第3話 爺さんの退屈な話②

 爺さんの話は長引いている。

「幸せになるために生きるなんて言葉は嘘じゃよ。まやかしじゃ」

「まやかしかぁ……」

 木元さんがつぶやいた。

 すると爺さんは木元さんをフォローするように言った。

「ほっほ、ただし、ただしじゃ。幸せになるなとも、不幸になるなとも、幸せになれとも、不幸になれとも、決まっとらんよ」

 

 爺さんの言っていることはあまり理解できなかった。愛人が何人もいたというのは要するに、ただの女たらしだとしか思えない。何のために生きるのか、そんな哲学的思想に関心はない。この場をすぐにでも去りたい、それだけである。足助の顔はぐしょぐしょだ。まるでシャワーを浴びたみたいに。

 木元さんは足助をちらっと見るや否や鞄から淡いピンク色のハンドタオルを足助に手渡した。そのやりとりを見ると、人生はなんて平等じゃないのだ、と思う。なぜなら、僕も顔がぐしょぐしょである。ほら、見てよと、木元さんを見つめてみる。

 突然タオルを手渡された足助は一瞬驚いた顔をしたものの、タオルを受け取っている。まんざらでもないようだ。そして、受け取ったタオルで何もいわず足助は顔を拭いている。足助は手を止めてタオルを顔に押し当てている。

「はぁ……」

 足助の吐息が聞こえた。木元さんのタオルを鼻に押し当てている。

 木元さんはそんな足助を見て笑っている。

 人がいちゃついているところを見ることほど目が痛いものはない。僕にもタオルを貸してほしいくらいだ。そう思った僕の願いがあとになってから否応なしに叶うこととなってしまう。

 しばらくすると、僕たちに希望の光が差し込んだ。

「さて、わしが自分で言うのもなんじゃが、さっきのでいい締めくくりになったじゃろ。そろそろ時間はどうかね?」

 爺さんの言葉でようやく終わりの兆しが見えてきた。

 足助はタオルを顔からはがして爺さんを見つめている。僕も爺さんの次の言葉を待つ。

「ええ、そうですね。今はちょうど1時です。とても中身の濃いお話を聞かせていただきました。山田さんもお忙しいでしょうから……」

 木元さんが取り仕切ろうとする。この言い方に冷たい感じがするのは否めない。 木元さんのいうとおりだと感心している矢先、口を開いたのは戸中さんだった。

「まだ1時ですね。もう少しお話が聞きたいです。私が気になっているのは、あの木の箱のことなんですけど」

く う き を よ ん で く れ、と心の中で叫ぶ。

 サウナ状態の食堂で、爺さんの体力も限界に違いない。これ以上、話を続けるのは不可能だ。熱中症にでもなったら大変だ。ここで切り上げるべきだ。


 カタン

 何か音がしたような気がした。

「では涼しい場所へ移動しませんか? みんな食べ終わったし、ここ暑いですよね」

 木元さんがはっきりとした口調でいった。

 木元さんはこういうときに頼りになる。姿はモデルのようにすらりと美しく、それでいて中身はどっしりとした芯がある。そんな木元さんに足助は惚れたのだと思う。

 涼しいところに移動すれば状況は変わる。そうすれば、もう少し爺さんの話を聞いてもよいと思える。

 爺さんは、髪の毛とひげを片手でぎゅぎゅっと絞った。しぼり汁が味噌汁に落ちて消えていった。

「おっと、あれ、ない」

 爺さんは耳をさわり、きょろきょろし始めた。すると椅子の下に手をやり、何かを拾い上げた。

「おぉ、あった。すまんなぁ、汗で落ちたんじゃ。年を取ると耳が遠くなるんじゃよ。この補聴器はいい代物じゃ。ほっほ。で、何の話じゃったかのう? そうじゃ、木の箱について知りたいんじゃったな。残念ながら木の箱はおもちゃになって、それで終わりなんじゃ。かわりに最近付き合ってる愛人の話をしようかの」

 そういうと爺さんは、補聴器をつけ直し、楽しそうに語り始めた。

 ヒンヤリとした空気が心の中を素通りした。

 僕は木元さんの表情を確認してみた。木元さんはバツの悪そうな顔をして目線を下にやった。僕の頭はいよいよ朦朧としてきた。暑さのせいか、はたまた爺さんの話のせいなのだろうか。

 爺さんの話は続いた。最近できた愛人は20人目。15人ほどは名前も顔も全く覚えていないそうだ。戸中さんは熱心に頷きながら聞いている。さっきは木の箱の話を聞きたいといっていたはずなのだが、爺さんの話に関心があるのだろうか。それとも、大人の対応なのだろうか。

 僕はメガネを取り、ぐっしょり濡れた顔を手の平で拭いた。案の定、手も顔もべちょべちょになってしまった。半分諦めモードでぼうっとしていると、突然腕をつんつんされた。足助がタオルを持ってこっちを見ている。タオルを貸してくれようとしているのだ。足助も意外に気が利くなぁと思いながらタオルに触れた。このタオルは先ほど木元さんから足助に渡された淡いピンク色のものだった。

 タオルは湿っていた。

 タオルにふれた手の力が抜けていくのを感じる。足助だけがタオルを借りて、僕が汗を拭けないのを不憫に思われたのだろうか。足助は早く、と言わんばかりにタオルを押し付けてくる。僕は逆らうことができずに、ぺこりと頭を下げてそのタオルを受け取った。足助の汗がぐっしょりしみこんだタオルだった。面倒なことになってしまったと思った。足助はこちらを見ている。期待に背くわけにはいかないが、どうすべきだろうか。足助は僕のためを思って、貸してくれたのだ。しかし、足助の汗がしみこんだタオルを、どうしても握ることができなかった。僕は自分の太ももにそっと置いた。どうか、僕のことは気にしないでほしいと心の中で懺悔した。気持ちだけで十分なのである。足助の優しさは僕に伝わった。



――いや、違う! せっかく貸してくれたタオルで顔を拭かないなんて、足助に申し訳ないではないか!



 足助の汗がしみこんだタオル。しかし、それ以上に足助の優しさがしみこんだタオルなのだ。「大丈夫だよ」と言って突き出して、恩を仇で返すこともできる。でも、それ以上に大切なことがある。それを僕は大事にしたい。

 あれこれ僕が考えごとをしている一方で、爺さんは楽しそうに話し続けている。 戸中さんも積極的に爺さんの愛人話に食いついている。大人の対応をしている戸中さんに比べ、僕はなんてこどもなのだろう。僕は一刻も早くこの場を去りたいと思い、爺さんの話に何の興味も示さず、無言で、無表情でここに座っている男であった。せめて演技でもいいから爺さんに敬意を払うべきなのは分かっているのだが。木元さんも、熱心に頷きながら爺さんに注目している。足助は僕の方に目を向けているが、それは僕に対する優しさなのだ。僕だけ何も示すことができていないことに気づいた。

 僕は足助から引き継いだタオルをぎゅっと握りしめた。タオルにしみこんだ水分が僕のズボンを濡らす。そして、タオルを顔に当て、上下に動かした。

「うぅ……」

 しまった。僕としたことが、声が出てしまった。

 僕はおそるおそる足助を見た。足助は木元さんを見ていた。いや、見とれているといった方が正しい。僕は胸をさすり、吐き気を押えながら、安堵した。足助が木元さんに惚れているのは確かだ。しかし、なんだ、このほっとした気持ちとは裏腹になんとなくイラッとしたものがこみ上げてくる。

 

 なぜ足助は僕を見ていなかったのだ。

 なぜ足助は僕を見ていてくれなかったのだ。


 こんな臭いベトベトしたタオルで顔を拭いたのに、見ていないなんて、今まで何を悩んでいたのかばからしくなった。足助が、僕が足助の汗臭いタオルで顔を拭くところを見ていないのなら、拭かなくてもよかったんじゃないか。今僕は自分の心が読まれまいと必死に無表情を作り上げている。足助は木元さんの鎖骨を凝視している。足助は一体何を考えているのか。足助が女に欲情している間、僕は足助の汗がしみこんだこの世とは思えない臭いを発するタオルで顔を拭いたのだった。

「えっ! その木の箱消えちゃったんですか?」

 びっくりした。我を忘れていた。戸中さんの声だった。足助もはっとして戸中さんに目をやっている。

「消えてしまったんじゃ。はて、どこへ行ってしまったのか。あっそういえばじゃ。今頭に、思い出しそうなんじゃが、なんじゃっけ、あぁ、あれじゃ」

 爺さんは何かを思い出したようだ。愛人の話はとっくに終わり、戸中さんが気にしていた『木の箱』の話に戻っていた。

「わしが3つのときにそれをもらったから字が読めんかった。でも、字じゃない。感じたんじゃ。その木の箱からメッセージが。そうじゃ、なんじゃったか。思い出しそうで思い出せん。こりゃ、認知症というやつかいな?」

「でも、その木の箱が何かのメッセージを発していたとしたら、山田さんにとって大切なことかもしれませんね」

 木元さんが、『山田さん』と爺さんの名前をいった。木元さんの目は真剣だ。僕は、『木の箱』に関心はない。たかが木の箱で、何をそんなに盛り上がる必要があるのだろう。

 そんなことよりも、さっきの怒りが収まらない。足助とはゼミで必要最低限のみ話す仲である。足助だけではなく、他の二人ともゼミ以外で話すことなどないに等しい。僕はこの爺さんの退屈な昔話が終わったら、足助には目もくれずにさっさとこの食堂を立ち去ることを決めた。それはそうと、このタオルは木元さんのものだが洗って返すべきかどうか今の僕には判断できかねる。

 とどまることを知らない汗。Tシャツが身体に張り付く。

「木の箱のメッセージ、気になりますね。あ、でも山田さんは認知症なんかじゃないですよ! 認知症というのは、あったこと自体を思い出せないんですから。山田さんは思い出せないことを思い出せてないわけではないですもん」

 やや分かりにくい説明を丁寧にする戸中さんである。

「ははっ、老人の言うことじゃ。話半分に聞いてくれた方が気が楽じゃ」

 爺さんはそう言ってお茶を口に含んだ。

 こほっ、かはっ、はふっ。

「むせちゃいました? 大丈夫ですか?」

 木元さんが心配そうに聞く。

「思い出したわい! 木の箱のメッセージを!」

 爺さんは興奮している。

「えっ!」

 僕たち4人の声が重なった。

「えっ」

 さらに驚いているのは。


――戸中さんだ。


「まもっちゃん! びっくりさせないでよ、もう」

 戸中さんが怒っている。僕の顔が一気に熱くなる。すでに暑いのだが炎のように燃えているようだ。『まもっちゃん』、僕のことをこう呼ぶのは戸中さんだけ。正直、やめてほしい。とにかく、表情をくずさないように努める。

 僕が声を出すのはめったにないことだから、戸中さんが驚くのには無理もない。 足助と木元さんも僕を見ている。やめてくれ。

「そうじゃった。木の箱のメッセージは……」

 ごくり、僕たちは一斉に唾をのみ込んだ。

 爺さんはゴマ粒大の目を細め、声を震わせた。

 そして深呼吸をするとカッと目を見開いた。




――爺さんのくろ目が飛び出した!








「さ よ う な ら あ い し て る」



 低く恐ろしい声だった。



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