拓海千秋(16)昔、僕はヒーローになりたかった
五十嵐が連れて行かれ、改めてカーラが次の番を呼ぶ。
「順番がひとつ飛んだが、もう準備はできているな。イイヅカ・マリ。鼻を折られたのがウザキ・ケイスケなら順番はすぐ後だ。恋人より自分の売却先を案じるべきだ」
「なんで!」
いきなり真後ろから江藤の悲鳴にも似た声が上がって、僕は心臓が縮み上がった。彼女自身も驚いて、すぐに自分で自分の口を塞いだ。
カーラが目を細める。
それを見て、たまたま江藤の横にいた天満めぐみが咄嗟の機転で江藤の右手を取って、操り人形のように挙手のフリをさせた。
溜息混じりにカーラは発言の許可を促すよう顎をしゃくる。
「な……なんで、その順番なんですか」
「その順番、とはなんだ」
「し、出席番号……それだと次は」
「ああ、『名簿』のことか。お前たちを売った奴から提供されたものだ。名前と身体的な特徴くらいしか書かれていない。よっぽどお前たちに興味がないんだな」
飯塚が引き出され、競売が始まる。
鈴の音は飯塚だけでなく、他のクラスメイトたちにも恐怖を煽った。
僕の後ろで誰かが倒れた音がした。
振り返ると江藤が膝をついてガタガタと震えていた。
彼女の小さな指が僕の服の袖を掴んでいる。
「嫌だ……嫌だよ…………」
江藤の不安を和らげようと重傷を負って汗だくのままの時生先生が肩を抱く。
「江藤、大丈夫や……大丈夫やから」
「家に帰りたい……家に……帰りたいよ……」
ここに来てからずっと、江藤が握っていたシャツの袖は伸びに伸びていた。
怖くて怖くてずっとしょうがなかった彼女の気持ちが、抑えきれずに涙と一緒に零れだしている。
それなのに頼られている僕は無力で、何も、何も……。
『ノリちゃんから聞いたよ。たっくんはノリちゃんの――』
ふと「あの子」の言葉が脳裏を過った。
随分前。
二年に進級する前、やはり美術準備室であの子が僕に教えてくれた話。
なんでだろう。こんなときになって。
失って、辛いのに。
悲しいのに。
僕にはもっとやることがあるのだと、あのときの「あの子」の言葉がけしかける。
「僕が見つける」
「え?」
気がつくと僕は江藤の前で膝をついていた。
俯いていた顔を上げ、真っ赤に晴れ上がった瞳で江藤が僕を見つめる。
僕は彼女の手を取る。
ほんの少し冷たく、柔らかくて、可愛らしい手だと思った。
彼女がこんな手をしているなんて今までちっとも気付かなかった。
身体が震えた。
さっきまでの、怒りにかられた震え方じゃない。
もっと強い。
僕がずっと避けてたもの。
勇気とか、力とか、たぶんそういうものだったと思う。
「どこに売られても、絶対に……江藤を見つける」
「次、ウザキ・ケイスケ」
飯塚が売られ、今度は宇崎が連行されていく。
時間がない。
「今はそんな力ないけど……きっと……きっと強くなって、江藤を助けるから……それまでは何があっても、絶対に……生きてて。必ず、迎えに行くから」
自信なんてなかった。
自分自身さえどうなるのかわからないのに。
こんな無責任な約束をして、宣言をして。
震える唇に声をかき消されないように、僕はつい強い口調で言ってしまった。
だから他の人にも聞こえていたと思う。
偉そうに。
何言ってんだ、こいつ。
きっと、そう思われたに違いない。
でも必要だと思った。
江藤が怯えていたから。
友達が、僕に、助けを求めていたから。
鈴の音が止み、宇崎の後頭部に焼印が押される。
「あああああああああああああ!」
次は江藤の番だ。
僕は何かないか急いで考えた。
この約束が嘘っぱちにならないためのものを。
江藤が、この世界で諦めずに生きていてくれるためのものを。
「江藤、これ」
思いついたのはありふれたことだった。
多分、直前に五十嵐がリボンを解いたことが何かのヒントになったのかもしれない。
ネクタイを解いて、江藤の右手に巻いた。
「持ってて」
「……拓海くん」
再び江藤の目から涙が溢れだし、感極まった彼女は僕に抱きついた。
ものすごく強い力で。
彼女の鼓動が僕の身体に伝わる。
僕の左肩に顔を預けて、江藤が耳元で呟く。
「拓海くん……私ね……私…………」
「……なに?」
江藤はしばらく言葉に詰まっていたけど、ぶるぶると頭を振ってから、僕にこう言った。
「結依は生きてる。きっと、生きてるから。大丈夫だよ」
「えっ?」
覚悟を決めたように江藤は僕から離れた。
怖い癖に、今すぐにでも走って逃げ出してしまいたい癖に。
江藤は僕に精一杯の笑顔を作ってみせた。
「だから、拓海くんも――」
「次、エトウ・ノリコ」
「――死なないで」
それだけ言い残して、江藤は自らの足でカーラの下へ歩いて行った。
黒衣の男たちが連行する間もなかった。
泣きはらした顔の一方で、挑むように肩に上げ、膝を突いた。
競売の鈴が鳴る。
江藤はトレードマークのお下げ髪を解いた。
いつも出ていた額に前髪がかかる。
五十嵐がしたようにリボンを取って、口に咥えると、そのときが来るのを。ガタガタ震える膝に何度も小さな拳を突き立てながら、じっと待った。
「落札」
カーラが江藤の後頭部に焼印を刻む。
江藤は、五十嵐のようには、耐えられなかった。
「……………!」
噛みしめたリボンの奥から痛々しいまでの悲鳴が聞こえた。
やがて、あまりの痛みに江藤は気を失った。
ぼろ雑巾のようにして引きずられていく江藤の姿を前に僕はただ無力感に打ちひしがれ、突っ伏した。
血の魔法陣が描かれた石畳の上で、その後に続く忌まわしい鈴の大合唱と何人ものクラスメイトの悲鳴を聞きながら……。
「ノリちゃんから聞いたよ。たっくんはノリちゃんのヒーローだって」
「なにそれ」
「中学のとき、卓球部で苛められてたノリちゃんを、たっくんが美術部に誘ってあげたんでしょ」
「……絵が上手かったから誘っただけだよ」
「いじめのことを先生に相談してくれたって」
「余計なお世話だよね、そういうの。悪化するかもしれないのに。向こう見ずだった」
「おかげで美術部に変わってからは、毎日が楽しかったって」
「……」
「入院してるときにね、ノリちゃんからその話聞いて、すごいなぁって思った。そんな人がいるんだなって」
「江藤は……絵が上手かったから……好きなこと隠してまで、みんなに合わせて、そのうえ辛い思いするなんて」
「それで助けてあげたんだ」
「先生に部活の変え方聞いて……聞いたことをそのまま教えただけだよ」
「誰にもできることじゃないよ」
「卑怯なだけだよ」
「卑怯って、何が」
「見てたのに、その場じゃ止められなかったんだ。逃げたんだ。怖くて。それなのに……僕が助けたなんて」
「……」
「おこがましいよ。僕はそんな強い人間じゃないんだ」
「やめようよ、そうやって自分を卑下するの」
「……」
「みんながスーパーマンとか、アンパンマンとか……そういう人になれるわけじゃないよ。みんなね、他人が傷ついているのを見ても、見て見ぬフリをするの。自分を守るために。世の中はそう言うもんなんだって割り切るの。でもね、中にはいるの。自分のやり方で、他人を助けてあげられる人が」
「……」
「ありがとね。ノリちゃんを助けてくれて」
「タクミ・チアキ」
カーラが僕の名前を読み上げる。
頭上に黒い影が落ちる。
「早く、立て」
黒衣の男が右腕を掴んで、引っ張り上げようとする。
「立たんか!」
「やめてよ!」
誰かが強い抗議の声とともに駆けてきた。
最初は誰の声かわからなかった。
声の主は夏見たちのいる右翼側から勢いよく飛び出してきて、黒衣の男の手をパチンと払った。
顔を上げた僕はその人物を見て、驚いた。
「……柚?」
ショートカットにパーマ。
でもその顔は十日以上のサバイバルを経て、けばけばしい化粧もすっかり落ちて、僕のよく知る顔をしていた。
あの小学校時代のころと地続きの顔のままで立花柚が唇をムッと結んで、僕の横に立っていた。
柚は僕の方など一切見ず、僕を連行しようとする黒衣の男を睨み付けた。
「乱暴にしないでよ……自分で立つんだから」
正直、どうしてそこで柚が出てきたのか。僕にはわからなかった。
でも、久しぶりに柚の声が聞けて、場違いみたいだけど、少し嬉しかった。
「ありがとう、柚。大丈夫だから」
僕は立ち上がった。
塞ぎこんでいたつもりはないけど、僕も自分の意思で行くべきだと思った。
江藤がしたように。
「幾らの値がつくか。楽しみだな」
下品なカーラの笑みを無視して、僕は両手を差し出し、鎖を受けて、膝をついた。
競売が始まり、鈴の音が一斉にけたたましく鳴りだす。
都倉の言った通り、今までよりもより多くの鈴が鳴った。
当然、鈴の数になんか興味はなかった。
幾らでも値をつければいい。
すぐに後悔させてやる。
自由の身になって、この世界に飛び出して。
いつか。
必ず。
「落札」
「……」
「おめでとう。現在のところで最高の値がついたぞ。あまり上品な買取先とは言えんが、誇りに思っていい額だ」
瀬名波さんを貫いたその槍で、カーラが断髪を強行する。
冷たい刃が次第に頭皮に触れる。
真横では炉が赤々と燃えている。そこから焼印が引き出される。
ネクタイを江藤に託したから、他に痛みを耐えるものはない。
僕は奥歯をぐっと噛みしめた。
が、カーラはすぐには焼印を押しあてなかった。
「ふん」
前髪をむしり取るような勢いでひっぱり回して、焼印を目の前でちらつかせながら、カーラは僕の顔を覗き込んだ。
狂気の底から生まれたような隻眼が僕を射竦める。
「破格の値段がついた特典に、お前にはあの先生をつけてやる」
「……」
「なんせ、大人は売り物にならんからな。それにお前たちの世界なりの弔いをする奴が必要だろ」
「…………絶対に」
「絶対に、なんだ?」
「お前を見つけて……八つ裂きにしてやる!」
それを聞いて、カーラは狂ったように笑った。
この笑い声を、覚えていようと思った。
そうすれば、いつまでも僕はこの胸に滾り始めた炎を消さないでいれるから。
「せいぜいもがけ。小僧」
カーラは焼印を押しあてた。
これまでよりもずっと長く、強く。
痛みは想像を絶した。
わずか数十秒の間に奥歯がいくら擦り切れたかわからない。
悶えもしたし、暴れもした。
けれど、気を失うことはなかった。
印が離れ、力尽きて石畳に倒れ込むと例の檻が見えた。
ドラゴンの炎で真っ黒に煤けた空間にぽっかりと人型の跡があった。
光の粒になって消えてしまった彼女の唯一の跡。
燃えずに残った石畳の真っ白な色が、まるで彼女の影のように、残っていた。
星歴八三三八年 初夏月。
安芸東高校二年八組生存者数・男子生徒十八人、女子生徒十九人、教師一人。
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