拓海千秋(14)回想:君ノ瞳ニ恋シテル
****
「なぁ、ちょっと手伝ってほしいことがあんねんけど」
「はい?」
一年前の十二月。
とある放課後。
生徒玄関に向かってトボトボと歩いていた僕を美術教師の時生先生が見つけて声をかけてきた。
「あとでジュースおごったるから。それともこのあとなんか用事でもあんの? 塾とかお遣いとか、アルバイトやったら無理にとはいわへんけど。デートは……ないやろうな」
「……ないです」
「それやったらかまへんな」
何がかまわないのかわからないが、先生は僕から了承を得たと判断して、僕を美術準備室に連行していった。
「自分、腕ほっそいなぁ」
僕の手首を握って先生は笑いながら言った。
「あんたがうちの時計したら、ブッカブカになってまうな」
自分の腕周りに対する自虐なのか。それとも僕の細さに対する揶揄なのか。
先生の言う通り僕にはまるで筋肉とか脂肪といったものがなかった。自前で寒さをしのげるものがないから、ブレザーの下にはセーターが一枚と学校指定のシャツが一枚、さらに肌着が一枚とヒートテックを一枚。合計五枚を着込み、さらにその上からダッフルコートを羽織っている始末だ。
「細い」と笑われては返す言葉もない。
かといって鍛える気もないけど。
特別教室棟の廊下は何故か外にむき出しで、冷たい風がなんの妨害も受けず吹き込んだ。
美術室は特別教室棟の四階にあった。
僕はどうってことないけど、七十八段の階段を登りきった三十手前の時生先生はスラックスの膝に手をついて息を切らした。
「はぁ……はぁ。なんで四階なんやろうな。化学室と家庭科室なんか一階やで。新見先生や賀古先生こそ、階段使わせた方がええやんか」
「それって暗にデブって言いたいんじゃ」
「いやいやいや、うちは健康のためにってことで言うてるんであって、別にデブとは言うてない。一言も言うてない。あかんで。人生の先輩相手にデブなんて言うたら。あれはな、ふくよかやって言うねん」
「でもまぁ、運動はした方がいいとは思ってるわけですね。先生よりも」
「うちは太らへん体質やからな。あんたは逆にした方がええな。痩せすぎや。筋肉つけんと女の子にもてへんで」
「それなら、美術部に入っている暇はないですね」
美術準備室の扉にかけた時生先生の手が止まった。
それから自分の思惑を見抜かれて露骨に焦ったように振り返った。
「なんて!?」
「勧誘でしょう。僕を美術部に入れようっていう」
「……な、何を言うてんねん。そんなことあるわけないやん。ただうちは手伝ってほしいことがあって呼んだだけで……あと別に運動せなあかんっていうのは運動部に入れゆうことやないで。家で筋トレしたり、ジョギングしたり、運動するのに運動部なんか入る必要ないやん。それとも美術部でランニングはじめたら入ってくれるか?」
「絶対入りません」
「うちも絶対入りたない」
そんなことしはじめたら、なんのための文科系クラブかわからなくなる。
「まぁ、今日限りならなんでもいいですけど」
「ランニングが?」
「手伝いですよ! 開けないんですか?」
「ただのボケやんか。大っきい声出してからにぃ……広島の子は怖いわぁ」
「よく言いますよ」
やっと先生が美術準備室を開けた。
美術室には置ききれない石膏や前任が置いて行ったレコードや時生先生の私物の本や描きかけの絵が所狭しと並べられている。いかにも芸術家肌の人間が私物化した空間といった感じで、雑然としているのにカラフルで、オーガニック的で、六十年代アメリカのカルチャーに対する憧れなんかも感じる。
一言でいうと体制の中にある反体制の空間。
ヴィレッジヴァンガードの縮小版みたいな雰囲気で少し眩暈すら覚えた。
奥の年季の入ったロッキングチェアに女子が座っていた。
時生先生の「ただいま」という陽気な声に明るく上げた顔が、先生の後ろにいる僕を見るなり陰った。ロッキングチェアの横の机には松葉杖が立てかけてあって、女の子の右足には痛々しくギブスが巻かれていた。
「ああ、この男子な。ちょっと絵描いてもらおう思うてな」
「はい?」
当然、初耳だった。
「先生、さっき手伝いって」
「手伝いのための試験みたいなもんやな」
「試験って?」
「授業で手抜いてるやろ」
「……手、抜くって……何の言いがかりですか」
「デッサンはできてるのに、それ以外がわざとらしいほどに壊滅的や。ギリギリの評価だけ貰おう思うてるやろ」
「赤点、なんですか?」
「通知表で脅そうなんて思うてへんわ」
先生は僕の頭を乱暴に撫でまわすと、イーゼルや絵具の準備をはじめた。
ロッキングチェアの女の子は相変わらず僕への警戒心が解けないのか。窓の外の方に顔を向けつつも、チラチラと僕と先生のやりとりを見ていた。
「うちの手伝いがしとうなかったら、授業みたいに手抜いてもええ。評価やって赤にはせぇへん。ただうちは拓海千秋の本気が見たいだけやねん」
「……」
「授業受け取るやつには誰にも見せへん。目立つのが嫌なんやろ」
図星だった。
普通は自分の特技は自慢したがるものだけど、中学時代にそれで大きな失敗を犯したことがあったから、他人に特技を披露することは躊躇いたかった。
でも、本気が見たい、そういう言い方をされると不思議と答えたくなった。
「みんなには見せません?」
「みんなには見せへん。描いたら燃やしてもええ」
別に燃やす必要はないけど。
そのときの先生の目は冗談を言うときのそれとは違って、真剣で優しかった。
時生先生はサバサバしてて、くだけたところがあって、誰とでも仲良くできるような人なのに、僕のような日陰ものの生徒に特に好んで話しかけていっては、その人の良いところを引き出して一緒に楽しんでしまう、不思議な人だった。
多分、これを断わっても先生は僕に冷たくしたりはしないだろう。美術部への勧誘はやめないかもしれないけど。
本気を見たい。
そう言われたら、ちょっと試してみたくもなる。上手い殺し文句だ。
「……わかりました」
「よし決まりや! じゃ、早速はじめよか。とはいえ、うちは今からちょっと職員会議あるから……どうしよ」
顎に手を当てながら、先生は準備室の本棚やモチーフ入れのカゴを物色しはじめた。
「何描かしたろ」
「決めてなかったんですか」
「うちのええとこはな、行動力の速さやねん。内容は後で詰めたらなんとでも」
「部員さん、大変そうですね」
「せやねん。助手つけたいとこやねんけどな。大学やないから、雇う金もないし。モノはつまらへんなぁ……風景画……自画像でも描くか」
「いやぁ、自画像は……」
「自分描くのって嫌やんなぁ、わかるわぁ。うちなんか鼻描くとき毛穴気になって、パックはじめたりしてまうもん。あれなんやろうな」
「あるあるみたいに言われても僕知りませんよ」
「せや」
何を思い付いたのか。
先生は手をポンとたたくと窓辺のロッキングチェアに座っていた女の子の下へ行って、小声で何やら話はじめた。
女の子は僕の方を見て、先生に向かってゆっくり何度か頷いた。
先生は女の子の頭を丁寧に撫でると僕の方に戻ってきた。
「承諾は貰った。あの子がモデルや」
「はい?」
僕はこの日何度目かの「はい?」を口にした。
ただ今度はかなりの動揺を含んでいた。
「え、モデル……あの子が…………っていうか、誰、ですか」
このタイミングでする質問ではなかったかもしれない。
そのくらいに僕は狼狽えた。
今日はじめて会った子をモデルにするなんて。
しかも一対一で。
「なんや自分ら初対面か。あの子な、うちの部員やないんやけど、あの通り怪我してて、毎日ここで中にいる友達待ってんねん。動き回ったりせぇへんし、お喋りな子でもないから、あんたのモデルにはちょうどええで」
「でも……」
僕が怖気づいていると先生は僕にも耳打ちした。
「向こうは承諾してんねんから、あんたが断ったらあの子立場ないで」
「……」
「ええやんか、可愛いし。かわええやろう? かわええやんな。あれ、女の言う可愛いって男の言う可愛いと違うんやったっけ」
「……可愛いと、思いますけど」
「なんやタイプか?」
「可愛いかって先生が聞いたんですよ」
「それやったら何も文句ないやんか。昭和の男やないねんから、意地張って頑固道歩いてたら男が廃れるで。今の世の中」
昭和の男がどういうのかわからないし、僕の中の男なんてとっくに廃ってカツンカツンだけど、先生の言いくるめに対抗できるほど僕の口は達者じゃなかった。
「……わかりました。描きます」
「おし、よう言うた」
まるで骨を取って戻ってきた愛犬にするように、先生は僕のボサボサの頭を撫でた。先生の犬になってしまった自分を不甲斐なく思いながら、僕はパイプ椅子に腰を下ろした。
「楽しみやなぁ。あいつな、ずっと絵になる思ってたんや。今かて夕陽がちょうどええ感じで照らして、深窓の令嬢というか。儚げで」
「そんなことないですよ」
初めて女の子が口を開いた。
透明感のある澄んだ声で、彼女は先生の賛辞を恥ずかしそうに否定した。
ショートカットの髪に、柔和な瞳。
少しほっそりしているのは怪我のためだろうか。膝にブランケットをかけて、座っている様子は確かに儚げに見える。
その儚さは僕に幼いころに亡くした実の母のことを思い出させた。
「気まずいやろうからレコードでもかけとくな」
先生は意気揚々とプレーヤーの電源を入れたものの、すぐにターンテーブルの上に乗っていたレコードがハリー・ニルソンとかいう人の『ONE』という曲だったことを思いだして「これはあかんわ」と別のレコードに掛けなおした。
「これでええわ。ほな、よろしく」
騒々しく先生が準備室を去るとスピーカーからレコード独特のブツブツした音が鳴った。
ホーンの音からはじまり、ドラムが入って、外国の男性の歌声がこわれものに触れるように優しく歌いかける。
角という角がボロボロになったレコードのケースには若い男性の写真が写っている。
曲名は『Can't take my eyes off of you』。
意味はわからない。
唄っているのはフランキー・ヴァリという人だ。
確かに、音楽がひとつかかっているだけで、沈黙でいるよりずっと楽そうだったけど、それでもキャンバスを盾にして僕はしばらく窓辺に座っている女の子のことを見られなかったし、筆にさえ手を伸ばせなかった。
画板の下から女の子の右足にはめられたギブスが見えた。
改めて眺めているうちに、三か月前に階段から足を踏み外して大怪我を負った一年生が別のクラスにいたという話を思い出した。
でも名前までは知らない。
名前も知らない、怪我をしている女の子をモデルにしようなんて。
やっぱり気が進まなかった。
「描かないんですか」
画板の向こうから女の子が言った。
白い紙の上には当然ながらまだ何も描かれていない。
描かないんですか、と問われて、僕はその言葉を計りかねた。普通に考えれば額面通りでいいんだろうけど、僕はまだ彼女のことをよく知らない。
大怪我をしているということ以外は。
描くのをやめることを期待する言い回しなのかもしれない。
時生先生があれだから、自分からは断ることができず、僕にモデルを辞退するきっかけを求めている可能性だって十分にありうる。
ただの考えすぎの可能性も。
何はともあれ、紙の上にはまだ何も描かれていない。
直接聞くしかなかった。
「いいんですか?」
「う~ん……先生ってちょっと強引なところがあるから」
やっぱり、無理に承諾を取らされたのだ。
そういうことなら、何か違うものを描こうとモデルを変えようと考えはじめた僕に彼女は言った。
「描いちゃった方が楽ですよ。私のことは気にしないでください」
「え……いいんですか?」
「はい。誰にも見せないんですよね」
「あ……そう、言ってましたね」
「ならいいです。少しだけ……いいえ、なんでもありません。自由に描いてください。私みたいなのでよければ」
女の子は背もたれに寄り掛かった楽な姿勢はそのままに、両手を膝の上に重ね、視線は部屋の隅に移した。
彼女なりに絵画のモデルをイメージしてそうしているのだろう。
嫌そうには見えなかった。
そうか。
僕は気付いた。
「強引なところがあるから」というのは彼女自身が無理強いをされたということではなくて、僕が絵を描くように連れてこられたのだろうから、という意味だったのだ。
だから「描いちゃった方が楽ですよ」と続いた。
彼女なりに、時生先生には勝てないのだからという、時生先生を知りつくした故の諦観が混じって、そんな言い方になったのだ。
彼女がおそらく僕に出した要望はひとつだけ。
誰にも見せないこと。
見せる人なんかいないから、その心配はないだろう。
彼女にそう言いたかったけど、あったばかりで脈絡のない自虐は相手を困らせるだけだから止めておいた。
「じゃ……遠慮なく」
「ええ、どうぞ」
フランキー・ヴァリの歌声に、野球部のバッティング練習の音が重なる。
鉛筆を握り、僕は白い紙の上に向かう。
モデルを立てて絵を描くのは久しぶりだったし、それに同い年の女の子だったから、少し緊張した。
大まかなシルエットを描きながら、徐々にその形を詰めていく。
線を足していくたびに、目の前にいるモデルが紙の上に浮き出てくる。
こういうとき、いつもドキドキする。
頭の形や肩から腕にかけてのラインが似てくると、その人に直接触れているような気持ちになる。
髪と顔のバランスを決め、中身に筆を移す。
必然的に、彼女の顔を注意深く見つめるようになる。普段は女の子の顔なんてまともに見れないけど、絵を描くときばかりは……。
「……」
急に鉛筆が止まる。
嫌なことを思い出したせいだ。
中学のとき、授業中に好きな女の子の横顔を盗み見ながら絵を描いてしまったことがある。
修学旅行でその子の写真を買うなんてとてもできなかったし、盗撮だって趣味じゃない。
漫画のヒロインを好きな子に似せるくらいなら。
そう思って、こっそり少しずつ描いていたのだけど、あるときその子にバレて、その子の男友達にスケッチを没収された。
だいぶ酷い罰を食らった。
挙句にその子をモデルしたわけじゃないのに僕の漫画を載せた美術部の部誌まで男の仲間たちに狩られてビリビリに破かれた。
あのときのことを思いだすと未だに背筋がぞっとして、いたたまれなくなる。
「……どうしたんですか」
モデルの女の子が絵を前に溜息をついている僕を見て、心配そうに言った。
「あの……私、何か変でした?」
「いいえ、ごめんない……大丈夫です。大丈夫」
これはあのときとは違う。
勝手に描いてるんじゃない。
見ていいし、描いていい。
描かなければ逆に彼女に無用の気を遣わせてしまうことになる。
自業自得の過去と、清廉潔白な今を混同するべきじゃない。
鉛筆を握り直し、イーゼルに向き直ると彼女もまた元の姿勢に戻った。
目がちらりと僕の方を見て、また部屋の隅に戻る。
不意に彼女が口を開いた。
「あの……」
「……は、はい」
「もう、顔、描かれてます?」
「いや……まだ」
嘘だ。ちょうど目を描こうと思っていたところだ。
すると彼女は、
「視線を、そっちに向けてもいいですか」
「……え……」
僕はきょとんとした。
何をお願いされているのか、すぐにはわからなくて。
「やっぱり、駄目ですよね」
「いや、別に……視線をこっちにっていうのは……どういうことですか」
「あなたが描いてるとこ……」
そこまで言いかけて、女の子は思い直したように壁に掛けられた絵を指差した。
「あの絵」
「絵?」
僕も同じ方を見た。
描かれているのは黒い帽子を被った外国の少女だ。
白いブラウスに赤いリボン。肌は白く、髪は優雅にカールしている。確か中世フランスの女性画家の肖像画だったと思う。
絵の中の女性は顔だけをこちらに向けて、微笑んでいる。
「余所を見ているのはおかしいかなって、思って。正面を向いた方がいいですよね」
「あぁ……」
別にそういう絵もいっぱいあるから、おかしくはないけど。
僕は迷った。
頭の形を描いてしまっているからこちらを向くとなると描きなおしになるし、なにより僕に注がれる視線に耐えられるかどうか。
心臓が大きく音を立てていた。
「ごめんなさい……やっぱり、いいです。気にしないでください」
「いいですよ」
僕は気付かれないように顔に消しゴムをかけた。
彼女がどんな顏をしているかは見えないけど、『やっぱり、いいです』と言われるとさすがに恥ずかしいからなんて、どうでもいい理由に思えた。
「横顔……苦手だったので」
これも嘘だ。
でも、そう言えば変に気を遣ってもらわなくても済むかなって思って。
「し、正面でお願いします」
「はい」
その『はい』は凛としていて、どこか嬉しそうだった。
覚悟を決めて、僕は作業に戻った。
画板の横から顔を出す。
まっすぐ注がれる視線。
それは描き手への尊敬と信頼。一切、混じりっ気のない純粋な瞳が鉛筆を握り、紙の上に彼女を再現しようとする僕を見つめている。
彼女の目は丸くて、大きくて、睫が長い。
なんだろう。
息が詰まる。
不愉快な感じとは違う。圧迫感とも違う。
慣れないととても描き切れない。
目から描こう。
顔の輪郭をとってから、彼女の瞳に吸い込まれそうになる自分自身をなんとか落ち着かせながら、僕は両の目を描いた。
それから小さくて、柔らかそうな鼻と桜色の唇を描いた。
なんとか顔を描き切って、髪を描き足す。
前髪や鬢を細かく描写していくとみるみる目の前の彼女の写し絵として本格的になっていく。
彼女が目の前に二人いるみたいだった。
頭部が終わるとそこから下は少し気が楽になった。自分の高校のリボンやブラウスを描くことはなかったから、なんだか楽しい気持ちにもなった。
けれど時間がかかりすぎた。
気付くと下書きに一時間もかかっていた。
全身があらかた書き終わったあたりで下校時間が来てしまった。
職員会議から戻ってきた先生が「ほな今日は解散」と柏手を打つ。
思わず安堵の溜息が出た。
女の子も相当肩に力が入っていたのか。僕が鉛筆を置くと緊張の糸が切れたみたいにロッキングチェアの背にふーっと沈んだ。
一瞬目が合って、僕らは互いに笑みを零した。
美術室の片づけに先生が向かうのと入れ違いに、女の子の友人と思わしき人物が鞄を持って現れた。
「あれ、拓海くんだ!」
大袈裟なリアクションを取って、目を丸くしたのは中学のときの同級生で中学のとき同じ美術部員だった江藤紀子だ。
僕は彼女に生徒玄関で時生先生に捕まったこと。美術準備室で見ず知らずの女の子をモデルに人物画を描かされる羽目になったその経緯を説毎した。
「それはまた色々急展開だったね……」
江藤はハハハ、と空笑いした。
「私は止めたんだよ。拓海くんは高校では静かに過ごしたいって言ってたから」
「ありがとう。でも、あの人に横槍は無意味だよ。行動力の速さを自慢してたし、内容は後で詰めるんだってさ」
「先生らしいね」
江藤はちょこんと背伸びして、僕の前髪についていたらしい大きな埃をとってくれた。
さっき先生が絵の被写体を探して高い棚の上を漁ったりしていたからそのときに舞いあがった埃がふらふら。僕の頭の上に流れ着いてしまったのだろう。
昔はよく江藤に寝癖を注意されていたけど、そのころの僕はまだ背が低くて、こうして江藤が背伸びをするようなこともなかった。
「久しぶりだったんじゃない。絵描くの」
「……まぁ、家ではちょこちょこ、描いてるけど」
「『ロス・ロボス』の続き?」
「中学のときに描いたきりだよ……よくタイトル覚えてたね」
「だってあの漫画面白かったもん!」
「あれを面白いと思うの、江藤くらいだよ」
「そんなことないよ! 後輩だって、めちゃくちゃ褒めてたもん! あ、知ってる? 海藤さん、この前漫画新人賞で期待賞貰ったって」
「いや、初めて聞いた…………え、江藤、友達待ってるけど、いいの?」
帰り支度も整い松葉杖をついて立っている女の子の視線に気付いて僕は江藤に促した。
「ん? 全然いいよ。どうぞどうぞ」
女の子はにこやかな笑みを浮かべて両手を差し出した。
江藤は急に顔を真っ赤にして、
「ご、ごめんね! また待たせちゃって。あ、っていうかもうお母さんも来てるんだった。ええっと……じゃ、私ユイちゃんと車で帰るから、またね。拓海くん!」
「あ、うん」
友達の歩行を後ろから見守りながら、江藤は美術室に通じる扉から準備室を後にした。
何を急に慌てていたんだろうか。江藤の様子が少しおかしかったことに首を捻りつつ、僕は描きかけの絵の片づけをはじめた。
「あの……」
「は、はい!」
誰もいないと思っていたところに声がかかって、僕はびっくりして、その拍子にイーゼルを倒してしまった。
幸い絵は無事だった。
「ごめんなさい」
美術室側の扉から江藤の友達が申し訳なさそうに顔を出していた。
「あ、えっと……大丈夫、大丈夫です……わ、忘れ物ですか?」
「まだ絵、完成してませんよね」
「……はい」
「じゃ、明日もここで待ってます」
「え……」
一瞬、頭が真っ白になった。
「今日の続きです。それとも、また別の日にしますか」
「いや……明日……明日で、大丈夫です」
「わかりました。じゃ、また今日と同じで」
女の子は脇にかけてあった小さな鏡に目を移して、髪型を確認してから、また視線を外してロッキングチェアを指さした。
「そこの椅子に」
「うん。そこの椅子に」
僕がオウム返しすると女の子ははじめて僕に向けて、ニコッと笑いかけた。
「さようなら」
「……さようなら」
手を振る彼女に応えて、僕も手を振り返した。
彼女がいなくなって、美術室にいる時生先生に二人が帰りの挨拶をして、廊下に出て行ってからようやく僕は手を降ろした。
「どないしてん。鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して」
美術室の片づけを終えて、時生先生が戻ってきた。
僕はそれでもしばらくその場に突っ立ったまま、倒れたイーゼルを起こそうともせず、
「……そんな顔、してます?」
「してる。ほんまにあんねんな。はじめて見たわ」
「……今も?」
「うん。見てみたらええ」
僕は表情の形を保つよう意識しながら、鏡の前に立った。
美術室の扉の横に立てかけてある小さな鏡。ついさっき、あの女の子が自分の顔を見つめていた、あの鏡だ。
確かに目をまんまるにして、口をぱかっと開いている。
目の丸さといい、口の開き具合といい、鳩とといえばそうかもしれない。
「覚えときや。おもろい絵描くときに役に立つで」
「……そうですね」
ふと彼女が鏡を見た理由が気になった。
あれは、髪の乱れが気になったんじゃない。今日と同じ髪型、眉の形、服の様子を記憶していたんじゃないだろうか。
明日も再現できるように。
「あの子……明日も来るそうです」
「来るやろな。江藤のお母ちゃんの車で毎日二人して帰ってるみたいやから」
「いや、そうじゃなくて……」
その先を言うのは止めた。
先生が僕の絵に目をとめる。
「お、やっぱり思た通りや。初対面やったんがええんかな。変に誇張されてない、不偏的な客観性がある。知り合いやとどうしても『愛』が入るからな」
「『愛』?」
「思い入れというか。よく描いたろういう人情や。それがこの絵にはまだない」
「それがいいんですか?」
「ええ」
僕は先生から受け取った書きかけの絵を改めて見た。
不思議だった。
何でもない線の一本一本が集まって、真っ白な紙の上にさっきまでそこにいた女の子の姿を現してる。ただの記号の集まりなのに、線のひとつひとつが彼女の特徴を捉えて、それを見る僕や時生先生の目にあの女の子だと認識させる。
あの子がこの紙の上にいる。
なんでだろう。
いままでそんなこと、これっぽっちも不思議に思ったことないのに。
「で……何て子なんですか」
「なんや、自分ら自己紹介もしてないんか」
時生先生はいよいよ呆れ返って、また僕の頭をくしゃくしゃっと撫でた。多分、今度のは「なにしてんねん」って意味だと思う。
「帰る準備しい。約束通りジュースおごったるわ」
次の日とまた次の日と、制作日数は合計で三日かかった。
その三日とも女の子は変わらない姿と、姿勢でロッキングチェアに座って待っていた。
僕も変わらず、彼女を観察しながら真剣に作業を進めた。
僕らはその間一言も会話を交わすことはなかった。
天気の話でさえも。
ただ60年代のレコードが回り、沈黙とも言えない沈黙のなかでモデルと絵描き。それぞれの役割を信頼し、尊重するように静かなときだけが流れた。
最後の日。
残りの工程が見えてきて、今日一日で絵が完成する、それがわかった瞬間、僕の筆が何故か少し、遅くなった。
危うくもう一日伸びてしまうところだったけど、彼女をこれ以上拘束してはいけないという遠慮だけが理性的に働いて、なんとか下校時間の放送がはじまるギリギリ手前で絵を描き終えることができた。
おそるおそる席を立って、彼女に絵を見てもらった。
彼女は僕の席に座り、位置と角度で空になったロッキングチェアと絵を見た。
自分自身をモデルにした絵だから「上手」とか「綺麗」とか、まして「これが私?」なんてのはもちろん言えるはずがないから感想を口にするのは相当難しかったと思う。
彼女はしばらく黙って見つめていたが、ようやく適当な言葉を見つけた。
「先生のお手伝い、決定ですね」
彼女は笑って、イーゼルの横で突っ立っている僕を見上げた。
「いいんですか?」
「だって、適当には描けませんから」
「……で、どうするんです。やっぱり、燃やしちゃいます?」
誰かに見られるのが嫌なら、燃やしてもいい。
そう言った時生先生の言葉を覚えていたのか。彼女は自分の描かれた絵を見つめながら、僕に問いかけた。
僕は当然、こう答えた。
「いや、いいです」
だってそれは、まるで彼女のことを燃やすようだったから。
反対に僕は聞いた。
「き、君は?」
「私?」
「これは君の絵だと思うから……君に任せるよ」
「そう?」
彼女は困ったように笑って、首を傾げた。
「私も……これはあなたの絵だと思うから、燃やせないかな。なんだか、描いた人のことを燃やすみたいで」
彼女も僕と同じことを思っていた。
それがなんだか嬉しかった。
結局、僕らは絵の処遇を時生先生に委ねた。
先生は絵を丸めてケースに収めるとそれを自宅に持ち帰った。
僕は晴れて先生のパシリというか、お手伝いになった。
先生に強要されたからじゃない。また、絵が描きたくなったからだ。
でも美術部の肩書きは別に欲しくなかった。
準備室に甘んじて、先生が個人的に制作している絵の助手を勤めた。キャンバスを張ったり、必要な画材を発注したり、軽食を買ってきたり。ときどき絵を教わることもあった。
その傍らにいつも彼女がいた。
徐々に、本当に徐々に僕は彼女と会話を交わすようになった。
半分は江藤や時生先生の話だった。
僕らに共通するのはその二人だけだったから。
あとの半分は、好きなものの話。本とか映画とか、音楽とか。
互いにあまり、自分のことは話さなかった。
僕も話したくなかったし、話すべきじゃないと思ったから。彼女にしてみても送り迎えを手伝っているのは江藤と江藤のお母さんで、彼女自身の母親が車で迎えに来ているところを僕は一度も見たことがない。
ちゃんといるらしいけど、だからこそ深くは聞くべきじゃないと思った。
そのうち、彼女が僕のことを「たっくん」と呼ぶようになった。
準備室の中でだけだけど。
僕は「さん」付けに留まった。
彼女の足のギブスが取れて、松葉杖が必要なくなると、必然的に彼女が準備室にいる時間は減った。本来所属していたテニス部に復帰したからだ。
準備室からだと校庭の隅にあるテニスコートからの音がよく聞こえる。
ボールを打つラケットの音が。
「自分、ズボンびっちゃびちゃやで」
「え、あ、わ!」
窓辺の水洗い場でパレットを濯いでいると時生先生が肩越しに忠告した。
「ぼけっと校庭ばっか見て」
「いや……運動部大変そうだなって。こんな寒いのに」
「動いてたら暑うなるやろ。いや、そういうことやのうて」
「なんですか」
「無自覚か……せや、またモデルでも頼んだらどうや」
「はい?」
「あいつに」
先生はテニスコートに向かって顎をしゃくった。
「ずっと見てたやろ。また描かせてくれって頼んでみたらどうや。多分、オーケーしてくれる思うで」
「一度描いたから、もういいですよ。同じことです」
「違うと思うけどな」
「何が」
「前と同じ絵にはならへん。きっとな」
先生はそう言って僕にタオルを投げた。
僕はいつかの先生の言葉を思い出した。
思い出して思わず赤面した。
心臓が勝手に高鳴った。
僕は馬鹿だから、そのときになってはじめて気づいたんだ。
江藤と帰るために彼女が準備室にやってくるのを心待ちにしている自分に。
彼女と過ごす時間が短くなって、寂しく思っていたことに。
もっと話したい。
もっと彼女といたい。
同じクラスになれたら、きっと素敵だろうと。それだけで幸せだろうと。
廊下から鈴の音が聞こえる。
ゆっくり歩いていくるのがわかる。
僕は慌ててズボンを拭く。
とても間に合わない。
目隠しにキャンバスを前に立てかける。。
「何してんねん」
先生が布きれを放る。
腰に巻けとジェスチャーを送る。
準備室の扉をノックする音。
仕方なく布きれを腰に巻く。スカートのように。
「よう似合ってるで」
「……」
「失礼しまーす」
扉が開く。
部活を終えて、マフラーに口元を埋めながらやってきた彼女は準備室に入るなり、僕の有様を見て、不意を突かれたように噴出した。
「どうしたの、たっくん。それ」
笑顔を見て、確信した。
そうだ。
先生の言う通り、もう前と同じ絵にはならない。彼女の良い部分をたくさん知ってしまったから。
恋をしていたから。
好きだった。
僕は彼女のことが、瀬名波結依のことが大好きだった。
***
「あの女の後を追いたいなら、手伝ってやってもいいぞ」
一年後。
異世界エアリース。
ここに瀬名波結依はもういない。
奴隷狩り集団の頭目・カーラによって彼女は、クラスメイト三十七人と副担任が見守るなか、二本足のドラゴンに生きたまま焼かれ、絶命した。
魂は燃え尽き、肉体は光の粒子となって散っていった。
どうしてこんなことになってしまったのか。
それはわからない。
誰が僕らをこの世界に招いたのか。
それもわからない。
わかっていることは、ただひとつ。
「さぁ、どうした。お前も同じように焼いてやるぞ」
この女が、彼女を殺した。
屋島青児と吾郷薫に押しとどめられながら、僕は全身全霊の怒りと憎しみを叫びに変えた。
「ぶっ殺してやる!!」
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