第4話 真っ白い部屋へ
ひんやり。先ほどまでの暑さが嘘のように、僕の汗がすーっと引いていく。全身の筋肉がゆるみ、19年もの間つもりに積もった重しから解放された気分だ。熱でうなされているとき、母さんの冷たい手がおでこに触れる。そんな懐かしい感覚をも思い出させる。
僕は今まさに天を舞っている!
快感の渦にのみ込まれていると、かすかに何か聞こえてきた。猫の泣き声? それとも鳥? よく聞こえないがそのような声なのか音が耳に入ってくる。
ふわり、ふわりと宙を巡っている僕はだんだんと自分の重しが戻ってきているのを感じる。それにつれ、得体の知れなかったその「声」がはっきりと認識されてくる。おぎゃあ、と確かに聞こえた。
ふわっと体が急降下した。強い浮遊感だ。まだ僕は舞っている。おそるおそる目を開く。
眩しい!
あまりの眩しさに目を細める。ちゃんと目を開けられずにいると突然、耳の鼓膜にけたたましい泣き声が突き刺さってきた!
おぎゃ おぎゃ おぎゃ おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ
赤ん坊の泣き声で間違いない。耳が痛い。目も痛い。目をつむりながら耳を両手で塞ぐ。何が起こっているのかわからない。
今度は少しずつ目を開いていくと……。
真っ白だった。
赤ん坊は泣き声は止まない。
ふわっと再び体が下降した。
ドッスン!
「うっ、いってぇ」
「きゃあああぁ」
「びっくたぁ……」
「っはふん」
僕たちは豪快にしりもちをついた。最後の乙女ちっくな声は、不運にも僕だ。僕の思考は今停止している。何が起こったのか理解できずに僕たちは放心状態に。地面がひんやりとしている。丁度いい冷たさに浸りながら、言葉を発することができずにいた。
とにかく、白い。しばらくぽかんとしていると、徐々に目の前がはっきりと知覚できるようになってきた。壁も地面も白い。見上げても白い。前を見ると、小さな赤ん坊がいた。衣服はまとっていない裸の赤ん坊だ。先ほどまでの泣き声はこの赤ん坊だったのだろう。ぐるりと周りを見渡すと、数か月前まで通っていた高校の教室ほどの大きさのようだ。要するに、30人程は収容できる広さ、ということか。今ここにいるのは僕を含めて4人、と赤ん坊だ。そう考えると充分な空間だといえる。
――赤ん坊がいる。
いつの間にか、やかましかった泣き声が止んでいた。
「すごくちっちゃい」木元さんが言った。「眠ってるのね。顔もくしゃっとしてる。髪の毛もうっすら生えているけれど、まだ生まれたばかりだわ。でも、へその緒はもうすでに切られていてないようね」
生まれたばかりであろう赤ん坊の手足は屈折している。
「男の子だね」
戸中さんの言うとおり、赤ん坊には男子のシンボルがあった。
赤ん坊の隣には黒電話がある。黒電話からうしろの壁にコードが繋がっているが、プラグは見当たらない。黒電話のコードと壁が直接繋がっている。黒電話は田舎の祖母の家で見たことがある。おそらく今はもうほとんど使われていないだろう。黒電話は番号に指をひっかけて回すという仕組みで、僕も小さいころしょっちゅうダイヤルを回して遊んでいたっけ。懐かしい思い出がよみがえる。
「どうなってんだ……。ここはどこなんだ?」
足助が言った。
「もしかして、私たち、意識失ってるんじゃないの。熱中症で倒れてるのよ」
木元さんが言う。
「熱中症で倒れたって、じゃあここは夢の中? もしかして死ぬの? あの世に行く準備をするための部屋?」
戸中さんの妄想には時々感心させられる。
確かに意識が朦朧としていて、何が起こったのかわからなかった。木元さんの言うとおり、僕たちの肉体が病院にあると考えると涼しいのも納得ができる。
「なんか気持ちいいなぁ。天国みてぇだ。ずっとこのままでもいいかもしれない……」
足助はそう言うと両手を広げて仰向けになった。
僕は体操座りが楽だ。身体を丸くして両足を抱えていると安心する。
こんなに気持ちいいなら永遠に続けばいいのに。エアコンが壊れた食堂で爺さんのつまらない話を聞き、額から首から汗を垂れ流していたことを思えば。あぁ、最高だ。ずっと我慢していた便意を解放したような気分だ。
「赤ちゃんの寝顔かわいいー! 写真、写真」
戸中さんが楽しそうだ。すると戸中さんはポケットに手を入れてきょろきょろしている。
「ない。いつもポッケに入れてるのに、スマホ。どこにもない。鞄もない」
戸中さんは声を震わせ、今にも泣きそうだ。そういえば、僕の鞄もない。ポケットには元々何も入れてないけれど。みんなも各々ポケットに手を入れたり、自分の身体を触ったりしている。
「本当だ。私の持ち物、全部消えてる!」
「マジかよ。俺のも」
今分かったことは、僕たちの持ち物が全てないということだ。みんなは大げさな表情をしているけど、僕は、そこまで深刻に考えていない。僕にとって重要なものなんてそんなにないから。
「まぁでも私たち、病院にいるんでしょ。今は意識不明なんだから、そういうことがあっても不思議じゃないかもねっ」
そう言う戸中さんはポジティブだ。
「ねぇ、みんな、山田さんは?」
木元さんが突然思い出したように聞いた。
「あぁ、あの爺さん。あの人も病院に運ばれてるんじゃねぇの? とりあえずここにはいない。うーん、タフな爺さんだったからピンピンしてる可能性もあるな」
そう言って足助はまた仰向けになって、目をつむった。
『さ よ う な ら あ い し て る』
爺さんがこの言葉を最後に言っていたことを思い出した。みんなにも聞こえていたのだろうか。僕にははっきりと聞こえた。しかも、ゴマ粒ような目が突然とんぼの目になったのだ。思い出すだけでも恐ろしい。爺さんは今どこにいるのだろうか。生きているのだろうか。突然僕たちが消えて驚いただろうか。いや、消えたというか僕たちは救急車で運ばれたんだったな。爺さんは無事なのだろうか。
「もしかしたら、このまま意識が戻らずに死んじゃうのかも」
戸中さんがそう呟いた。
「とりあえず、どうすることもできないんだし。じっとしとくが吉だね」
木元さんは至って冷静だ。
「まもっちゃんはどう思う?」
「わからない」
わからない、これが本音だ。現実ではありえないことを、現実しか知らない自分がどう解釈できようか。 僕は体操座りをしたまま目を閉じた。きっと目を開けたときは病院のベッドの上だろう。
――そう信じていた。
ひんやりとした空間に静かな時が流れた。
ジリリと電話が鳴った。
ジリリリリリリリリ
ジリリリリリリリリ
ジリリリリリリリリ
ジリリリリリリリリ
ジリリリリリリリリ
ジリリリリリリリリ
電話の音は鳴りやまない。
誰も何も言わない。
電話を取るのは僕の役割ではない。僕は自分から行動するタイプではない。普段からリーダー的役割の木元さんか、コミュニケーションが苦手ではなさそうな足助が妥当だろう。なのに、肝心の二人は目線こそ電話に向けているものの動く気配はない。早く誰か動いてくれと思うばかりだ。
そういえば赤ん坊がいなくなった。
けたたましい音は途切れることなく鳴り響く。誰かが電話を取らない限り、止まらないだろう。戸中さんも、口を開けて微動だに動かない。
今、みんなは何を思っているのだろうか。何を感じているのだろうか。時が止まったように感じる。
僕が行かなきゃいけないのだろうか。
ジリリリリリリリリジリリリリリ……
しかし、体が動かない。立ち上がろうとしても、腰が重い。おもりをつけられているかのようだ。
ジリリリリリリリリジリリリリリ……
ジリリリリリリリリジリリリリリ……
耳が、頭がどうにかなりそうだ! 誰か! 動いてくれ!
立ち上がったのは僕だった。自らの心の叫びを追い風に、僕は立ち上がった。僕は足を前に出す。電話の方に近づいていく。心臓がバクバクいってる。僕は何も考えずに受話器を手にした。それを耳に当てる。僕はみんなに背を向けている。背中の向こうで、みんなの無言のプレッシャーを感じずにはいられない。受話器が重く感じられた。
「もしもし、わたしのかわいい赤ちゃん、知らない?」
若い女の声だ。
ガチャン。
僕は思わず、電話を切ってしまった。
真白い部屋は静寂に包まれた。
あれ、さっきまでと何だか違う。背中の向こうに、気配が感じられない。後ろを振り向くことができない。みんなが消えてしまって、いないような、そんな感覚すら感じる。そっか、さっき、みんなが動かなかったのはすでに死んでしまって硬直していたからなんだ。だからもう気配も感じられない。この真っ白い部屋に僕、一人なんだ。電話を取ったことによって、みんな消えてしまったんだ。僕はメガネを外した。どんなに恐ろしい状況でも、ぼやけているせいにできるから。
しかし……。
バンッ!
背中が打たれた拍子で手に持っていたメガネが床に落ちた。心臓が跳ね上がった。
「まもっちゃん!」
「ふぇ?」
頭が真っ白になった。
「で、何だったの? 電話」
木元さんが聞く。
「びびったぜ。電話を取ったと思ったら固まってるからさ」
足助も口を開いた。
どういうことだ。みんながいる。目が熱い。泣きそうだ。
もうなんなんだ!
「電話、ご用件は何だったのよ。無言で切ったら失礼じゃないの」
戸中さんが怒っている。
何ていっていたか思い出せない。戸中さんが僕の背中を叩いた拍子にすべてが飛んで行ってしまった。3歩も歩いてないけれど、思い出せない……。
「わからない」
「また『わからない』かよ。誰が何を言ってたんだ?」
足助が吠える。
僕だって知りたいよ。でも、戸中さんのせいで、戸中さんが僕の頭を混乱させたせいなんだ。
思い出せないよ!
「わからない」
「古坂くんがわからないって言うんだったら仕方ないね。私たち、目が覚めるまで待つしかないのよ」
「そうだね。でも、こんな何もない部屋でどうする? もしかして永遠に出られなかったりして。ね、まもっちゃん?」
「わからない」
『わからない』、こう答えるのが精一杯だ。
足助は手首を見ている。
「腕時計もないわ。時間もわかんねぇ」
時間が分からない。そして、ここがどこかも分からない。ドアも窓もない真白い部屋に僕たち4人が佇んでいる。
さっきの電話は本当になんだったのだろうか。爺さんの最後のあの言葉も繰り返し頭に響く。死ぬときはこういうものなのだろうか。不思議なことが起こる。現実の世界では到底受け入れられないような出来事が『死』のときに起こるのだろうか。
「僕が」電話を取ったのだ。これは紛れもない事実なのに、その事実が称賛されることはなかった。
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