脱落ね」
「てかつまんねー」
足助がぼやく。
食べ物しりとりは早くも終了した。
「『悲報:わたし、憑りつかれました』読んでるんでしょっ。奇遇だなぁ。誰が好き?やっぱミゾレ?」
「うん」
戸中さんからの質問には、適当に返事をした。別に巨乳に興味があるわけでもない。好きなキャラといわれても思いつかない。戸中さんはこの漫画が相当好きだということが伺える。
「やっぱりかぁ。ボッキュボンだもんね! ユウはねー、『ゴッソン』押しなの。ゴッソンはイケメンでね、ミゾレのこと嫌ってるように見えるけど、あれ、絶対好きなんだよ! だからゴッソンを応援してるの」
「へぇ。そうなんだ」
「ちょっと、つれないわね。まもっちゃんがゴッソン嫌いなの分かるよ。ミゾレの敵だもんね。でも、ゴッソンがミゾレを手に入れるんだからっ」
「そっか」
「なぁに、落ち込んでんのよ。ま、結末は謎よ、な・ぞ」
戸中さんは本当に楽しそうだ。
「でね、もうウコンってば邪魔なのよ。ゴッソンが今度こそミゾレのためにと思ってやろうとしているときに限って、いっつもウコンが邪魔するの。てか、ウコン未来から来たでしょ? ゴッソンはね、過去から来て、あれよ、ポケベルの暗号でミゾレに気持ちをアピールしてるの。ミゾレはポケベルの時代じゃないから? だからさぁ、暗号を受け取るんだけど、何のことやら、って感じでじれったいのよ。ミゾレの親は昭和生まれなんだから教えてもらえばいいのにねー」
「そうなんだ」
戸中さんは僕のつれない反応を気にもせず話し続けている。
一方で、木元さんと足助が何やらいい雰囲気で話をしている。足助も気の毒に。木元さんに彼氏がいたなんて。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリ、ジリリリリリリリリリリリ
黒電話が鳴った。
「待ってて」
そう言って足助は電話の方へ向かった。
ジリリリリリリリリリリリ、ジリリリリリリリリリリ
ごくり。
足助が唾を飲み込む音が聞こえた。
カチャ。
『ママ……ママ……』
赤ん坊の声だ。
「もしも……」
足助が言いかけた時、赤ん坊が現れた。
足助は静かに受話器を置いた。
「現れたな。答えてくれ。君は誰なんだ」
そう問いかける足助を赤ん坊はじっと見つめている。
ママ、ママ。
「ママに、会いたいのか」
ママ。
しっかりとしたヨチヨチ歩き。
ママ、あははっ、ママ、あははははははは……。
よち、よち
よち、よち
一歩一歩踏みしめるようにこちらへ向かってくる。
「説明してくれ、これはいったいどういうことなんだ! 俺たちをここから出してくれ!」
足助が赤ん坊に向かって叫ぶ。
ママ、ママ、ママ。あはは。ママ。
スピードが速い。
よちよちよちよちよちよちよち
よちよちよちよちよちよちよち
よちよちよちよちよちよちよち
足助の目の前までやってきた。
足助は赤ん坊から目を逸らさない。
赤ん坊も足助をじっと見ている。
木元さんが赤ん坊の前へ行った。
「歩くの、上手になったね」
木元さんは母親のような顔だった。
赤ん坊はすーっと消えていった。
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