一章:異世界漂着

拓海千秋(1)漂着

 僕たち――安芸東高等学校二年八組の生徒三十八人と教師二人が、異世界エアリースに迷い込んだのは二〇一八年十一月のことだった。


 三泊四日の京都旅行。

 その帰り道。

 二年八組の生徒を乗せた観光バスは夜の高速道路で突然強烈な閃光に襲われて、ガードレールを突き破って高架下に落下した。

 旅の終わりを惜しむから騒ぎの車中は一転して悲鳴の坩堝と化した。

 そして、気が付くともう僕たちは『そこ』にいた。


「!」


 吐き出した息が無数の泡となって顔面を覆った。

 息苦しさでそこが水の中だとわかった。

 でもバスの中じゃない。

 僕たちは気付かぬうちにバスを飛び出して、水の中にいた。

 バスが水面に激突した瞬間のことも、社内が浸水するときの恐怖も、窓を蹴破って車内から逃げ出した本能も一切記憶にない。

 まるでガードレールを破ってからの数分間が断絶されてたみたいに、唐突に僕たちの身体は水中にあった。

 あまりのパニックで上も下もわからなかった。

 口から溢れだす泡だけが空気の在りかを教えてくれた。

 泡に導かれるように水面に出ると同じようにして水中から這い出た同級生たちの悲鳴で、水上が波立っていた。

 まるで映画の『タイタニック』みたいだった。


「おい、あれ!」


 誰かが叫ぶとみんな反射的にそっちを見た。

 島が見えた。

 ほんの数百メートル先に。

 暗闇の中に、一層黒く塗りつぶされた

 僕たちは我先にと泳いで、どうにか夜の浜辺に漂着した。


 男子十八人。女子二十人。教師二人。計四十人。

 みんな無事だった。


 軽傷すら負った生徒はなく、ほとんど奇跡と言える状況だった。

 ただバスの運転手や女性ガイドの安否だけがわからなかった。


「車内で溺死したんじゃねぇ」


 無責任にある男子が言った。

 とはいっても不思議なことに誰一人として水没した車内から自分たちが脱出したであろうことを覚えているものはいなかった。


『気付いたらもう海の中にいた』


 誰もがそう口を揃えた。

 海から這い上がったばかりでまだ誰も事態を正確に把握できてなかった。

 みんながみんな、同じ条件で同じ災難にあったというのに知るはずもない答えを求めて互いに疑問をぶつけ合った。


 山中の道路を走っていたはずのバスがなぜ海の中に落ちたのか。

 漂着したこの場所はいったいどこなのか。

 本州なのか、どこかの島なのか。

 そもそもバスはどこに消えたのか。


 僕たちが流れ着いた岸からは街の灯りはおろか、灯台や電線さえも見当たらなかった。 

 あるのは両側にどこまでも続く砂浜と鬱蒼と生い茂った森の入口だけ。

 しかも森の木々は日本じゃ見ないような太くて幹の曲がったものばかり。

 森の奥からは野生動物の不気味な声が聞こえた。

 どちらかといえば、南国の無人島のイメージに近かった。


 正確な位置を知ろうにも、僕たちの携帯電話は全部海水にやられて使い物にならなくなっていた。

 手荷物といえば財布や旅のしおりがせいぜいで、肝心の食べ物や着替えは全部バスの中だった。


 けれど、さほど不思議なことに悲観的なムードにはならなかった。

 すぐに助けがくるだろう、と誰かが言ったからだ。

 四十人全員が生き残っていることが楽観的なムードに拍車をかけた。

 一人や二人が遭難したくらいなら捜索を断念されたり、忘れられることもあるかもしれないけど四十人全員が遭難したのだ。

 諦めて放っておく大人たちがどこにいるだろうか。


 その楽観は確かに外れてなかった。


 誰も放っておかない。


 探しには来る。


 でも、それが僕たちの知っている世界と同様、『救助するために』来るとは限らない。

 漂流者がいつも善意ある人々に手を差し伸べてもらえるとは限らない。

 扱い方は流れ着いた島によって違う。

 僕たちの場合、流れ着いたのは「島」じゃなくて、「世界」だったわけだが。


「なに、あれ」


 とある女子の声に導かれるようにみんなが空を見上げた。


 月が、見えた。

 雲がかかってはいたけど柔らかな光は明らかに僕たちの知っている月だった。

 心なしかいつもより大きく見える。

 目を凝らすと右上に小さなコブのような光が見えた。

 それがもうひとつの月であるとわかったのは雲が過ぎたあとだった。


「月が……二つ、いや、三つ?」


 でも、女子が言ってたのは月のことじゃなかった。


「鳥の……群れ?」


 夜空を飛ぶ数十羽の鳥の群れが何かを恐れるようにバラバラに散った。

 両耳を劈く奇声とともに僕たちの頭上を黒く巨大な影がブンっと通り過ぎた。

 風が吹き荒れて、砂埃が舞う。

 浅瀬が波立ち、木々がざわめく。

 海岸をなぞるように飛んで行く謎の影。

 夜空に浮かぶそのシルエットは一見鳥のようにも見えた。でも、その大きさはとても普通の鳥のものとは思えなかった。


 もう一度確かめたい。

 声にならない声に応えるようにさっきと同じ奇声が僕たちの背後から迫った。


「また来――」


 予告は風に掻き消された。

 今度は二匹の影が僕たちの上を飛んで行った。

 蝙蝠のように禍々しい羽根に鷲のように鋭い爪を持った二本の足。

 風を撫でるように漂う大きな尾。

 二本の角の先、牙を蓄えた屈強な顎から真っ赤な炎が噴き出て、空を焦がした。

 間違いない。

 あのシルエットはどう見ても……。


「ドラゴン……」


 非現実的な響きに誰もが苦笑した。


「ま……まさか」

「じ、冗談きついぜ……」


 そうだ。

 なにかの見間違えに決まってる。

 ここはどこかの無人島でいずれ海上保安庁とか自衛隊だとかが助けに来てくれるはず。

 きっとさっきのは戦闘機かなにかで、ドラゴンなんかいるはずもない。

 飛び去って行く三つの影を見つめていると誰かが背後で呟いた。


「やった……ついに、辿りついた」


 僕は確かにそれを聞いた。


 誰の声かはわからなかった。


 いや、嘘だ。

 すぐにわかったはずだけど、忘れてしまっただけだ。

 今ではもう「思い出せない」だけだ。

 振り向いてその素顔を見たはずなのに、今では夜の闇に塗りつぶされたシルエットしかもう思い出せない。

 ただ覚えているのは、その声がぞっとするような喜びに満ちていたことだけ。

 子どもみたいに無邪気で壊れた声に聞こえたことだけ。

 もっとしっかりと覚えておけばよかった。

 心にとめておけばよかった。

 そうすれば、この後に降りかかるあらゆる出来事の濁流にのまれることなく心にとどめておくことができたはずだから。


 あの声が誰のものだったのか。


 それが今も思い出せない。

 男なのか、女なのか。

 わかっていることはただひとつ。

 その声の主こそ、僕たち――二年八組の面々をこの世界に送り込んだ張本人だということだ。


 それから半年。

 ときおり記憶の奥底から声をひっぱりだしてはあれが誰の声だったか。

 僕は必死に思いだそうと試みる。

 しかし、日に日にここに着いた当初の記憶は失われるばかりだ。

 見知らぬ世界に飛ばされたことへの戸惑いと恐れがあらゆる些末な記憶を遠くへ追いやって行った。


 無人島のサバイバル。

 仲間割れ。

 奴隷狩り。

 焼印。

 檻。

 淑女。

 兎。

 飛行船。

 サーカス。

 王都と女王。

 そして、大事な人の死……。


 すべてはこの事態を望んだものの手によって起こったといっても言い過ぎじゃない。


 異世界転移。


 馬鹿馬鹿しく摩耗しきった言葉の空々しさは、けれど僕たちの身の上に起った出来事を的確に安易に指し示していた。


 このとき僕らは、まだ自分たちの運命について知る由もなかった。


 この異世界――エアリースへの転移がある者の意思によって行われたこと。

 自分たち一人一人の存在がこの世界を一変させるものであること。

 それゆえに三十八人のクラスメイトが世界の覇権を巡るパワーゲームに巻き込まれていくこと……。


 これから語るのは、エアリースを舞台に繰り広げられる血なまぐさい覇権争いと、それを左右する力を与えられた三十八人の救世主セイバーズの生き残りをかけたパワーゲーム。回想か走馬灯かも知れぬ、二年八組三十八人の物語だ。


 星歴八三三八年 初夏月。

 安芸東高校二年八組生存者数・男子生徒十八人、女子生徒二十人、教師二人。

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