ストーリー

かゆかおる

第1話 スタート・ヒズ・ストーリー! 

 どっぷりと夜深くなった。涼しい風がすーっと僕の頬をかすめる。仲間と分かれ、帰路に着く。爽やかな風が心に滲みる。残業を終えて家庭に帰るのであろうスーツ姿の中年サラリーマンの重い足取りと、帽子を深くかぶり抱っこひもで赤ん坊をかかえてタクシーに飛び乗る女を間近で見つめる。人気も多くない夜の静まり返ったこの道。聞こえるのは夜更けにどこへ急ぐのかというまばらな車とバイクの音だけだ。そしてふと僕は立ち止まった。右側には僕が入院した病院があった。目が覚めると僕は病院にいたのだ。目が覚めてから数時間で退院となった。昼間に退院したため、夜の雰囲気は分からなかった。同じ風景でも昼と夜では表情が全然違う。昼間は殺風景ななんてことのない病院に見えたのだが、今見てみると、中は温かな光で照らされ静かな、なんだか素敵なホテルのようだ。

 前方には天使が見えた。細見のジーンズに白のTシャツ、そして真っ白なスニーカー。天使は突然足を止めてスマートフォン、通称スマホを取り出した。誰かに電話をするようだ。僕はせかせかと天使を追い越した。そしてなんとなく、歩くスピードを緩めた。横断歩道までやってきた。赤信号だった。

「古坂くん」

 透き通るような優しい声がして、ふわりとレモンの香りが舞った。

 うしろを振り返ると天使が小さくおじぎをした。

「えっと」

「もう忘れちゃったの? 私のこと」

「え、いえ」

 あたふたしている僕。

「尾之内だけど」

「あ、看護師さん」

 僕はたった今気づいた。目の前の天使が僕の担当看護師だったってことを。見慣れない私服で、しかも暗いためよく見えなかったのだ。さっきうしろ姿を一目見ただけでも天使だってことは分かったのだけれど。

「お世話になりました」

 僕も頭を下げた。

「ちょっとやめてよ」

 天使は苦笑した。

「お疲れ様です」

 僕がそういうと天使は、いや尾之内さんは真顔になった。

「そっか。じゃあ今から一緒にって感じじゃないね」

 僕の心臓が跳ね上がった。一緒にって。もしかして、僕を誘う気だったのだろうか。

「番号おしえて」

「えっ」

「私の番号おしえても古坂君からは絶対連絡こないと思うから。君の番号、教えて」

 急な提案だ。でも、この人は僕のことをよく分かっている。番号をもらっても僕からは連絡しないだろう。いつもの僕なら。でも、この人なら、そう思った。僕は携帯を取り出し、自分の番号を見せた。

「これにかけてください」

 尾之内さんはスマホに僕の番号を打ち込む。僕の携帯が振動した。尾之内さんの番号が表示された。番号を電話帳に登録した。

「連絡するね」

 そういって尾之内さんはくるりと方向へ変えて、歩いていった。なんだ、同じ方向じゃなかったんだ。僕の心臓は落ち着きを取り戻した。




 7月24日火曜日。湿気が多い日本ではめずらしくからっと快晴。軽い足取りで大学へ向かう。2限目の講義からスタートだ。今日は昼休みにゼミ仲間である木元さんから号令がかかっていた。4人で集まり、『高齢者の人生史を聞く』というゼミ課題の発表の準備を行うのだ。本番はなんと本日の4限目である。

 ポケットの中で携帯が振動した。木元さんからの連絡だと思ったのだが、尾之内さんからのショートメールだった。

「尾之内です。今夜食事に行かない?」

 この誘いに対する僕の心は決まっていた。断るつもりだ。僕は女性と二人きりで食事に行って楽しい時間を提供できる人間ではない。無口で、だからこそ頑張って話そうとするのだが、ぎこちなくて余計に相手に気を遣わせてしまい、疲れさせてしまうのだ。昨日尾之内さんと番号を交換したときから、こんなお誘いがあることは薄々感づいていた。なのに、なぜ交換してしまったのだろう。申し訳ないと思いつつも、今夜は予定があることにする。僕はすぐに返事を打ち始めた。

「古坂です。せっかくですが、今夜は予定があるのですみません」

 すぐに携帯が震えた。

「残念です。またメールします」

 尾之内さんとのメールのやりとりはシンプルに終わった。

 

 2限目が始まる。なんとなく履修してみたドイツ語の授業。ここは約20人収容の教室だが学生は数名だった。一番前に分厚いドイツ語の辞書を携えている者が1人座っており、残り数人の男女がおしゃべりに花を咲かせている。僕は普段通り、1人で隅に座った。他のゼミ仲間はどうやら2限目の講義はないようだ。僕は真面目に講義を聞いて、ノートを取る。睡魔と闘いながら必死に前を向いて、長い90分間が終わった。

 終わった瞬間にさっと席を立つのは心もとないため、ゆっくりと教科書を鞄にしまい黒板の上の時計に目をやって5秒数えてから腰をあげた。そして学生食堂へと急ぐ。今いる教室から食堂へ行くにはいったんこの建物から外へ出なければならない。エアコンの効いた建物から自動扉を抜ける。むわっとする。7月下旬の真夏だ。太陽の光が容赦なく皮膚を焼く。再び自動扉を通り、学生食堂へ足を踏み入れると、ひんやりとした。すーっと汗が引いていく。目の前に足助がいた。

「お、きたか。ご苦労さん」

 足助は涼しげに声をかけてきた。

「みんなは?」

「もういるよ。早めに集合した。あとは古坂待ち」

 足助はコップに水を注いでいる。辺りを見回すと昼休みの学生で徐々に混雑してきた。みんなのところへ足を急かす。

「まもっちゃん、おつかれ」

 僕のことをそうやって呼ぶのは戸中さんだ。

「古坂くん、座って」

 木元さんにそういわれて椅子に腰をおろした。ぼうっとしていたのだ。足助が4人分の水を抱えてやってきた。

「じゃ、始めるか」

 足助が先頭を切った。

 退院してから改めてこのように4人で顔を合わせるのは今日が初めてである。厳密にいえば初めてではないのだが、このような形ではなかった。こういうときに「久しぶり」とかいって再会を喜んだりするものだと思っていたのだが、何事もなかったかのように今日の発表の準備が進められていくようである。まるで何もなかったかのように……。いや、むしろまだ連続しているのだろうか。

「本題に入る前に、先に4限目のゼミの発表での段取りを決めて置いた方がいいわね」

 木元さんがいった。

「そうだな。さっさと決めよう」

 そういって足助はノートから一枚紙をちぎりとって四つに折りたたんだ。そして折り目にそって丁寧にしゃっと手で切り、4等分にした。

「1人1つ話す内容を決めよう。内容はえっと」

 足助は話す内容を考えていなかったようだ。

 みんな一瞬沈黙した。

 最初に口火を切ったのは戸中さんだった。

「頭に糖分が供給されないと先へ進まないよ」

 戸中さんのいうとおりだ。僕はてっきり昼食を取りながらの会議だと思ったのだが、そういう感じではなかったため、3人はすでに腹を満たしていたのかと思っていた。

「買いに行こう。でも時間がもったいないからパンかおにぎりね。さっ早く。まもっちゃんの分はユウが買ってくるから席を守っといて」

 そういって戸中さんはすっと席を立ってから行ってしまった。木元さんと足助もあとに続く。取り残された席番の僕。みんな深くは考えないんだなと思った。僕は何事も深く考えてしまうのに、他の人たちはそれぞれが何も考えずに発言しているように思える。だからといって不快な思いはしないし、むしろ滞ることなく物事が進むからありがたい。子供のころから、相手の気持ちを考えて行動するよう教わってきた。両親からだけではない。学校でもそのように教わった。自分の一つ一つの発言が相手に及ぼす影響を考えなければならないと。その教えがときに僕を動けなくする。考えすぎると結局は地蔵のように固まることになる。みんながみんな相手の気持ちを考えて発言や行動をしていたら、話し合いなんてできないだろう。いや、違う。もしかしたら、僕は相手の気持ちを推測するのに時間がかかりすぎているのかもしれない。みんなは相手の気持ちを瞬時に判断できる脳機能を持っているのかもしれない。

「おい」

 足助の声がした。目の前を見ると、割と好みの高菜と梅のコンビニおにぎりが置かれている。僕の好みがいつの間にかばれていたなんて。その上に無造作に紙切れが一枚のっていた。

「お金はいらないから今度アイス奢ってね」

 人に借りを作りたくなかった。よりによって、苦手な、いや苦手だった戸中さんにアイスを奢るなんて。僕はガサゴソと鞄から財布を取り出すがあいにく小銭は切れていた。一人でもそもそと動いている僕を見て木元さんがぴしゃりと言葉を発した。

「早く見て。それが古坂君の話す内容だから。自分の話す内容についてそれぞれまとめて。昼休みが終わるまでに。3限目に授業ある人はいる?」

 戸中さんも足助も首を横に振った。僕も同じように首を横に振る。このような無茶な段取りで進めようとするのは木元さんらしい。てきぱきして気持ちが良い。昼休みは12時から13時。現在、12時20分。残り40分だ。僕は言われるがまま担当する内容が書かれた紙切れを確認する。走り書きで『概要』と書かれていた。みんなは片手におにぎりを持ちながら反対の手でシャープペンを走らせている。僕も高菜のおにぎりを一口かじり、反対の手でシャープペンを持つ。

 それにしても……だ。いつの間にかみんなが戻ってきて、紙に話す内容をちゃんと4種類書いていたなんて。まただ。僕が考えごとをしている間に事はもう先へ進んでいたのだ。今更『概要』はどういったことを書けばいいのかなんて聞けない。みんな無言で手を動かしている。『概要』なのだから発表内容を大まかにまとめればいいのだろうか。あとは話をしてくれた山田さんのプロフィールを加えればそれでいいのだろうか。きっとそうだろう。簡単なことだ。むしろ中身を書くより簡単なことだ。僕は簡単に名前、年齢、生い立ち、その他印象に残った話をメモした。

「みんな、書けたらコンピュータ室でパワーポイントを作る予定だから。で、ぎりぎりになっちゃうだろうけど最後の打ち合わせも直前にできたら」

 

 全員それぞれ書き終えたところで、4人でコンピュータ室に移動し、パワーポイントを仕上げた。今日の今日という土壇場の発表準備だったが、スムーズに事が運んだのはてきぱきと指示をしてくれた木元さんのおかげであることは言うまでもない。

 発表が行われるゼミの部屋に入り、各々無言で発表のメモを見ながら教授を待つ。

 黒いパンチパーマでまるまるとした体型の教授が登場した。教授は耳に真っ赤なリングピアスをつけ、頬と唇も真っ赤に色づけされている。しっかりとアイラインの入った大きな目をこちらへ向けた。

「さて、色々と大変だったことは聞いています。今日は今学期最後のゼミです。期待しています」

 教授はそういってにこりとほほえんだ。

 今から実際に僕たちが話を聞いた山田三郎という爺さんのストーリーをかたる。

 スタートだ。




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