5.契約と新たな異変

 状況は至ってシンプル。

 扉の前には護衛が二人。一人はヴェステルス男爵に雇われて半年になる三十代前半の男。護衛というだけあって胸板が厚く、日ごろから鍛錬をおしまず職務に忠実な印象を受ける。事実、今まで雇っていた護衛の中でも一番長く続いていた人物だった。それも今日でおしまいとなったが。

 もう一人はこのガベリアの警察官でもある男。三十代後半で、体つきはがっしりとしているが、精気がない。ようは、普段の職務でよれよれになっているところへヴェステルス男爵がやってきて、そのお供が一人しかいなかったため、夜勤明けに無理やり護衛に担ぎ出された不幸な人だ。極め付けに護衛対象が死亡。踏んだりけったりとはこのことで、そんな顔を隠そうとはしていない。

「ふむふむ、それでそれで?」

「……部外者はあちらで待っていてもらえませんか?」

 個室の入り口横で、再確認のための会話を足元で聞く少女に、ラッシュ警部は冷静に、丁寧に対応したつもりだった。

「いやよぅ。気になっちゃうものー。それに、私は部外者じゃなくて、スポンサー。でしょ?」

 にっこりと笑う姿があまりにも可愛らしくこちらもつられて笑ってしまいそうになるが、慌てて口元を引き締める。

「だめです。あちらで指紋採取と事情聴取にご協力ください」

「それはクライドがやってるもん」

「いけません!」

 厳しいラッシュの言い方に、セイラはほほをぷっくりと膨らませて、後を振り返った。

「クライド!」

 彼女の一声に、従者は飛んでやってくる。

「どうかいたしましたか?」

「あのね、私また失敗するところだったわ。さっきの口約束、きっちり書面に起こしましょう」

「ああ、そうですね。すぐ契約書をお作りします」

 言うが早いか、彼は大きな鞄の中から上質な羊皮紙を取り出し、隙のない飾り書体で契約書を綴っていく。

「条件入れておいて、見返りとして、私に捜査情報をあますところなく報告すると」

「了解いたしました」

「ちょっとまて!!!」

 さらりと付け加えられたものに、ラッシュは声を荒げた。

「あら、何かしら?」

「さっきはそんな条件一言も言ってなかったろう!」

「嫌だわ、警部さんともあろうお方が、こんな小娘との口約束書面もなしで信じるとおっしゃるの? 私が最後にやっぱりお金は払いませんわと一言告げるだけで、いったいどんなことになるかしら……まあ、最後じゃなくてもいいんですのよ? 今、はっきりとここで言ったら、どうなるかしら?」

 脅しだ、それは。とラッシュはうめくようにつぶやくが、いまさら後の祭りである。今大人しく事情聴取を受けている彼らは、セイラが予約代を全て立て替えるからという条件であそこにいるのだ。

「さあ、どうなさいます? イエス? ノー?」

 紙もペンも魔導仕立てだ。名前を記しただけで弁護士を立てて契約を交わしたことと同義になる。

 自分の判断でイエスと書けば、必ずや厳しい処置が取られるだろう――全て終わったあとで。上の連中など、其の程度の輩たちだ。

「まあまあ、警部さん。そんなに肩を落とさないで? ほらここの、私の名前をごらんになって。この契約絶対貴方にとってもマイナスではないと思うの」

 セイラが耳元でそんな風に囁き、つられて彼女の指す先を見た。そこに書かれている名前。いや、ファミリーネームに見覚えがある……どころではない。改めて契約書を見直す。最後に、大国ガードラントの紋章がしっかりと押されていた。

「まあ、騒ぎ立てられても困るから。とりあえず今は私と警部の秘密ってことで。絶対貴方の迷惑にはならないようにするから、ね」

 ねっ、と言ったところでにこりと笑う。今度はラッシュもにこりと返した。

 確かに捜査状況を全て教えるのは問題が多いだろうが、これならなんとかなりそうである。

 こんな契約結ばないに越したことはないが、今は名前をつづるのが最善の策だろう。なんたって警察が金を出すことはないだろうから。

 フルネームを書き終えると、彼の部下たちが大きくため息をついていた。

 ラッシュはそれなりに慕われていた人物で、だからこれによって首になるであろう未来を予想したための嘆きである。

 契約書は一度光り、そして二枚に分かれる。

「はい、こちらは貴方が保管してね」

「了解」

「それじゃ、続きといきましょうか」

 語尾にハートが飛びそうな調子でセイラは今度はしっかりと椅子に座った。その横にはクライドが当然といった顔で立っている。

 と、そこへ大きな地鳴りがした。それは断続的に五回。人々は顔を見合わせ、揺れが収まった頃、窓辺にいた一人が声を上げる。

「イーハーが!」

 今まで虹色に光っていた空中図書館が、周囲をぐるりとめぐるリングチューブの内側で真っ黒く塗りつぶされていた。確かにもとより色は黒く、その表面は光沢があり、太陽の光にてらてらと輝いていた。

 だが、今のイーハーは違う。そこには、完全に輝きを失った黒があるのみであった。また、普段はリングチューブから伸びている四つの図書館へと繋がる通路が見えるのに、今はそれが完全に失われていた。

「どうしたのよ!」

 あそこにはアリスがいる。

 セイラも不安に眉をひそめながらポツリとつぶやいた。クライドも同様に不安そうに空を見上げる。

 と、道を怒鳴りながら走る男があった。彼の言葉をみなが聞く。

「イーハーが、緊急非常事態体制になったぞっ!!」

 それは、物語の第二幕を上げる、始まりの合図だった

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