第2話 爺さんの退屈な話①
目の前に座っている爺さんがぎゅっと目をつむった。首まで伸びた白い髪の毛と、胸までかかった白いひげがべたついている。つい目を背けたくなってしまうのをぐっとこらえて平静を装う。見た目に関していえば、僕も大した男ではない。自分で言うのもなんだが、ひょろりとしたザ・もやし体型で、ふちなしメガネをかけている。さらに真面目という仮面を被り、ザ・無口を貫く男なのだ。
爺さんは静かに語り始めた。
「あぁ、思い出される。あの頃を。小さな掘立小屋で、父さんと兄弟と一緒に暮していたんじゃ。段ボールのテーブルにふかしたじゃがいもを置いた。そしてだ、木の棒でほじって食べていたんだよ。じゃがいもはどこでも育つ。どんな逆境でも」
爺さんは、ゴマ粒ほど小さな目を開けた。
「ここにはビール、売っとらんのかいな?」
爺さんは神妙な面持ちで聞く。しかし、ここは大学の学生食堂だ。学生が来る食堂にアルコールなんてものが売っていたらどうなるか、想像できるだろう。
爺さんと一緒に学食を囲んでいるのは大学1年生、福祉学科の僕とゼミ仲間3人である。『高齢者の人生史を聞く』というのが今週のゼミ課題。この爺さんは、山田三郎という85歳の男性である。僕は表情を変えずに爺さんの話を聞いている。一刻も早く帰りたいがゆえに、つい顔が固まってしまうのだ。
猛暑でジメジメしている7月下旬の今日。食堂のエアコンが故障したのはついさっきだ。不運にも程がある。今日が平日なら、まだ自分を納得させることができたかもしれない。せっかくの土曜日なのだから、予定はなくともエアコンの効いた家にいたかった。爺さんの事情で土曜日の昼間しか集まれなかったのだ。正直にいうと爺さんの昔話なんて興味がない。
爺さんはビールを諦めたようだ。そして話を再開した。
「わしはな、ビールを飲まないと話せないんじゃ。言葉がこう、うまく出てこない。最初に話す分くらいは覚えてきたのじゃが。だから、その、少々わかりづらいかもしれんが、聞いとくれ」
僕たちは口を閉ざしたままだ。みんなを見ると、額からつーっと汗が流れ、首はびっしょり濡れている。爺さんは蚊のなくような声でもったりと話す。
「わしは、貧乏だなんて思ったことはない。じゃが、じゃが、じゃがだ・・・じゃが・・・じゃがいも、の話はさっきしたんじゃったな。えっと、じゃが、近所の人はみーんな口を揃えて、わしらの家を汚いうさぎ小屋だと言うんじゃ。じゃがな、わしも、父さんも気にしなかった。実はじゃ、実は・・・うさぎに失礼じゃ。じゃないわい、実はじゃ、わしの家には蓋がついている木の箱があったんじゃ」
爺さんは一息つき、ひげで手汗を拭った。しかし、さらに爺さんの手は湿ってしまっている……。「こんな大きさじゃ」と言いながらしわくちゃな手で水をすくう真似をした。木の箱は両手の平をあわせたほどの大きさのようだ。
「木の箱は、父さんがわしにくれた。わしが3つのときじゃった。いつ開けようか、今開けようか、どうしようかなどと考えはしなかった。わしにはただの木の箱。じゃから、じゃから、じゃからだ・・・」
爺さんは言葉を詰まらせた。
僕とは正反対のがっちり体型、サッカー部の足助は、腕時計を見て固まっていた。僕もちらっと隙間から時計の針を覗かせてもらう。んん……。まさか、嘘だろ。時計の針が示しているのは、12時35分だった。12時半に爺さんの話がスタートした。まだ5分しか経っていないなんて。さぞかし、足助はカレーライス激辛レベルを選択したことを後悔しているに違いない。足助の顔は真っ赤だ。まだ爺さんの話は始まったばかりである。僕が冷やし中華を選んだのは正解であった。しかし、かれこれもう1時間は経つ感覚だ。僕のペットボトルのお茶はもう少しで空になってしまう。
足助は横目で木元さんを見ていた。木元さんは首すじが濡れて光っており、ロングストレートの黒い髪の毛が首すじにまとわりついている。足助はその首を見つめ、目をこすっている。まるで、木元さんのうなじをよりよく見るためであるかのように。こんな時にでも足助は色目で女性を見るのか。それが普通の男なのだろう。僕には分からない感覚だ。しかもなんと、足助は自分の顔を脇腹に近づけて匂い、いや臭いを嗅いでいるではないか。木元さんの隣に座っている足助は自分の体臭が気になるようだ。僕自身も汗で全身ぐっしょりだ。僕は足助の隣に座っている。僕が汗臭いため足助も自分の臭いを気にしたとも考えられる。しかし、今さらどうもしようがない。
爺さんは話を再開した。
「どこまで話したか。あぁ、そうじゃ。わしは木の箱を開けたんじゃ。すぐにな。簡単に開いたわい。中には文字が掘られていたんじゃ……」
また言葉を詰まらせる。
爺さんの話す内容は聞き取りづらいだけでなかった。いささかおかしな点も見受けられる。たとえば木の箱のことを考えていなかったと最初は言っていたが、結局木の箱を開けたという点だ。
爺さんのひげから、ぽたぽたと汗が落ちる。落ちた汗は味噌汁の中にぽちゃんと消えた。
「すまんな、それで続きを。どこまでいったか、あぁ、木の箱……」
再び爺さんは言葉が出なくなったようだ。ビールがないと上手く話せないと言っていたのはどうやら本当のようだ。木元さんはハンカチで額の汗を拭っている。僕もタオルを持ってくればよかったと後悔した。僕はついにぬるくなったお茶を全部飲みほしてしまった。
「木の箱の文字がなんだったかは覚えていない。まだ3つのときじゃったから。大きい兄弟たちも学校には行っていなかったから字は読めんかった。父さんは書いてある文字を知っていたかもしれんが、教えてはくれなかった。それから木の箱はただのおもちゃになったんじゃよ。外で拾ってきた石ころを木の箱に入れて集めていたんじゃ。はて、どうでもいい話じゃったな。すまんのう。若いもんよ、ほれ、食べながら聞いて下され。もっと楽しい話がよかろう」
爺さんは一息ついた。僕は暑さでくらくらしている。爺さんの話す内容はほとんど、いや全くといっていいほど頭に入ってこない。
「あの、場所を変え……」
木元さんがそう言いかけた瞬間、爺さんが急に饒舌になった。
「はっははは、わしの青春はじゃ、14のとき。暑かろう、寒かろう日など関係なかったわい。わしは頑張ったんじゃ。新聞配達を。いかんせん、女を手に入れるために。その女の話を聞きたいかい? ふっふっ、ショートヘアでちょこっとまんまるしとったな。ほれ、そこのお嬢さんみたいに」
爺さんが目をやったのは、ブルーのショートヘアでぽっちゃり体型の戸中さんだ。
戸中さんは一瞬びくっとした。
「それでな、その女、といっても少女じゃ。少女は本当に可愛かったぞい。毎朝2時に新聞配達の店の裏で会うんじゃ。わしが先に着いて、後から走ってくる少女を待つのじゃ。少女がいつも『三郎さん、おはよう』といいながら、かけ寄ってくるんじゃ。少女の名前は『洋子』といった。配達の準備は2時半からじゃったから、それまでの30分、二人で何をしていたと思う?」
「二人でおしゃべりとか、ですか?」
木元さんが聞く。
「ふぉっ、なーんにも話しとらんよ。ただ、2人でじっと小さな丸太の上に身を寄せ合って座っていたんじゃ。何を話すわけでもない。わしはなんせ、話すのが苦手じゃからな、ビールがないと。はっはははは。じゃが、洋子は何も話さないわしの隣に、毎朝来てくれた。でも洋子も何も話さなかった」
僕はまた見てしまった。爺さんの鼻の下からしずくがぽたり、また味噌汁に落ちて消えたのを。
「へぇ」と木元さんは相槌を打った。
「そういえば何だか暑いですね。エアコン、壊れてるみたいですし。場所を変え……」
再び木元さんが爺さんに訴えかけた。しかし、またもや木元さんの言葉は爺さんによって遮られた。爺さんは楽しそうに話す。
「2時半になると2人で店に入るんじゃ。そうすると、店長がいつもわしらを見て『2人はお似合いやなぁ。どっちもしゃべらんもんなぁ』と言って笑うんじゃ。それから自転車で配達に回って、また店に戻ると洋子はいないんじゃ。洋子は仕事が早かった。わしは運動神経が悪いからいつも洋子に間に合わないんじゃ。洋子もわしを待っとってくれてもよかろうになぁ」
爺さんはほっほと笑って、汗が滲みこんだ味噌汁を一口飲んだ。
きっとその味噌汁は汗の成分がまろやかなコクを生み出しているのだろう。僕たちは相変わらず、額から汗を垂らし、首までぐっしょりだ。僕と足助はTシャツも絞れるほどに汗をかいている。
「それで、洋子さんとはどうなったんですか?」
戸中さんが爺さんに問いかける。
「洋子は、ある朝から来なくなったんじゃ。引っ越したらしい。それからは知らん」
申し訳ないと思いつつもどうでもいい、と心の中で呟いた。僕は再び足助の時計を覗いてみた。汗で目が滲みる。目をこすったが、手の塩分で余計目が痛くなった気がする。塩分でしみた目を必死に開けて時間を確認した。12時40分だ。5分しか経っていない。
「洋子さんは初恋だったんですね。ほかにも恋はしたんですか?」
戸中さんがにこにこしながら聞いている。
余計なことを聞くな、3人の心の声は同時だった……はず。なぜなら、みんな戸中さんの顔を睨みつけているから。
「恋は、しとらんよ。結婚もしていない。愛人はたくさんおったがな」
「えー、そうだったんですね。じゃあ、人生で一番幸せだと感じたことはなんですか?」
戸中さんが積極的に質問を投げかける。
「わしは不幸だと思ったことは一度もない。幸せと思ったこともない。幸せ、不幸、どちらにも当てはまらん人生じゃな」
戸中さんがこんなに積極的に質問するようなタイプであることに今まで気がつかなかった。もともとおしゃべりでなくはないのだが。よりにもよって、早く帰りたいときに限って。
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