第80話 「神は言っている。ここで死ぬ運命ではないと」 閑話 「ルーネ・リカーシュ」

 『勇国』の第二王女である『アリア・アルレイン・ノート』という、俺にとっての不安要素が転入してきた翌日のこと。

 午前の講義を二つほど消化した俺には、ある一つの悩みが生まれていた。

「……ううむ。これは見られてるな? ノワール」

「ええ。相も変わらず『第二王女』様はご主人をガン見していますね」

「昨日の午後からはまったく感じなかったんだが……なんなんだろうな? 午前中の俺は何かあるのか?」

「やっぱり単純に、昨日の午後は気合ゲージが足りなかったんじゃないですかね?」

「その理論でいくと、俺は彼女と喧嘩することになるんだが」

 昨日と変わらずアホな持論を展開するノワールに対して適当に答えながら、俺はチラリと『第二王女』へと視線を向ける。

 ――瞬間。

「――っ!!」

 ゴンッ!!

「――っ!?!?」

 ……そこには、俺からの視線から必至に逃れようとした結果、机に顔面を強打した王女様の姿があった。

「……うわぁ、アレは痛そうだな」

 俺はそう呟き、王女様へと向けていた視線を自身の机の上に戻す。

 すると、それを契機として机の上の黒猫が声をかけてきた。

「ふむ。成る程。あれが昨日のご主人が言っていた行動ですか」

「ああ、そうだ。……なぁ、ノワール。割と真面目に聞きたいんだが、俺は顔面を机にぶつけてでも直視したくない面構えをしているのか?」

「んー? ……うわぁ、なんて切ない顔をしてるんですか、ご主人。珍しく本当に傷ついてるみたいだから、茶化さずに答えますけれど、そんなことはないと思いますよ?」

「……本当か? 気を使わなくても良いんだぞ?」

「必至過ぎますって、ご主人。そんなに心配しなくても、ご主人の顔面を見て私のSAN値が下がったことは有りませんよ」

「最低限のフォローを有難う、ノワール。……そうか。俺の顔はそんなに均整が取れてないのか……鬱だ……死のう……」

「いやいやいやいや、冗談ですよ、ご主人。大丈夫ですって」

「……ああ。一五年と四ヵ月と一六日か。――無駄に長生きしちまったぜ」

「……いや、その死んだ目は止めて下さいよ、ご主人。冗談が過ぎたのなら謝りますから」

「いやいや? 大丈夫だぜ? ノワール。次の俺はきっと完璧で幸福な市民として生まれ変わるから」

「……いやいや、本当にお願いですから、『シュミレーテッドリアリティー』と『パラノイア』の同時発狂とか止めて下さいよ。 一応、言っときますけど、この世界はゲームじゃないですからね? 死んだらそこでゲームオーバーですからね?」

「人生は神ゲーって、ばっちゃが言ってた」

「えっ? えっ? なんて?」

「ばっちゃが言ってた、ばっちゃが言ってた」

「ちょとまて、ちょとまてお兄さん。ばっちゃが言ってたってなんですのん? そんな言葉で軽く死ぬとか意味解らんから止めなっさーい」

 ……意外である。

 この猫、リズム漫才もイケたのか。

 まぁ、ラップにも即席でノってくるくらいだしな。

 案外、調子の良い奴である。

「……」

「……」

 俺が軽い驚きを持って、黙ってじっとノワールを見つめていると、ノワールは恥ずかしくなったのか、右前脚で顔を隠しながら言葉を紡いだ。

「……いやもう一応、言っときますけど、本当に止めて下さいね、ご主人? 貴方が死んだら私も死んでしまいますから」

 あ、話を戻した。

 今の流れを完全に無かったことにしようとしてるな、ノワールさん。

 まぁ、別に良いんだけどね。

「ああ、光を……もっと光を」

「ご主人。人はみんな『明日は月曜日』ってのは嫌なものなんだ。でも、必ず『楽しい土曜日がやってくる』って思って生きているんですよ? いつも月曜ってわけじゃないんですよ?」

「良い人だな……本当……あんたは。……俺は本当にツイてるよ」

「そうですよ。分かってくれましたか、ご主――」

「最後の最後に……人生の最後にこんなステキな人と逝けるなら寂しくないぜ」

「――なんて腐った邪悪の性根の持ち主なんですか!! 貴方って人は!!」

 そう言うと、ノワールがペシン、ペシンと尻尾をぶつけてきた。

 ……ん。

 もう、恥ずかしさからは立ち直ったみたいだな。

 ノワールの態度からそれを確認した俺は、少し話を変えることにする。

 実際、休み時間は無限ではないのだし、そろそろ実のある話もするべきだろう。

「そう言えば、ナギ君が休みだな、ノワール」

「……また、急ですね? ご主人」

 そう言いながら、ノワールと二人で窓際の席へと視線を向ける。

 そこにはいつも真面目な顔で教科書を開いている同級生の姿は無かった。

「……まぁ、流石に隣国の王族に殺意を見せたのですから、完全に御咎め無しとはいきませんよね」

「……だろうな」

 そう言いながら、俺は思い出す。

 いつもは他人には全く興味が無いとでも言いたげなナギ君が、新しくきた『第二王女』こと『アリア・アルレイン・ノート』が自己紹介を終えた瞬間に、ぼんくらな俺でも分かるほどの殺気を『第二王女』へと叩きつけた瞬間のことを。

 一応、担任であるトリスさんの取り成しでその場は収められたが、その後ナギ君はトリスさんへと呼び出され、結果的に自宅へと帰されている。

 彼とトリスさんの間でどういう会話があったのかは分からないが、聞いて面白い会話でないことは確かだろう。

「……もしかしたら、少なくとも『第二王女』が居る間は『ナギ君』は学校に来れないかもしれないな」

「……そうですね」

 そう会話してた時に、件くだんの担任であるトリスさんが教室へと入ってきた。

 いつもと変わらない口調で講義の開始を告げる彼からは、その心境を図ることは出来なかった。




 閑話 『ルーネ・リカーシュ』



 質素。

 そう言う言葉でしか形容できない程に、味気も、飾り気も、洒落っ気も何もない廊下を歩く二人の男女の姿があった。

 やがて、彼らは一つの扉の前でその歩みを止める。

 そして、男の方は流れるように懐から鍵を取り出すと、その扉の鍵穴に差し込んだ。

 そのまま彼は鍵を捻り、錠前を外し、扉を開く。

 扉の移動によって、男女の視界に入り込んだのは、『古びた』という形容詞がしっくりくるような時代を感じさせる本棚であった。

 重ねて、その棚に特筆すべき部分があるとするのなら、その身に収める本や資料も例外なく時代を帯びていることが分かる程に、一目で変色や劣化を見つけられるということだろうか。

「賢者様、どうぞ。こちらが三〇〇年前の魔王について纏めた資料室になります」

 そうして、その光景を自らの視界に収めた男は、開いた扉の前から退き、女性に道を譲るように言葉を紡いだ。

 それを受けて、女性は一歩部屋へと足を進めながら口を開く。

「うん。素早い対応、助かるよ。遠征から帰ってきたばかりなのに、無茶を言って悪いね」

「いえいえ。私のような塵芥が如き存在が『魔王討伐』を成し遂げた『生ける伝説』であります『賢者』様のお力に成れるなんて……誉ほまれでこそあれ、無茶などという事はありませぬ」

「ははは。少なくとも王の参謀として、『勇国』を支えている貴方に、塵芥なんて修辞が相応しいとは思えないけどね」

「賢者様にそう言って頂けるとは、感激至極に御座います」

「そう畏まらないで欲しいな。……そう言えば、これは興味であって、答えたくないのならそれでも良いんだけど、君の遠征って何処に行ってたんだい? 日数的にも結構遠い所だったみたいだったし、他の役人も詳しい場所は知らなかったようだけど」

「……故郷でございます」

「故郷? 君はこの国の生まれでは無いのかな?」

「ええ。物心ついた時にはもうこの『勇国』に在を置いています。……ただ、生まれ自体は別の場所でして」

「ふぅん? 楽しそうな話だね?」

「……賢者様のような方に気にかけて頂けるとは嬉しい限りですが、残念ながらこの話は聞かなかったことにして頂きたく思います」

「そうなのかい?」

「ええ。……実はその故郷なる場所は酷い田舎でして、人が行くような場所では無いんですよ。王の側近が斯様な田舎出身だという事が知れてしまえば、私はもとより、王の威信にまで傷が及び兼ねませんので」

「ああ、成る程ね。事情は理解したよ。興味本位で質問して悪かったね。僕は何も聞かなかったことにしておくから、安心して欲しい」

「有難う御座います」

「いや、本当に悪かったね。……さて、それじゃあ僕はそろそろ調べ物に移るとするよ。この資料室を出る時にまた君に声をかければ良いのかな?」

「ええ、それで構いません。では、ごゆるりと」

「あっと。忘れるところだった。悪いんだけど、あと一つだけ君に質問しても良いかな?」

「はい。私で宜しければなんなりとお申し付け下さい」

「それじゃあ、お言葉に甘えて――『第二王女』である『アリア・アルレイン・ノート』ってどんな子なんだい?」

「アリア様でございますか? ……そうですね。王族の教育として身分については些か過敏な所はありますが、一言で言うのならば『とてもお優しい方』だと思いますよ?」

「そうなのかい?」

「ええ。実際、数ヶ月前にも自分の命令に背いた一人の護衛に対して、『あんな平和な市場でいきなり殺気を感じるだなんて、貴方は疲れているに違いないわ。……しばらく私の護衛は良いから、庭師でもして休みなさいな』、なんてお言葉をかけていたくらいですから」

「……」

「まぁ、強いて難点を上げるとすれば、城の皆が可愛がり過ぎた所為で、欲しがればなんでも手に入ると思っている節があることでしょうか。特に可愛い物には歯止めが効かないんですよ」

「……そう……なのかい」

「ええ。……ですが、どうして賢者様がアリア様の事を?」

「ああ、いやホラ、あれだよ。……エルから色々聞いててさ。どんな子なのかなーってね」

「左様で御座いますか」

「うん。ホントに助かったよ、色々と有難うね」

「いえいえ。――僭越ながら、賢者様、私からも最後に一つだけお聞きしてもよろしいですか?」

「うん? そうだね。僕ばかり訊いてるのも変な話だし。良いよ」

「ご寛容に感謝いたします。……今回、改めて三〇〇年も前の『魔王』についてお調べになっているのは、どうしてでございましょうか? 失礼ながら彼の脅威はすでに取り払われたのでは?」

「……そうだね。それはその通りだ」

「では、何故?」

 そう言うと、男は女性をじっと見つめる。

 まるで観察するように、洞察するように。

「……確かに『魔王』は僕たちが倒したし、全身も消滅させた」

「……」

「けれど、また『魔王』の脅威が現れないとは限らない」

「……それはどういう意味で御座いますか?」

「僕たち『人類』は『魔王』がどうやって生まれたのかすら知らないだろう? それならまた『別の魔王』が出てくる可能性は0じゃない」

「……では次に現れるかもしれない『魔王』への対策の為、ということでしょうか?」

「そうだね。三〇〇年も前の資料とはいえ、参考になるかもしれないと思ってね」

「成る程……分かりました。では、私も雑務がありますので、これで失礼させて頂きます」

「うん。じゃあね」

 そんな女性の声を確認すると、男は身を翻し、廊下を引き返していった。

 女性はその遠ざかっていく彼の背中を見ていたが、彼の姿が廊下の闇に完全に飲まれた後、言葉を紡ぐ。

「しかし、まだ時期的には暑いと思うんだけど――あんな全身を黒い服で固めて、彼は平気なんだろうか?」


 その細やかな疑問に答えられる者は、もうこの場にはいなかった。


 

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