第94話

 雲甲斐の放った銃弾は、道長の腹を貫いた。

「道長様っ!!」

 それを見た香絵の中で、何かが弾けた。

 月の天使がこの地で、自分の魂で、記憶の箱を作り、鍵を掛けたもの。歴代の巫子達が心の奥底に封印し続けたもの。決して解き放ってはならないと、深く深くしまい込み、忘れ去られていたもの。

 その封印が今、香絵の中で解き放たれ、香絵の心を支配してゆく。

 地から風が吹き上げ、香絵の髪と衣が舞い踊る。身体からまばゆい光を発し、背中に翼が現われる。空色の透けた翼。

『かわいそうな人。愛を知らないあなたは、愛の恐ろしさも知らないのですね。』

 香絵の変貌に驚異の目を向ける雲甲斐。その頭の中に声が響く。それは確かに香絵の方から聞こえる。が、香絵のそれではない。

『わたくしが本当に封印したかったもの。それは、愛が哀しみに変わる時に生まれる、憎しみの能力ちから。あなたは今、その能力を解き放ってしまった。』

 香絵を取り囲む風が渦を巻き、広がってゆく。敵も味方も次々と巻き込まれ、宙を飛び、地面に叩きつけられる。悲鳴と呻きが辺りを埋め尽くす。

「ゆ、許してくれ・・・。」

 恐怖にその場を動くことも出来ない雲甲斐を、香絵は冷たく見据える。

「許せない。あなただけは。」

 香絵の周りで何度も空気が渦巻き、香絵の髪を乱す。香絵が体内に能力を溜めてゆく。



 道長は薄れようとする意識を必死に呼び止め、香絵を見ていた。

『駄目だ。香絵。それ以上は・・・。』

「香・・・ぅ・・・」

 声を出そうとすると頭の先まで痛みが走る。腹に力が入り、鮮血が散る。


「死になさい。」

 香絵の頬に薄い微笑が浮かぶ。恐れる雲甲斐に死を与えることを楽しんでいるように。


『香絵。頼む。止めてくれ・・・・・・・・・。』

 遠ざかる意識にずるりと落ちた道長の手先が、小川の水に触れた。再び意識を手繰り寄せ、痛みに耐え、水を手に掬い、投げる!

 しかし道長の想いも空しく、水のたまは届かない。地へ落ちる。かに見えた。が、再び宙を飛ぶ。届くはずのない距離を、弧を描き、引かれるように香絵の方へ。


 ぴしゃっ。

 香絵が能力を放出する直前、頬で水が砕け、目の前に散らばる。

『しっかりしなさい!我が子よ。』

 一瞬目標を見失った香絵の心で、誰かが言った。

『もうあなたの身体も精神こころも限界です。残りの能力をそんなことに使い果たして良いのですか?』

 真っ白になった頭の中に、声が響く。

『あなたの大切なものは何?今本当にしなければならない事は、何?』

 考えることを止めてしまったままの香絵が、ゆっくり視線だけを巡らせた。感情の抜け落ちたその茶色い瞳に移ったのは・・・!

「・・・道長様・・・・・・!!」

 開き切っていた瞳孔に焦点が戻り、香絵は正気に返った。


 背の翼を羽ばたかせるようにして、血塗れで倒れている道長へ駆け寄る。

「道長様!」

 抱き起こすが、すでに意識は無い。

「道長様!道長様っ!」

 返事の無い道長の身体にすがりついた。

「嫌です。死なないで・・・。道長様!!」

 香絵の身体が熱を帯び、淡く輝きを放ち始める。

 頭の中にまた声が響いた。

『これ以上能力を使うと、あなたの限界を越えるかも知れませんよ。』

「構わない!わたしの命に替えても道長様は、道長様だけは死なせない!」

 いつもいつも護ってもらった。何度もたすけてもらった。いつだって護られてばかりで、何もしてあげられなかった。

 護ってあげたいと思った。いつかは自分が道長を護る。そう思った。

 でも、出来なかった。護れなかった。護りきれなかった。だから、

「せめて命だけは!必ず救けます。必ず!」

『わかりました。』

 香絵の身体を包む輝きから、もう一つの輝きが生まれ出た。香絵と向かい合い、人の形となる。

「月の・・・天使様・・・?」

「わたくしも能力を貸しましょう。」

 天使が二人を抱え、包み込む。輝きが増し、辺りは光に包まれ、真っ白となった。

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