第5話


 

 

「……ところで、いつになったら名前を教えてくれるんだい、君」

 

 健一郎が神社に住み着いて一月が経った頃。


 すっかりここの生活に馴染んだ様子で、森から狩ってきた獣を捌きつつ、健一郎は頭上の元・神の少女に問うた。

 それは出会った初日にも訊いた事の筈なのだが、彼女は忘れたと言って健一郎の質問に答えるのを拒否したのだ。


 ……そう言えば、彼女はずっとあの鳥居の上定位置にしているが、何故だろうと彼は思ったが、直後にまあ恐らく人間と同じ高さで何かをやり取りするのが嫌なのだろう、と適当に憶測を付けた。


「だから、忘れているといっておろう。我を封印した不届き者どもはその際に我の名前を奪っていった。名は体を表すという言葉がある通り、神にも名は重要な意味を持つ。名を取り上げるのは力を削ぐのに最も簡単な方法の一つだ」


 自分の問いに対して律儀に答える少女。

 だいぶ素直になったな、と思いつつ、返答する。


「うん、それはそうなんだけどね。ほら、封印、解いてあげたじゃない? だからその内思い出すかなー、と」


 そんな訳があるか、と彼女は呆れて返した。


「……例えそうだとしても、神の名として奪われたのだ。魔性に堕ちた我には帰らぬ御名よ」

「そうか……」


 じゃあ、と白装束の青年は妖刀に肉を突き刺しながら何でもない事のように言った。

 


「自分で決めたらどうかな」

 


「――――」


 思わず唖然とする少女。

 健一郎はそんな彼女の様子に気づくことなく作業を続ける。


「名前っていうのは自己の存在を確立する上で最も重要な要素の一つだと思うよ。何せ、さっきも言ってたけど、封印の際に使われるくらいだ」

「……、」

「君の目的は人間への復讐かもしれないけど、それを成すのがただの復讐の塊じゃあ、ね。それを果たした時、君は消えてしまう」

「…………カ」


 自己の存在、というかなり核心的な事柄を突かれた彼女は、動揺を隠すように健一郎のその言葉にやせ我慢のような笑いを返す。


「カ、呵々! 何を言うかと思えば。世を焼いた後に我が消える?」


 ハッ、と彼女は嘲るように嗤い、空を見上げる。

 ――彼の言葉から逃げるように、天を見上げる。


「――それがどうした。我は元よりそのような存在。堕ちた神にして人間どもの世への復讐のみを目的とする魔性よ。いわば、生きた呪いのようなモノよな」


 呪いとは、目的を達したら祓われ、消えるものであろう――?


 彼女は気づいていなかった。


 自分の声も、鳥居の上で体を支える両手も震えている事に。

 無意識の内に、己が何かを決定的に恐れている事に。


「堕ちた神が目的を達せば、それで終わりだ。呪いに先は無い。そうであろう」

「……ああ。そうだね。――でも、君は違うと思う。呪いなんかじゃない。きちんと意思を持っている。違うかい?」

「……、」

「目的が人の世を、あまねくこの国に生きる人を全て滅ぼす事なのは、まあ、いい。僕は復讐自体を否定したりはしない」

「…………、」

「でも、もし君の存在が復讐のーー」

「――黙れ」


 それ以上は聞いていられなかった。


「……黙れ」


 彼女は猛然と赤い鳥居の上に立ち、下界の人間を睨みつけた。がん、自分の足元を蹴りつける。


「黙れ、黙れ黙れ黙れッ!! たかが退魔の刀を持つだけの人間風情が!! 堕ちたとはいえ、神にその存在を問うか!? 思い上がりも甚だしい!! その不敬、その傲慢、百度呪われようと償えぬ重罪と知れ!!!」


 神が吼える。


 仁王立ちする少女の紅の瞳に呪詛の代わりの炎が宿る。

 風が舞う。

 黒い巫女服が乱暴に嬲られ、翼のようにたなびいた。


 低い唸り声にも似た音と共に、空が渦巻き、寄り合い、逆巻き、――収束してゆく。


 地上に居る健一郎は、無表情のまま黙ってその様子を見上げていた。

 


 ――その態度が、彼女をますます激昂させてゆく。

 


 同時に、ある種の悲嘆のような不安も加速してゆく。

 自分が何に苛ついているかも分からず、少女は苦し気に顔を歪めた。


 その憤怒故か。

 或いは胸を掻きむしる何かしらに堪えられなくなったか。

 直後に、彼女は地上の男に宣言するように吼えた。

 


「――思い上がったな、人間!! その愚昧を恥じぬというならば、その大罪、死を以て贖うがいい!!」

 


 轟、と空全体に響くような音と共に、黒雲が急速に渦巻く。

 


 そして。

 


 神罰のように。

 巨大な鉄槌のように

 

 

 一面を焼き焦がすような雷が、天から地へと落ちた。

 


 

              ◆

 

 

 ――天からの裁きが落ちる。

 


 地表に、より厳密に言うならば彼女の立つ鳥居のすぐ側に居た健一郎の真上に落ちた雷は、轟音を伴った巨大な爆発を発生させた。


 光が草を焼き、木を燃やし、地表を抉る。

 爆風は暴風となって辺り一帯の全てに熱を届けた。

 発生した閃光によって、周囲一帯は真っ白に染まった。

 


 それは、時間にして一瞬の出来事だった。

 


「はぁーッ、はあーッ、……ぐ、うぅうううぅう……」

 

 もうもうと立ち込める煙を前にして、黒巫女の少女は辛うじて立っている鳥居の上で荒い息を吐き、苦し気に胸の辺りを抑えていた。


 今のは残存する魔性の力を現段階でのほぼ最大限にしたものだった。


 ほぼかつての神としての御業に等しい所業。

 その強大な力故、今の彼女にはかなり苦しい御業だった。


 だが、

 


「はあーっ、はあーッ! はあ、は、ぐう、ううぅう……くく、くくく、くははははははは!!」

 


 それがどうした、と彼女は高らかに笑う。

 笑う、嗤う、哂う。

 これで邪魔はいなくなった。

 あの自分をひたすらに苛つかせる男は消し飛んだ。


「そうだ、これでもう煩わしいモノは――」


 自分でそう口にした彼女ははっと気づき、顔を憎々し気に歪ませる。

 


 ――煩わしい、などと。

 ――それはつまり、彼の言葉が彼女にとって痛かったからであり。

 ――自分にとって影響を及ぼした事を、自分で認めてしまった。

 


「ぐ、うううぅううぅうう……」


 巫女服の胸の辺りを痛いほどに握りしめる少女。

 そして。

 そんな彼女にとどめを刺すように、声が生まれた。

 


「――本当は、分かってる筈だ」

 


 さあ、と吹いた風に、煙が晴れる。

 そこに立っていたのは、予想通りの姿。

 抉れた地面の中央、唯一草葉が残る地面に。

 


 ‪十時‬守ときがみ健一郎けんいちろうが、輝く妖刀を片手に、立っている。

 

 

 

              ◆

 

 

「ははは、凄い雷だったな、あれは。確かにあんなのが国中に落ちたら、焼き滅ぼせるだろうね」


 だけど、と健一郎は笑う。


「――君が教えてくれたんじゃないか。この刀は退魔の刀であり、魔性のモノをその刀身に封するものであると。ならば、魔性である君由来の力なら、刀身を掲げるだけで、防げるんだよ」

「…………どういう、意味だ」

「ん? いやだからね、この刀は――」

「……………………『本当は分かっている筈だ』――人間、貴様は先程そう、言ったな。不敬にも、不遜にも、我を諭したな。……だが、許す。その意味を、我に申してみせよ」


「素直じゃないな」と言ったら今度こそ殺されるな、と内心苦笑いを浮かべ、健一郎は彼女の言葉に応えた。


「別に、大したことじゃない。復讐だけに執着したら、それを果たした時にどうなるかって話さ」

「…………」

「成程、確かに君は堕ちた神で、人への怨嗟で生きてきた存在かもしれない。でも、呪いなんかじゃない」


 これまで一月も彼女と接してきたのだ。分からない筈もない。

 彼女には、

 

 意思がある。

 感情がある。

 思いがある。

 願いがある。

 


 ――何より、確固たる目的を持つ者を、どうしてただの呪いと言えようか。

 


「『復讐は虚しい』ーー月並みだ。そんなもの、誰にでも言える。でも、そんな訳がない」


 よっこらせ、と抉れ、焼けた地面の縁に腰かける健一郎。

 そして今までの一月で繰り返してきたように、赤い鳥居の上の彼女に視線を向ける。


「復讐という行動そのものは悪ではないと、僕は思う。たとえそこに人の死が伴っても、だ」

「……、」


 罪はあると思うけどね、と健一郎。

 黒巫女の神は、それを黙って聞いていた。


「例えば、前に進むため。例えば、心の決着を付けるため。復讐の先に、何かがあるならば、それも生き方の一つだ」

「…………、」

「では、なぜ復讐は虚しいと言われるのか。それは、復讐に生きた者が、みな口を揃えてそう言うからだ」

「――――」

「僕は、君の復讐を虚しいものにしたくはない。たとえこの国が終わろうとも、復讐の先に、君が歩む姿を見たいと思う」

「…………――――…………――――」


 風が吹く。

 鳥居の上で黙って立つ彼女の黒い裾が、揺らめくように舞った。

 その表情は、陽の光の陰になって、青年からは伺い知ることは出来ない。


「……とまあそんな訳で、どうかな。名前、付けてみないか? 考えるのはそれからでもいいだろ?」


 あえて軽い口調で、健一郎は黙り込んでしまった彼女に声をかけた。


「…………」


 やがて、彼女は静かに視線を上げた。

 彼女は意志のなさそうな瞳で健一郎をぼんやりと猊下し、そして黒い巫女服を翻し、空中に溶けるように消えた。

 身を隠したのだろう。


「――あれ」


 一人残された白装束の青年は困ったように頭を掻いた。


「参ったな、怒らせたかな……」


 だが、悪い感触では無かった、と彼は思う。

 もし本当に彼女が激怒していたのなら、今度こそ本当に天変地異の大災害によって健一郎は指一本残さずに消し飛ばされていただろう。


「ふう……危なかったな」


 まあ、そうならなかったのだから、良しとしよう、と健一郎は立ち上がった。


 ふと、もう一度鳥居を見上げて思う事がある。

 先ほどのように、彼女の顔が逆光で見えなかった時があった。


 そう、十日程前に、自分が『この刀を折れば目的は果たせるではないか』と、そんな事を言った時だ。

 言った直後、彼女は少し様子がおかしかった。


 あの時は月明かりだったが、あんな風に俯いて、顔が陰になってしまっているのは見たことが無かった。

 要するに、あの時彼女は想像してしまったのだろう。


 確かに‪十時‬守健一郎の妖刀を折れば、大量の怪異の力や慙愧、恨みなどが溢れ出、少なくともこの国は滅んだはずだ。

 そして、自分の力を使い切らない以上、あの黒巫女の少女の姿をした元・神が死ぬ事は無い。


 だから。

 だから、想像してしまったのだろう。

 


 全てが、この世に生きるあまねく人々全てが滅んだ後に自分が一人、目的もなく、意思も願いも祈りもなく、ただただ呆然と突っ立っている様子を――

 


 想像、出来てしまったのだろう。

 きっとそれが恐ろしくて、否、をこそ、怖れたのだ。

 

 その気になれば、きっとこの刀を折ることなど容易かったに違いない。

 だが、その先を恐れた。

 そして、怖れている自分が嫌だった。

 それ故に、自分の命と引き換えになるような滅ぼし方に拘ったのだろう。


 そうすれば。復讐の完遂と共に死ねたら、虚しさではなく達成感と共に死ぬ事が出来ると。そう、思ったのだろう。



 だが、そんな考えも、健一郎の先の台詞で台無しになってしまった。

 復讐のためだけに生き、死ぬ事は虚しいと断じられ、そして恐らくは納得してしまった彼女は、やはり怖くなったのだ。



「駄々をこねる子供か、あいつは……」



 やや呆れたような、でも少し嬉しそうな表情で彼は妖刀を鞘に納めた。


 どうやら、天上にあらせられる神様とやらも大変らしい。


 少なくとも、木っ端の人間に怖さから八つ当たりをしてそれが通じなくていじけて身を隠してしまう程度には。


「ま、そのうち出てくるか」


 もしかしたらかなり待つ事になるかもしれないけど、何、待つのは得意だ。気長にここでのんびりするとしよう――

 


「ところで、雷で焼かれた猪、これは食べられるのかな……?」

 


 

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