3.ジュリアンとアリス

 フロアBをふらふらと徘徊する。五段ぐらいの小さな階段があちこちに設けられており、少し上がってはまた降りて、高いところにある本は長いはしごを使って取りに行く。改装に改装を重ねた結果、小さな階段があちこちにみられる、このような作りになったのだろうと推測する。まるで、人間を疲れさせ、本を読む気力を無くすように仕向けているようにも思えた。

 フロアBにはさほど珍しい本はなかった。どの国でも普通に読まれ、置いてあるような当り障りのない物ばかり。ただ、専門書となると、世界で一つしかないとか、稀少本で現在読むことのできる唯一の本などがあり、そういった本に群がる人間もいた。宗教のコーナーなどに行くと、普段は宗派が違い、決して読めないようなものが揃って並んでいる。どこでどう手に入れたのか分からない門外不出の聖典の写しすらある始末。

「う~ん……無駄に職業病が出てしまいそうだ」

 物騒なことを呟くジュリアンの耳に鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。いつの間にか真後ろに、あのすみれ色の瞳がある。

「気配を消して立つとは趣味が悪いです」

 あのオブライエン将軍の愛娘、アリスもまた武人だった。将軍がその勇猛果敢さで名を馳せているとしたら、彼女はその冴えわたる知略によって軍を支えていた。とは言え剣技が人より劣るわけでもない。彼女の技は氷上の華と賞されるほど冷徹で容赦なく、踊っているようだとさえ言われる。

 そんな人間に後ろを取られ、ぞっとしないわけがない。

「すみません」

「勘弁してください」

 本当に困った表情のジュリアンに彼女は再び小さく笑った。

「ジュリアン殿はここへは何をしにいらしたのですか?」

 かしこまった口調に彼は首を横に振った。茶色の髪がふわりと揺れる。

「やめてください。僕はたかが一市民です。貴方ほどの地位のあるお方にそんな風に呼ばれるいわれはありません。ジュリアンと呼び捨ててください」

 アリスは瞳だけ上に向けると少し考えるような仕草をして頷いた。

「分かりました。それでは私のことも」

 呼び捨てでいいのか、と少し期待する。

「アリスさんと呼んでください。私もジュリアンさんとお呼びします」

 世の中そう甘くはない。

 しかし考えてみると彼女は娘のこともセイラさんと呼ぶ。ということは彼女にとって最上級の親愛の印とも取れる。

 そう、自分に言い聞かせておくことにした。

「それで、ジュリアンさんはこちらへ何の本を探しにこられたんですか?」

「……僕の職業はご存知で?」

「ええ、表の顔は歴史学者だと」

 そう、表の顔は歴史学者だ。

 名乗り上げる通り彼は確かに土地についてかなり詳しい。色々と調べることも好きだった。

 しかし、アリスが含みを持たせている。表の顔は、と。

「僕の友人に魔導に長けたやつがいましてね、いつももう一つの仕事の時に手伝ってもらっているんです。その彼が今研究している魔導が後一歩のところで詰まってしまったそうで。そのきっかけとなる本がここにあるらしいんです」

「……それを、盗って来いと?」

 彼女の顔から笑みが消え、辺りの空気は氷上の華を中心に温度を下げた。

 その真剣さに慌てて否定する。

「まさか、この空中要塞であるイーハーからですか? さすがの僕でもかなり難しいですよ。友達があまりうろうろできないやつなんでね、僕が変わりに覚えて帰ろうといったわけです」

 ジュリアンの答えに、彼女はああ、と言って頷いた。

 納得してもらったところで今度はこちらが質問する。

「アリスさんは?」

「セイラさんに小さいころに何度も読んであげた本があるのですけれど、いつの間にか無くなってしまって。ここでなら見つかるかと思ったのですが、反対にあまりに多すぎて見つけだすのが大変で……」

「作者か、題名は覚えていないのですか?」

 アリスは肩をすくめる。

「おぼろげな内容しか覚えていないので、絞り込み検索しても百冊ほどありますね。まあ、時間はありますし、気長に探します」

 セイラとクライドがやってくるのは夕方の便。確かにそれまでは十分時間がある。そして、時間を持て余しているはジュリアンも同じだった。

「では、本探しのお手伝いをしましょう。一人よりも二人の方が能率が上がる」

「いえ、それはお気の毒ですわ。せっかくのイーハーですもの。ご自分の時間を有効にお使いください。お友達の本もですが、ご自分の興味ある分野もあるのでしょう?」

 そんな彼女の言葉に彼はにこりと笑って首を振る。

「イーハーにある本で、興味ある分野のものはほとんど読んでしまっているのです。友人の本は十分あれば事足りるし、時間はあまりに余っているのですよ。是非お手伝いさせてください」

 彼の台詞にきょとんとした表情を作ったアリスだが、次の瞬間口元に手を当て微笑んだ。

 イーハーの蔵書はたとえ一分野としても、一人の人間が一生かかって読み尽くせないほどのものだ。彼なりの気遣いなのだろうがそれにしはあまりに法螺が過ぎる。

「それでは、お願いしようかしら」

「ええ、喜んで」

 その人のよさそうな笑顔に、皆が彼の裏に潜む顔を忘れてしまいそうになる。

「それで、いったいどんな内容なのですか?」

 ジュリアンが問うと、彼女は検索してもらったと言うリストを取り出した。腕にはめたリングから、立体画像ホログラムが立ち上がる。

「絵本にしてはなかなか厚く、内容も変わったものだったんですけれど、一人の少年が新しい国を作り出すと言ったものでした。物語の中には彼に助言する魔法使いが出てくるんです。少年が、人々が水を欲しているというと、魔法使いがここに井戸を掘れと教える。食料が足りないと言うと、この土地にはこの作物を植えなさいと言う。そうやって魔法使いの言葉に従って少年はやがて指導者と呼ばれるようになる。しかし、そこで少年は最初のころに持っていた感謝の気持ちを忘れてしまうんです。ただ、最後どうなるのか忘れてしまって。セイラさんはこのお話を読んであげるたびに泣いてました。魔法使いがかわいそうって。それを一生懸命慰めているのは覚えてるのですが……」

「あまり、聞いたことのない物語ですね。なんだか子供に読み聞かせるには向かないような」

 もっと楽しく面白い話があっただろうに、なぜ最後にセイラが泣いてしまうような本を選んだのか。

「ええ。ただ、私が忘れてしまっている終わりに何かあったんだと思います。セイラさんは魔法使いがとても気に入っていたようで、結局泣いてしまうのですけれど何度も読んでくれとせがんでいました。ガードラントの蔵書にあったものなのですが、いつのまにか消えてしまって。管理体制がなっていないといわれればそれまでなのですけれど」

「ガードラントの蔵書ですか。興味深いですね。“混沌と浄化の節”以前のものがだいぶ復刻されたそうじゃないですか」

 この世界に何かが起こった瞬間。人はその瞬間を“混沌と浄化の節”と呼ぶ。おおよそ三百年前と推定されるそれ以前のこの世界の歴史はまったく知られていなかった。それが、近頃“混沌と浄化の節”以前の書物が大量に、しかも今までにない良好な状態で見つかった。復刻魔法を駆使してその時代を研究しようとしている。

 その瞬間以前の書物を古典と呼び、その一部分野を愛読していたジュリアンはこのたびの大量復刻が市井に出回るのを楽しみに待っていた。

「復刻魔導を使える者は、案外数が少ないですからね。悲鳴をあげて頑張っているようですよ」

「やー、うらやましいなぁ。確かに大変な仕事でしょうが、一番に目を通すことができるんですからね」

「ジュリアンさんは魔導は?」

「いや、まったく全然使えないんです、これが」

「あら、そうなんですか」

 意外だと二つの瞳が驚きを湛える。

「まあ、いろいろ企業秘密はありますけどね」

 盗賊王はそう言ってこの話を打ち切った。

「で、そのリストからすると結構あちこちに分布しているようですね」

「ええ、ほとんどフロアBではあるんですけれどね」

「まずはそのリストを僕の方でもいただきましょう」

 自分のリングを彼女のそれに近づけ、情報を読み取る。

「それでは、僕は東側から探してみましょう。先ほどのお話に多くかぶる部分があればチェックを入れます」

「よろしくお願いします」

 にこりと笑って背を向け歩き出す。

 ジュリアンも自分の担当区画へと足を向けた。

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