拓海千秋(2)回想:僕と彼女と彼女のこと
まずは僕の話からしよう。
拓海千秋(出席番号17番)はクラスで一番影が薄い生徒だ。
成績は中の下。
運動神経は悪いが特に笑いを誘うほどでもない。
クラスマッチはベンチが定位置。
席替えをすれば誰の視線にもぶつからない廊下側の真ん中。
特技もなければ、顔に印象的な特徴もない。
不良たちからいじめのターゲットにされるほど面白いリアクションも取れないし、女子に特別忌み嫌われることもない。
というか、影が薄い。
単に存在してないだけなのかも。
毎日はルーティンワークのように同じことの繰り返しだった。
厳しくない先生の授業では惰眠をむさぼり、昼休憩には逃げるように図書室に向かい、本を読み漁る。
そして、放課後になったら唯一この校内で僕にちょっかいを出してくる美術部の顧問に捕まって、二時間絵を手伝い、家路に着く。
でも、うんざりはしない。
退屈な日常だとも思わない。
自分で選んだ生活だ。
陰湿ないじめやパシリや友達だと思ってた人たちからの裏切りや、その他あらゆるトラブルを避けるために、自ら誰の気にも留まらないように生きてきた。
僕の通っていた安芸東高等学校はごくごく普通の共学の公立高校だった。
上は大学の推薦入試のためにあえてグレードを下げてきたという優等生から、下はそこそこ勉強ができるという不良まで。
文系も理系もギャルもオタクも体育会系も等しく机を並べ、等しく平凡な教師たちの平凡な授業を受けていた。
もちろん、人間関係まで等しく同等なわけはない。
スクールカーストとか、ピラミッドとかいろんな言い方があるけど、僕としては鳥の群れという表現が一番しっくりくる。
高く飛ぶ鳥は太陽の光を独占し、下を飛ぶ鳥たちに自らの大きな影をなげかける。
彼らは群れの空気を形作り、行く先を示す。
ほとんど無意識に、かつ暴力的に。
低く飛ぶ鳥は見下され、群れをはぐれた鳥は歯牙にも掛けられない。
ときどき運悪く『的』に選ばれ、上から糞や唾を吐き捨てられる鳥がいる。
それが必ずしも最下層を飛ぶ鳥とは限らない。
最上層を飛ぶ鳥でない限り、自分の上に他の鳥たちがいる限り、この気まぐれからは逃れえない。
嘲笑の声は太陽の光と同じくらいに眩しく標的となった鳥の心を焼く。
汚れた翼は徐々に弱り、身体は小さくなっていく。
助けてくれる鳥はいない。
風を受け飛び続けるには力がいる。
他の鳥に構っている余裕はない。
標的より低い場所を飛ぶ鳥たちは的に選ばれた惨めな鳥の影に隠れて、高く飛ぶ鳥たちの悪意をやり過ごす。
僕はもちろん、後者だった。
もっとも低い場所を飛ぶ鳥。
それゆえに一番高い場所を飛ぶ鳥からはまるで姿の見えない幽霊。
群れにとってはいてもいなくても同じ。
そんな存在……。
僕はそれで満足だった。
『的』にならないように自分から治まりに行ったポジションだ。
誰も気に留めなかったとしても、自ら望んだ結果だ。
僕の背中はとっくに中学のときに吐き捨てられた唾やクソの塊がこびりついていて醜い有様だったから、二度と誰かの気まぐれに翼を汚されないように、誰よりも極端に低く飛ぶ必要があった。
目論みは大方成功した。
高校の最初の一年は見事に唾の一滴さえ食らうことはなかった。
誰も僕の腹の色を知らないまま、背中のゴミさえ見ないまま、他の『的』に気を取られて一年を静かに終えてくれた。
この調子であと二年やり過ごせば、僕はこの処世術で先の人生も生き抜ける。
そんな風に思っていた。
けれど年が明けてしばらくしたころ。
僕は、たった一人でいい。
誰かの気に留まりたいと思うようになっていた。
「たっくん」
細い指が優しく手の甲をつつく。
机に突っ伏していた僕はゆっくり頭を持ち上げた。
それは一学期のはじめ。
地球の、日本の、片隅の、ありふれた四月の教室。
目の前に凛としたブレザーの華奢な背中があった。
結った黒髪から覗く白い首元。
彼女の横顔が一瞬だけ目に映るとまるで強迫観念に駆られるように僕はそれ以上のディティールを目に焼き付けることも適わず、傍目には無愛想を装って視線を逸らした。
「……お、おはよ」
「おはよう。うなされてたよ、ずっと」
「えっ……あ、あ」
「あまりいい夢じゃなかったみたいだね。はい、これ」
戸惑う僕に彼女が前から回ってきたプリントをくる。
プリントを受け取って視線を戻したときにはもう彼女は前に向き直っていた。
紺のブレザー服の襟と結った後ろ髪の間から綺麗なうなじが見える。
教室の真ん中。
出席番号順に並んだ前の席に彼女はいた。
瀬名波結依(出席番号16番)。
二年ではじめて同じクラスになった余所の町の美少女。
彼女が前の席ということだけで僕には十分だった。
いや、寝たふりをしてまで声をかけて貰おうとするのは、少しだけ十分でなくなっている証拠かもしれない。
でも、それが限界。僕にできる唯一の行為だ。
自分が良いと思っている女子は、他の男子からも良いと思われているもので特に彼女の場合隠れファンが多かった。
彼女の好みのタイプや過去に誰かと交際していたのかとか。
そういう噂はまったく耳にしない代わりに彼女を密かに思っているという男子の名前はフルネームで覚えているだけで三人。顔を覚えている程度でも五人はいた。幸いなのは誰も彼も僕のような大人しくて、悪く言えばネクラな受け身のプロフェッショナルばかりだったということだ。
一女子生徒を高値の花だと勝手に値踏みして受け身でいることをやめられない人種だ。
戦がはじまるのは当分先の話。
はじまるのかさえ怪しい。
どの道、今はここにいられる。
誰かを憎むこともなく、ここで彼女を見ていることができる。
付きあったりしたいわけじゃない。
僕じゃ絶対に釣り合わないってわかっている。
並び立って歩くのも滑稽だろう。
身の程は弁えている。
たださっきみたいに軽く挨拶を交わすだけでもよかった。
それだけでどんな嫌なことも忘れられる。
弱いものいじめをしてもっともらしい顔で弱肉強食を説く同級生や、見て見ぬふりをするために職員室にひきこもる教師たち。
徒党を組んでいないと何もできない体育教師たち。
継母や義理の妹のことや、ただ目が合っただけなのに『ストーカー』と罵って、僕の悪口を振りまいた女の子のこと。
そんな人生の負債が何もかも帳消しになるような光を俺は彼女の背中に感じていた。
「ねぇ、早くしてくんない」
後ろの席の女子に椅子を蹴りあげられて僕は一気に不愉快な現実に引き戻される。
振り向くまでもない。
蹴った相手はわかっている。
「ちょっと、早くしてよ」
「……」
彼女が要求しているのは担任が配ってるとある注意事項に関するプリントだ。
僕はそれを後ろに配る。
なるべく後ろの相手を見ないように。
目に入らないように。
あのギャル独特の細眉に睨みつけられたら、せっかく網膜に焼き付けた瀬名波結依の笑顔にノイズが走ってしまうような気がした。
立花柚(出席番号18番)。
小学校卒業と同時に僕が隣町に引っ越すまで一緒につるんでいた幼馴染の一人だ。
小学校のころは今よりずっと可愛くて愛嬌のある顔をしていたのに、中学三年間を経てどうやら派手好きな女子グループの一員になってしまったらしい。
髪は茶に染め、眉毛は手書き、手首にやたらとゴムを巻き付け、ぺちゃんこの学生鞄にはじゃらじゃらと奇天烈なキーホルダーがぶら下がっている。
きっと中に詰まっているのは教科書やノートじゃない。
化粧道具とプリクラ帳とスマホの充電器だけだ。
二枚目のプリントを後ろの机に置いた瞬間、僕の手が柚の筆箱にあたった。
喧しい音をたてて中身が床に散乱する。
「ったく、何してんのよ!」
柚が僕の椅子の足を蹴って、
「あんたも拾いなさいよ」
僕が落としたのは確かだ。
弁解もせず、僕は立ち上がった。
柚の怒声に驚いたのか。前の席の彼女が心配そうにこちらを見る。
視線を背中に感じつつ、僕はその場にしゃがみ込む。
と、下を見ていなかった僕は先にしゃがんでペンを拾っていた柚と額をぶつけてしまった。
「痛っ!」
ゴン、と鈍い音とともに僕は後ろに倒れた。
それを見てみんなが笑い出す。
当事者からしたらたまったものじゃない。
柚は顔を真っ赤にして怒った。
「もう、なんなの!」
それはこっちの台詞だ……なんて小学校の頃みたいに反論できるわけもなく、僕は下手な口論に陥らないよう、やっぱり自分から折れて素直に謝った。
「ごめん」
「…………もう、いい……自分でやる」
僕が謝ったことに、何故か柚は不満そうな顔をした。
唇を尖らせて。
余所余所しい態度が気に入らなかったのだろうか。
昔はよくつまらないことで口喧嘩したものだけど、中学が別々になってからは一度も顔を合わせたことはなくて、高校で久々の再会を果たしたのだ。
お互いのキャラも距離も以前とは全然変わってしまったのに、昔のように接することなどできるわけがない。いくら幼いころに野山を駆けまわった仲だといっても、今は今だ。ましてや三年も会わなければ他人も同然だ。
席に戻ると瀬名波結依がほんの少しだけ振り返って言った。
「大変だったね。大丈夫?」
どう答えたものか考えあぐねているうちに、彼女はまた前に向き直った。
ブレザーの凛とした背中に僕は彼女の純真さを見ていた。
安芸東高校二年八組の平和だった、それがおそらく最後の瞬間。
傷害事件やいじめ、不登校や自殺、その他あらゆる無邪気な悪意が夏の太陽に照らしだされ、溶けだすほんの少し前のこと。
僕らが異世界エアリースに迷いこむ、ほんの七か月前のことだ。
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