二章:奴隷狩り
拓海千秋(7)最後のひととき
漂流から十四日目の夜。
寝つきが悪いのはこの島に来てからずっとだった。
硬い地面。
布団代わりの枯葉の下を這いずる虫の音。
高すぎる木々の屋根。
眩しすぎる三つの月。
ときおり山の向こうから木魂する聞いたこともない獣の鳴き声。
いつか僕らを食らいに来るのだろうか。
夜空に瞬く星々を見上げる。
そこに僕らの知っている星座はひとつもない。
みんなそれに気付いているはずなのに、気付かないフリをしている。
この熱さだってそうだ。
都倉の言う通り、ここは日本じゃない。
それがわかっているにも関わらず、今なおレスキャー隊だ、自衛隊だ、アメリカ海軍だと映画のような救出劇を期待して、明けても暮れても、助かったあとの話に現を抜かす。
そうでないとみんなまともな精神状態ではいられなかったのもしれない。
僕にそれは無理だった。
例えここが僕らのよく知る世界だとして。
明日都合よく助けが来たとして。
無事に家に帰りついた自分の姿をあまり肯定的に思い描けなかった。
ここの生活に満足しているわけじゃないけど、ここと自分の家を比べて、断然あの家の方がマシだと、そう思える家に僕は住んでいなかった。
ボロ屋という意味ではない。
屋根どころか太陽光パネルだってついているし、風呂はリビングからの遠隔操作ですぐお湯を貯められる。
でもどんなに家が立派でもそこに家族がいなければ、ほったて小屋と変わらない。
僕には会いたい家族がいなかった。
七歳のときに母親が死んでから、十二歳になるまで父と二人暮らしだった。
いわゆる鍵っ子というやつで、家に帰ったら作り置きの夕食を温めて、後の時間はゲームに費やした。
それしかやることがなかった。
父は仕事ばかりで息子に構ってやれないことを不憫に思ったのか、ゲームソフトをたくさん買ってくれた。家にいる時間が少ないことへの父なりの償いだったのだろうけど、ゲームを買ってもらうたびに僕は自分が一人なのだということを実感させられた。
それでも小学校の頃は友達もいたから日が高いうちは外で遊ぶこともできた。
立花柚と屋島青児とは幼稚園のころからよく遊んでいた。
二人と疎遠になったのは小学校卒業と同時に僕が引っ越してからだ。
引っ越しの原因は父の再婚だった。
相手の女性は胸こそ貧相だが死んだ母よりも五歳若かった。
バツイチの子連れで小学校四年生の娘がいた。
それまでアパート住まいだった僕と父は再婚を期に、山を離れ、海の近くの一件家に移り住んだ。
父は新しい家庭と一件家を持ったことで頻繁に僕にお小遣いを与えることができなくなった。
新しい母は再婚前の貧しい時期に不憫を強いた娘に報いるため、父の稼ぎで高級キッズブランドの服やアクセサリーを大量に買い与えた。
その娘。
要は僕の義理の妹にあたるその子は小学生のうちから女子高生のトレンドに憧れるようなマセた子だった。
僕は彼女にあまり好かれていなくて、家に帰るとまるで害虫でも見るように睨まれた。
決して『お兄ちゃん』などとは呼ばれなかったし、休みの日になると部屋で引きこもってゲームに明け暮れている僕のことを蔑み、馬鹿にし、僕のいる前で鼻を鳴らして『こんなやつが家族とかありえない』と嘯いた。
父は再婚した女性との子どもを待ちわびるばかりで、僕のことはいつまでも新しい家族に馴染もうとしない厄介もののように扱った。僕がいなければ、あの家はもっと円満な家庭を築くことができただろう。僕が生きていると知ったら、むしろがっかりするはずだ。
あんな家に帰るくらいなら、僕は例え一人になってもこの島にいよう。
助かったあとのことを考えるといつも僕はこの冴えた結論に至った。
横になってもなかなか眠ることができず、尿意をきっかけに僕はいよいよ眠るのを諦めて起き上がった。
弓道部の桐谷が森の茂みで用を足してあそこを虫に刺されたという話を聞いていたので、夜にも関わらず昼間に屋島と利用した例の浜辺に向かった。
キャンプを出たすぐの浜辺に鹿山亮太がいた。
鹿山は二年からの転校生で、元暴走族のメンバーという噂もあったが大庭たちとはつるんでいなかった。大庭は席が近くだということもあって最初のころこそ自分たちのグループに引き入れようと熱心だったが、鹿山は無暗やたらとガンを飛ばすことなく、「興味ない」と一蹴して図書室で借りたらしいヘミングウェイの中編に目を落としていた。
大庭はわずか一週間で鹿山を友達にすることを諦めた。
噂では彼の態度の悪さに業を煮やして喧嘩を売って、返り討ちにあったのだというが真偽のほどは定かじゃない。
大庭ほどの馬鹿ならありえない話でもないけど、身長180センチ、ブレザーがはち切れんばかりの胸板を持ち、そのうえ右頬に出自の知れない火傷の跡を持っている坊主頭の男を相手に喧嘩を売るやつなんて普通はいない。
不良たちと付き合うことを拒絶したものの、他のグループと交流を持つこともせず、鹿山亮太は近寄りがたいオーラを武器に校内最強の『ぼっち』の名を欲しいままにした。
いや、彼を僕と同じぼっち扱いにするのはいくらなんでも失礼だ。
彼は僕流に言えば男版湯浅まなみ。
孤高の人なのだ。
その夜も鹿山は見張りの番でもないのに、浜辺に腰をおろし、星を眺めていた。
「……」
かなり距離をとって、しかも砂の上を歩いていたのに、鹿山は何かしらの気配を感じとったのか。不意に僕の方を振り向いた。
見ていたはずが見られた瞬間。僕は驚いて、早足で浜辺を横切った。
月が綺麗な夜だった。
例の場所まで来ると辺りには木の枝が無数に転がっていた。
踏むとパキっと気持ちのいい音がした。
「誰?」
と誰何する声が聞こえて、僕は声のする方を見た。
以前、湯浅まなみが木の棒で槍を作っていたあの岩場に、瀬名波結依がいた。
月灯りが逆光になっていて、砂浜からは顔も見えなかったけど、すぐに彼女のシルエットだとわかった。
いや、わかったんじゃない。
多分、あれくらいのシルエットならどんな女性であっても僕は瀬名波結依だと錯覚したに違いない。
でも、今回に限っては錯覚ではなかった。
「たっくん?」
こういうときにたった一人だけが使うあだ名というのは便利だ。
すぐに瀬名波さんだと確信できた。
月光を背にしていたから彼女の方からは僕の顔がよく見えたことだろう。
こんな夜中に気になる女の子に遭遇して、緊張で強張っている冴えない少年の顔が。
「こんなところで、何してるの?」
と、僕は聞いた。
いてすぐに、自分はバカだと思った。
お前こそ何してるんだ。
こういうときは自己紹介と同じでまずは自分からここにいる理由を明かすべきだ。
そうでなければ、「こんなところで何してるの?」なんて馬鹿げた質問には「あなたこそ」という至極当然の指摘で逆に質問を返されることになる。
「寝れなくて……散歩してたの。たっくんは?」
「僕は……トイレ」
言いながら、僕はズボンのチャックを彼女に悟られぬようゆっくり上げた。
彼女に声を掛けられたのが竿を出したあとでなくて良かった。
「トイレが終わって、少し散歩してたところ」
よくわからない嘘をついた。
このままここでするわけにもいかないし、別に今すぐ必要なわけじゃない。
人間は二時間程度なら我慢できるとも聞いたことがある。
とにかく、彼女に変な気を遣わせたくなくて、嘘をついた。
「そうなんだ」
「うん」
「私と同じだね」
「うん」
真っ暗な海から心地いい風が吹いている。
最初の夜以来、僕らはドラゴンを見ていない。
何かの見間違いか、あるいは最初の晩に見た夢の一部だったのかもしれない。
三つに見えるあの月だけが不可解だったけど、こうして彼女の輪郭だけを頼りに、声を聞くのも悪くない。
けど今夜はこれくらいにしておこう。
「じゃ、おやすみ」
「……ねぇ」
まるで袖を引っ張るように、彼女は去り際の僕を呼び止めた。
予想外のことで、僕は少し、ドキッとした。
「少しの間、話相手になってくれない?」
彼女は少し躊躇うように、しかし僕が「うん」と答えることを期待しているようだった。
「……うん」
月光で比較的足場の見えやすい海沿いから回り込んで、僕は瀬名波さんの近くに来た。
新月から三日月を経て満月に至るように彼女の表情がはっきりと夜に浮かび上がった。
困ったような笑み。
眉を下げて、『ごめんね』と許しを請うように。
男子の中にはそんな彼女の微笑み方が儚げで可愛いとか、言うやつもいたけど、僕は好きじゃなかった。
夏見たちが嫌う理由とは違う。
嫌いじゃない。
好きじゃないんだ。
悪くもないのに誰かに「ごめん」と言う、そういう彼女は好きじゃなかった。
「ごめんね。付き合ってもらって」
「いいよ」
着の身着のまま。
僕らはろくな着替えも持ってなくて、服はだいぶ匂ってるはずだ。
身体こそ川で洗って、砂を擦りつけているけど。
この頃になるとみんな他人との距離に気を遣った。特に異性とは……。
僕は彼女の斜め前に腰を落とした。
岩はゴツゴツしていて、なかなかポジションが決まらない。
背中に波の音を感じた。
ここに座っていれば、彼女の背後から獣が出て来ても、いち早く気付くことができる。
気付いたところで僕に何ができるんだって感じだけど。
「風、気持ちいいね」
「うん……」
顔を上げた僕は一瞬、瀬名波さんと目が合ったことに動揺して、慌てて伏せてしまった。
考えてみれば、こんな夜中に彼女と二人っきりでいるなんて文化祭の前夜のときみたいだ。
生徒会が学生から資金を募って、校庭の真上に大きな花火を打ち上げたあの夜。
僕の脳裏に蘇った記憶はあの花火ほど美しいものではなかった。
『……駄目だよ、私なんか』
あのとき真っ白だったブラウスも今では毎日の汗と風雨にさらされ、その純白を失った。
昼夜を問わない熱さにブレザーは用済みとなったが、それでもブラウスの下にシャツを着ることがやめられないのはおそらく僕たち男子の目が気になるからで、そういうことを考えると申し訳なく思い、また視線が下がる。
生い茂った草木や岩場で黒いスカートにところどころほころびができはじめていた。
プリーツの裾から彼女の細い膝が覗く。
ここに迷い込んで十一目。
彼女の陶器のように白い肌もすっかり小麦色に焼けていた。
他の女子も同様で、紫外線対策とかできないから文科系も体育会系も等しく容赦ない日光の洗礼を浴びた。
彼女は膝の上で折れた木の棒を両手で転がすように持っている。
人工物のように先が尖っているが三十センチくらいの長さで折れてしまっている。
「それ」
どことなく気まずい空気が流れているような気がして、僕は珍しく自分から口を開いた。
瀬名波さんは「ん?」と首を傾げたと思う。
僕の視線を追うようにして、たった二文字の問いかけの意図を読んだ。
「これね。なんかこの辺にたくさん落ちてたの」
「銛じゃないかな」
「もり?」
「魚を刺すやつ」
「あぁ。 “銛”ね」
「前にそこで湯浅さんが作ってたの見たよ。だから、それもそうじゃないかな。折れてるから、多分失敗作なんだと思う」
「まなちゃんが?」
彼女がクラスでも孤立気味の湯浅まなみのことをそう呼ぶので僕は少し意外に思った。
「友達……なの?」
「友達っていうか……一年前に病院で、ね」
「病院?」
「……ほら、前に私松葉杖ついてたときがあったでしょ。一年のころ。あの前まで入院してたの。そのときによく廊下とか待合室で顔を合わせていたから」
「そうなんだ」
瀬名波さんの怪我のことは聞いたことがある。
階段を踏み外して転げ落ちた女子生徒がいると校内で一時話題になっていたから。
でも、そのとき湯浅まなみと友達になっていたなんて、初耳だった。
僕にしたら白鳥みたいな瀬名波さんと、孤高の虎みたいな湯浅まなみが和やかに喋っている場面が想像できなかった。
岩場に座っている瀬名波さんはいつかの湯浅と同じように木の銛を掴んでいるのに、なんだか違って見える。月の光に照らし出された彼女は、湯浅の「太陽光を跳ね除ける」みたいな力強い生命力とは真逆の、「優しさ」というか「母性」というのか。
柔らかくて、温かくて、彼女を見ているとときどき自分や他の男子はまだまだ全然子どもなんだなって思うときがある。
おかしな感覚だけど、きっと女子は男子よりもずっと早く、大人になるのだ。
「ねぇ、たっくんはこの世界のこと、どう思う」
「世界?」
「うん。たっくんも思ってるでしょう。ここが私たちの知ってる世界とは違うって」
「半信半疑だけど……そうなんだろうね」
彼女はときどきこうして、僕に何かの意見を求めることがあった。
「月が三つ見えてるし、ずっと夏みたいな熱さが続いているし。都倉くんも言ってたけど、そもそもこの島の森は日本の森じゃないんじゃないかって。なんかショクセイっていうやつが違うみたいだよ」
「そうだね。明らかにジャングルだもんね」
僕はそれを聞いて膝を打った。
そうだ、ジャングルだ。
僕は彼女が口にするまでその言葉を思いつかなかった。
なるほど。するとやっぱりここは日本ではなさそうだ。
予感が確信に変わった。僕は空を見た。
「それに北極星も見えない」
「北極星?」
僕の一言に、瀬名波さんは空を見た。
「ホントだ……北斗七星も、カシオペアも見えない」
彼女と一緒に僕も星を見る。
「何で気付かなかったんだろう」
「盲点だよね。南十字星も見えないから、東南アジアの無人島ってわけでもなさそうだし、本当どこなんだろうね。ここ」
「やっぱりすごいなぁ、たっくんは」
瀬名波さんが尊敬の瞳を僕に向ける。買い被りだと、僕は思う。
「ずっと夜空を見上げて寝てたのに、全然そんなこと気付かなかった」
「気付いたのは設楽くんだよ。最初の晩に僕の隣で寝てたんだけど、彼がぼそっと呟くのが聞こえたんだ。『あれ、ない』って。仰向けで空を見てたから。なんのことだろうって思って目を凝らしたら、わかった。多分、都倉くんも気付いてたと思うよ。僕は設楽くんのヒントで発見しただけで……すごくない」
「すごいよ」
そこまで種明かしをしても彼女の態度は揺るがなかった。
「そういうこと、正直に言っちゃうんだもん。大抵の人は見栄を張って、自分の手柄にしちゃうのに、たっくんはそういうズルはしない」
「できないだけだよ」
「できないのも才能だよ」
「才能って、そんな大袈裟なものかな」
「できる人とできない人がいるんだから、才能だよ。他人に嘘をつけるのも才能、つけないのも才能。私はそう思うな」
彼女の僕に対する過大評価は今に始まったことじゃないから、別に悪い気もしないし、訂正もしないけど、いつまでたっても居心地の悪さだけは拭えなかった。
悲惨な中学時代の日々のせいだ。
蔑まれたり、見くびられることに耐性ができすぎて、相反する称賛を素直に受け入れられなくなってる。
「瀬名波さんはどう思うの。この世界のこと」
「そうだなぁ……未来の地球、ってのはどうかな」
「『猿の惑星』?」
「言うと思った」
彼女の声が楽しげに弾む。
「地球の温暖化が進んだら可能性もなくはないでしょう。それか大昔の地球とか。だけど知らない星座ばかりってことは、そもそも地球じゃないのかも」
「じゃ、やっぱり異世界なのかな」
「異世界って?」
「『ナルニア国物語』みたいな。魔法が存在してたり、でっかい竜がいたりして、とにかく僕らのいる世界とはいろんなことが違う世界のことで……きっと何か魔法陣みたいなものが僕らを丸ごと別の世界に……」
パキン、と瀬名波さんの手の中で木の枝が折れた。
『魔法陣』という言葉に反応したのかもしれない。
迂闊だった。
おそらく彼女も僕も同じ光景を想像したに違いない。
四月の朝。
血まみれの校庭。
無残に切り刻まれた肢体。
隠蔽に奔走する教師たち。
犯人捜しに興じるクラスメイトたち。
そして、選ばれた生贄。
あのときも、はじまりは魔法陣だった。
ただの落書きにすぎなかったのかもしれないけど。
「ごめん、こんなのオタクっぽいし、バカらしいよね。いくらなんでも」
「……魔法陣」
「わかんないよ、まだ」
不確実な憶測を話して、瀬名波さんを怖がらせたんじゃないかと僕は心配になった。
彼女は折れた木の枝を見つめながら、ぼそりと話はじめた。
「私、この世界のこと、知ってるような気がするの」
「どういうこと?」
「見覚えがあるっていうのかな……夢で、見た気がする」
「夢?」
「うん。ときどきね……見る夢があって」
のめりこむように夢について語ろうとしていた彼女だったが何の拍子か。
ふと我に返って、首をぶんぶんと横に振った。
「ごめんね。変なこと言ってるよね、私。誰にも言わないで、今のこと。なんか、私ちょっとおかしいかも……」
瀬名波さんは珍しく顔を紅潮させて、恥ずかしさで顔を背けた。
夢の話は気になったけど、そんな風な彼女ははじめてだったから、僕はつい頼りがいのある男のような言葉を吐いてしまった。
「言わないよ、誰にも」
「ありがとう」
「前のことだって、誰にも言ってない」
「前のことって?」
「ほら、あの……五月に一度、一緒に帰ったことがあったでしょう。そのときに」
「ああ、あのときの……」
僕はこれ以前に瀬名波さんに関するちょっとした秘密を持っていた。
とある学校の帰り道。
見知らぬ親子――若い母親と三歳くらいの女の子のある微笑ましい光景を見て、瀬名波さんが涙を零したのだ。
『どうしたの?』
と僕が聞くと、やっと彼女は自分が泣いていることに気付いて、慌てて涙を拭った。
『誰にも言わないで』
そう瀬名波さんに言われた僕は彼女の信頼を得ることができるのならと、口をつぐみ、そのことに関しては特に深く考えることもしなかった。
他人の秘密を誰にも話さない。
それはきっと僕の唯一の特技だった。
「あのときは少し、おかしかったの。いつもなら何でもないのに……」
僕はてっきり当時のことを思いだして、彼女が恥ずかしがるのではないか思っていた。
でもそんな様子は微塵もなかった。
それどころか失笑混じりでさえあった。
彼女は夜の海をじっと見つめている。
すべてを達観したような目で。
その目はなんだか、僕の古い記憶に残っている母の目にもよく似ていた。
病床で窓の外を見つめていた母の、あの寂しげな瞳に。
「……でも、よかった」
瀬名波さんの表情が不意にまた違うものになった。
ほっと安堵しているような。
優しい目に。
「え……何が?」
「たっくんと話せて。ほら、文化祭の日からずっと、話せてなかったから」
文化祭、と彼女の口から聞くと動揺はほとんど自動的に僕を襲った。
確かにあれ以来僕はまともに彼女と口を利いていなかった。
毎日のように時生先生の手伝いで通っていた美術準備室からも足が遠のいて、朝の挨拶くらいしか言葉を交わしてなかった。
気まずくて。
まさか瀬名波さんが文化祭の話を切り出すとは思ってなかったら、彼女も話をしていないことを気にしていたのかと思うと、少し胸が痛んだ。
「それは……しょうがないよ。あれは僕が」
「わかってる。うん……当然だよね。でもね、これだけは言っておきたくて」
瀬名波さんは僕の方にまっすぐ身体を向けた。
「たっくんのことを、否定したかったわけじゃないの。そんなことしたくないし、そうしたんじゃないかって誤解もされたくない。たっくんは、他の男子とは違うから」
いつもの僕ならここで臆病にも自虐に逃げていたかもしれない。
ぼっち、とか。
友達がいない、とか。
そうしなかったのは彼女があまりに真剣だったからで。
自虐を許さない彼女の真摯な態度がとても嬉しかったからで。
僕は真面目に聞き返した。
「違うって、なにが」
「特別。大切な人。ノリちゃんもたっくんも、私にとっては特別なの……二人がいなかったら私、きっと……学校にはもう……戻れなかったと思うから」
「それって、どういうこと」
「……」
その先を話すかどうか。
「それは、ね……」
彼女が逡巡しているのがわかって、「無理に言わなくていいよ」と喉まで出かかったところで瀬名波さんが「シッ」と声を潜めて、僕の口に手を当てた。
「今の聞こえた?」
瀬名波さんの冷たい手が僕の唇と頬を包む。
そのことに焦ってしまって、彼女の言う通りに聞き耳を立てるのに時間がかかった。
僕は彼女の言葉を整理しながら、慌てて耳をすまし、彼女の視線を追った。
「足音……森の奥から誰かが走ってくる」
「えっ」
僕の口から手を離して、中腰になる瀬名波さん。
急いで彼女の前に立つべきだったんだろうけど、足が痺れて彼女ほど咄嗟には動けなかった。
「誰か来る」
不安定な岩場の上でゆっくり後ずさりながら、彼女の右手が何かを探すように僕の方に向かってペタペタと岩場を小さく叩く。
僕らの間には、湯浅が作ったと思しき失敗作の銛が転がっていた。
僕はそれを拾って、四つん這いの格好でなんとか瀬名波さんの前に出た。
逃げようとしなかった自分を少し褒めたくなった。
ここではじめて僕にも足音が聞こえた。
かなり短い間隔で小枝がパキッと折れたり、葉っぱが踏みしだかれる音がする。
まるで獣がこちらに向かって走ってくるように。
僕の後ろにぴたりと瀬名波さんがついた。
不安と恐怖の息遣いが僕の首筋を通して伝わる。
僕はぐっと銛を握りしめた。
足の痺れだけが忌々しかった。
足音が聞こえなくなった。
砂浜に出たのかもしれない。僕は息を殺して、身を屈めた。
やがて岩場の向こうに黒い人影が現れた。
「待って。誰かいる」
男の声で人影が喋った。
距離にして、一〇メートルはあったと思う。その声に聞き覚えがあった。
「篠原……くん?」
僕は必死に目を凝らした。
そろりそろりと岩場を登ってくるシルエットと挙動は、彼だと思えば思うほど目に見えている以上に彼の表情をくっきりと僕に思い描かせた。
篠原智彦(出席番号14番)。
この世界に迷い込んだ最初の夜にリーダーシップを発揮した、帰宅部男子グループの中心人物。
芸能人みたいに整った顔立ちと涼しげな瞳。
中学時代は野球部のエースだったそうだが、高校ではバンド活動に打ちこむために今はどの運動部にも所属していない。
理系科目では優秀な成績を治め、交友関係も広い。
当然、女子にも人気で八組男子の頂点のような人だった。
だから、僕にでも彼がわかった。
でも彼には僕がわからなかったらしい。
「誰だ?」
かなりの距離を走ってきたらしい。激しく息を切らしている。
背後には彼の恋人でもある森末紗耶の姿も見える。クラス有数の美女が普段は綺麗な髪をぐしゃぐしゃに乱して、膝に手をついている。
篠原くんは視線を僕の後ろに移して、目を丸くした。
「……瀬名波?」
思えば、篠原くんが彼女の名前を口にするのをはじめて聞いた気がする。
胸騒ぎがした。
彼はいつもギャルグループの女子たちを一応に呼び捨てにしていたが、飯塚茉莉や沢代善美などあまり交流のないグループの女子に対しては「さん」付けで呼んでいるイメージがあった。
だから瀬名波さんを呼び捨てにしたことに、違和感を通り越して、胸騒ぎを覚えた。
「お前ら、こんなとこで何してんだ」
それはこっちの台詞だった。
篠原くんたちは数日前に最初のキャンプ地から川の上流へ移動して、そこを新たな寝床にしていたはずだ。
僕らのキャンプから距離を取って以降、彼らが海岸に戻ってきたことはない。
それがこんな夜中に、恋人と二人で。
しかも、切羽詰まった様子で走ってくるなんて。
ただの逢引でないことは確かだった。
「何してんだって聞いてんだろ」
篠原くんの声が苛立っていた。
僕に対してではない。
僕など眼中にない様子で後ろにいる瀬名波さんをにらみつけている。
「……」
振り返ると瀬名波さんは口をつぐんだまま俯いていた。
篠原の問いに答えようとする気配はない。
前髪に隠れて、彼女が今、どんな顏をしているのかが、わからない。
「ねぇ、トモ。そんな女どうだっていいでしょ! 早く!」
森末に急かされ、篠原くんはやむなく僕らの前を横切って、着た方向とは逆に岩場を降りて行った。
キャンプのある場所とはまるで違う。
決死の逃避行のように手を繋いで波打ち際を全力で走り去っていく。波を蹴って走る様子はまるで足音がつくのを恐れるかのようだった。
「どうしたんだろ、あの二人」
「……」
瀬名波さんは答えない。
が、彼女の鋭敏な鼓膜がまた何か予期せぬ物音を聞きとったのか。
ハッとしたように顔を上げたかと思うと、僕の手を引いて、森の奥の方を指さした。
「たっくん……あれ」
ひたすら黒い、夜の森の一点に、まるで赤色灯を灯したような真っ赤な光が見えた。
ゆらゆらと林冠の上で瞬きながら、黒煙を出している。
樹木が破裂する音が辺りに響き渡った。
「火……?」
「あの二人……逃げて来たんじゃ……」
「逃げるって、何から」
「わからない……でも」
木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び上がる。
そして、決定的な悲鳴が川上の方から夜空を突き破った。
ビクッと怯えた瀬名波さんが反射的に僕の背中に身を寄せた。頼られているのに、次にどうすればいいのかがわからない。
篠原くんのように手を取って逃げるか。
いや……。
「……ノリちゃん!」
瀬名波さんの声につられ、僕はキャンプのある方を見た。
火の手があがってる場所からは一キロくらいはある。
篠原くんたちがこっちに向かって走ってきたのだから、彼らを襲った何かが真っ先にキャンプに向こうことは考えにくい。
むしろ今ここにいることの方が危なかった。
「戻ろう」
ほとんど震えていたと思う。
けれど、瀬名波さんが江藤の身を案じてから、僕がそう言いだすまでは驚くほど早かった。
早すぎて、自分自身そんなことを口にした自分が信じられなかった。
けれど選択肢はなかった。
「戻ろう……みんなを起こさないと」
「……うん」
気付くと足のしびれが治っていた。
立ち上がって、はやる気持ちのまま岩場から飛び降りた。着地に失敗して尻もちをついてしまったが痛がってる暇はなかった。
僕の真似をした瀬名波さんの方がずっと上手く着地した。
運動部に所属しているのだから運動神経は彼女の方がいい。
「たっくん、大丈夫?」
「うん。行こう」
僕らは全力で砂浜を走り、江藤や屋島や時生先生たちのいるキャンプ地に戻った。
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