6.閉ざされた天空城

 誰もがC層へと急いでいた。

 この非情な図書館は、淡々とした音声で終わりへの秒読み《カウントダウン》を続けている。腕にはめたリングからは、怒号に近い台詞が絶え間なく聞こえてきた。これならまだ上から降りてくる死の宣告を聞いているほうがましかもしれない。

 リングから浮き出るホログラムに次々と赤い立ち入り禁止区域が増えて行く。ジュリアンの走っているすぐ後までそれは迫ってきていた。


 ちょうど午前の部が終わったころ。

 午後の部へ参加する人々も、とりあえずはC層に戻り、図書館が用意する軽食を腹に入れようとする時間だった。

 朝食べた盛りだくさんの朝食も、これまでの本探しの間に完全に消化されていた。だからジュリアンも腹ごしらえをと歩き出したところだった。突然鳴り響く警告音。リングから流れ出した悲鳴にも似た命。

「走って! C層へ急いで帰還してください! 緊急事態です! 書籍管理区域の酸素濃度が一パーセント以下になります!」

 大気には、本当に大まかに言うと窒素が八十パーセント、酸素が二十パーセント含まれる。他に二酸化炭素やもろもろがあるが、とりあえず多くかかわりがあるのはこの二つだ。人は酸素濃度が濃すぎても、薄すぎても心肺機能に異常が起こる。だが、酸素は本に問題点も多い。本の外敵である生物や、物が燃える際にも酸素が使われる。反対に言えば、酸素が無ければ書籍の耐久年数はぐっと上がる。人がいない時間、この図書館は窒素の海に満たされるそうだ。区画を小さく分け、窒素を充満させて行く。

 その機能が緊急事態とやらになり、働き出したらしい。

 そりゃまずいと走り出したはいいが、ジュリアンがいたのはB層の一番奥の部屋だった。効率によるものか、最短距離は魔導による仕切りで使えなくなっていた。脱出できる望みのある最短経路は、大外回りでそれは遠い道のりで、追いつかれるかもしれないものだ。だが四の五の言ってられない。

「B層二十三区画、遮断します」

 すぐ真横でしゅっと短い空気音がした。

「やばいやばい」

 あまりやばそうではない声で彼がつぶやく。

 しかし、次は残されたこの区画。出口へはあと少し。

「ジュリアンさん!」

 C層へと続く階段の前で、アリスがこちらへ手を伸ばしていた。

「B層二区画、遮断します」

 最後の距離を思い切りジャンプする。彼女の手がジュリアンのそれを掴み、さらに彼の身体は加速した。

 すぐ後でしゅっ、と音がした。C層へと降りる階段の手前でもつれあったまま、二人は後を見て安堵のため息をついた。

「ああ。これは失礼。いや、本当にありがとうございました」

 自分の体勢の拙さに気づいたジュリアンが、慌てて立ち上がり命の恩人に手を差し伸べる。アリスは少しだけ息を弾ませながら首を振り、彼の手を握った。

「いいえ、良かった。見殺しにしたとあってはセイラさんに叱られます」

「他に残っていた人々は?」

「ちょうどお昼の時間だったもので、ほとんどの人たちはC層へ降りるところだったんですよ。おかげでジュリアンさんが最後です」

 C層に降り立つと、そこにいた人々から歓喜の言葉が漏れる。特にこの図書館の司書たちは腰が抜けんばかりの勢いで、まだ若い女性の司書は、それこそ安心して膝をがくがくと揺らし崩れ落ちた。へたり込む彼女を側にいた男たちが支える。

「それで、いったい何があったんですか?」

 場が落ち着いたのを見計らい、ジュリアンがアリスに尋ねる。だが、彼女も首を左右へ振るだけだった。

「まだ何がなんだか。司書の方々が調べていらっしゃいます。もうじき今の状況説明もなされるでしょう」

 あと少しで死ぬところだったのだ。きっちりと説明してもらわないと困る。

「とにかく、紅茶を一杯いただきましょう。おなかも空いてらっしゃるなら準備してありますから食べておいた方が良いかもしれませんね。このあとどうなるかまったく分からないですから」

「外へ追い出されるだけじゃないんですか?」

 今は軽食よりもしっかりとディナーをいただきたい、そんな気分だったが、勧められるままに二人掛けのテーブルに腰を下ろすと、司書の一人が紅茶を運んできた。

 直前までの切迫した状態から解放され、暖かい湯気が心を落ち着ける。

 ジュリアンはその彼に食べるものも頼んだ。すぐにサンドウィッチを運んできてくれる。

「私も、あとは降りるだけと思っていたのだけれど、それがなかなか上手く行かないところ。どうやら外へ続く通路が断絶されてしまったようですわ」

「え?!」

 驚きに口元へ運んでいた途中のパンを落としてしまう。

 アリスはいたずらっぽい笑みを見せて肩をすくめた。

「陸の孤島ならぬ、空の孤島。確かにイーハーは島に見えなくもないですね。古典のあのガリバー旅行記。天空の城ラピュータ」

 楽しげなその言葉に応じて良いかどうか。その場にいる人々の顔色を見ると、やはり彼女の反応の方が少し、その、異常だ。

 ジュリアンの戸惑いに、アリスはさらに柔らかく微笑む。

「窮地に陥った時にこそ、その逼迫した状況を部下に知られてはならない。堂々と、構えていろと。父の言葉です」

「オブライエン将軍のですか……それは頼もしいですね」

「状況的に、もしかしたら私が陣頭指揮をとることになるかもしれませんからね」

「指揮を?」

 後は救助を待つだけではないか。確かに外からの通路は分断されてしまったようだが、緊急時の脱出経路等は確保されているはずだ。彼女よりも、普段からいる司書の方がそこら辺は詳しいはずだ。

 と、ここまで考えて、自分の大前提が間違っていることに気付いた。

 この空中に浮かぶ建物は、あくまで本を保管するための構造物。

 確かこの図書館が、図書館として人々を受け入れたのは二百年前。それ以降一度もこのような事態が起こったとは聞いていない。事前の下調べは完璧だ。そうなってくると人は過信する。もしもの事態など、この図書館では起こりうるはずがないと。やがては、緊急事態への対策等も忘れられて行く。

「まさか、最悪の事態ですか?」

「ええ。最低最悪の事態よ。どうやら建物内で火災が起こったらしいの。図書館は自閉モードへ移行した。一介の司書程度にどうこうできるような状況ではないみたい」

「自閉モードとは?」

「引きこもりモード? 図書館にしてみれば、仕方なしに本を読ませてやっているのに、恩を仇で返すようなことをした。ひどい! ってね。ようはすねてしまったの」

「拗ねるって、なんだか人間くさい建物ですね」

 ジュリアンの言葉に、アリスは意味深に口元を歪める。

「ジュリアンさんは、学校では良い生徒だったんでしょうね。教師が欲しがる言葉を的確に持ち出す」

「遠い昔のことで忘れてしまいましたが、いつも叱られていたように思います」

 アリスのような美人が教師だったら、それこそまたとんでもなく一生懸命になっただろうが。

 とまあ、そんなことはおいといて。

 アリスの欲しがる言葉。

 人間くさい……それは――。

「……MI? あの失われた魔導の?」

 思わず漏らした言葉に今度は彼女が驚きにカップを口元で止める。

「よくご存じね。ここ百年全く聞かない言葉なのに。それ以前にもともと世間一般には知られていなかった失敗作。本当に……良くご存じで」

 禁術である魔生生物は、動植物を元に魔導で新しい命を作り上げること。だが、この魔導生物は違う。無機物に魔導で考え方の基礎を植え付ける。それは次第に自分で様々な事柄から学び、成長し、与えられた仕事を円滑にこなせるように作り上げられてゆくのだ。

 ただ、その成長速度が著しく遅く、発案者がかなり苦心してその成長速度を速めるような手法を開発していたが、結局なされなかった。最初に作られたいくつかも、発案者が亡くなると同時に魔導の供給が絶たれ、消えてしまったと聞く。そう、動植物と違い、無機物を元とするこのMIには、定期的な魔導の供給が必要なのだ。

「や、一時期興味がありまして。結構調べたんですよ」

 永続的な魔導の供給と、長い年月があればなかなかに便利な物の一つだと思った覚えがある。だがそこが非現実的でもあった。この世界の中で、魔導を生み出すのは人である。それは絶対に変えられない事実。大きな動力源を生む魔導精製機も、最初に必ず人の魔導が加わる。

「しかし、徹底した本至上主義も、イーハーを司る機構がMIなら分かる気がします。まあ、成長過程で修正を入れていかねばならないでしょうが。そして、そうなるとまたやっかいですね。この不測の事態にMIがどう成長するか。予測が付かない」

「そう……一刻も早く脱出するのが良いと思います」

 だが、現実にはそうは上手く行かない。

 奥の扉が開かれ、口元に髭を蓄えた、いかにも一番偉いですといった司書がやってきた。皆の視線が彼に集まる。だが、それを避けるようにして、彼はアリスの元へ一直線にやってきた。

「申し訳ございませんが、少しよろしいでしょうか」

 アリスは穏やかな笑みで答え立ち上がる。

「もしよろしかったらジュリアンさんもいかが?」

「僕ですか? 良いのかなぁ」

「是非」

 司書長の意向を無視し、半ば強引にジュリアンを伴って行く。扉を閉める前に、彼はフロアで不安そうにしている人々に一礼した。

「状況の把握と復旧に全力を尽くしております。ご迷惑をおかけしますがこちらでもう少しお待ちください」

 質問させることを拒絶した彼は、その隙を与えることがないよう、扉を絶妙のタイミングで閉める。

 三人の靴音が廊下に響いた。スタッフオンリーの扉のこちら側は、どうやらコントロールルームだけではなく司書たちの泊まり込みの際のプライベートルームへも続いているようだった。

「最後のランナーの方ですね。ご無事で良かったです」

「本当に」

 としか答えようがない。

「どのような状況なのかしら?」

「それが――イーハーは沈黙を守っています」

「無反応だと?」

「いえ、いつも通りと言った方が正確です。普段の夜のイーハー通り。ただ、実は問題がもう一つありまして。それについては私の方ではもうどうしようもないのです。ご迷惑かとは思いますが、この図書館への最大出資国であるガードラントの、貴方に、捜査権をお渡ししたいと思うのです」

 早歩きで進んでいたアリスは、歩調を緩めることなく、でも声には困惑した色が乗る。

「捜査権?」

「……着きました。モニタールームになります。ここで全ての場所を映像で管理しております」

 本来は、勝手に本を持ち出したり何か不正を働かないよう見張る場所である。部屋の中には男が二人。

「ルーニー司書長……」

「どうだ? 何か変化はないか?」

 二人とも心なし顔色が悪い。壁一面にある映像は、大体5秒間隔で画面を切り替えていた。だが、その中に一つだけずっと変わらないものがある。

「死んでる?」

 ジュリアンの呟きに、ルーニーと呼ばれた髭の男がそうだと頷いた。

「逃げ遅れたのですか?」

 全員助かったと聞いていたのに。

「それは違いますね。窒息死したようには見えないわ。現在の大気中酸素濃度は一パーセント以下。もし彼が窒息死したのならば、もっと顔面から血の気が引いているはず。それだけの低酸素状態になれば、暴れる暇なんてなく昏睡状態。けれど、この映像で見る限り赤黒く……喉には爪で引っ掻いた後も? 毒、かしら」

 死体を前に臆することのない女性もなかなかに珍しい。画像から分かる情報を次々に並べて行く。

「そうです。彼はこうなる前に死んでいた。このイーハーで自殺する理由などないでしょう……殺人事件ですよ」

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