第91話
次の日は皆ゆっくりと過ごした。香絵の体調もすこぶる良く、明日天使の地へ赴くことが決定した。
そしてその夜、紫紺が道長の部屋へ伝言を持って来た。
「香絵様が今夜はどうしても御自分の家へ泊まりたいとおっしゃっています。」
「家?裏山の?」
「はい。巫子様が、どなたかと一緒ならば、と許可したそうで・・・。香絵様は先に裏山に行っています。あなたを呼んできて欲しいと頼まれました。」
「そうか。わかった。」
剣を取り、部屋を出る前に、道長は紫紺を顧みる。
「紫紺殿。あなたはそれでよいのですか?私が香絵の家へ泊まっても?」
『はあ。まったくあなたがたおふたりは・・・。』
道長への伝言を頼む香絵といい、直接こんなことを訊ねる道長といい、もう少し紫紺の心情を忖度してもらいたいものだと呆れながら、それでも香絵至上主義は不変なのだと返答する。
「香絵様が望んでいますので。それに、私には仕事があります。明日館を留守にするので、しておくことが山積みです。こんなおいしい役、あなたに譲りたくはないのですが、仕方ありません。」
「それは残念。では、このおいしい役は私が頂きましょう。」
紫紺を残し、道長は部屋を出た。
あの日のような迷いはもう無い。香絵が選ぶのが道長ならば、よろこんでそれに応える。この存在のすべてで。
一度だけ香絵と――紫紺もいたけど――来た道を辿ってやってきた裏山の家。上方が三分の一くらい見えない月は十分明るく足下を照らす。
道長は入り口のドアを叩く。
「香絵?」
返事がない。ドアを開け、
「香絵?」
やはり返事がない。
『いない?いや、そんなはずは・・・。』
「ま・・・さか・・・。」
道長の心臓が凍りつく。
「香絵!」
「はーい。」
家の裏手から暢気な声がして、香絵が姿を現わした。道長は胸を撫で下ろす。
「脅かすな。またいなくなったのかと思った。」
「庭の花達が元気か、見に行っていたのです。もしかしたら、このままお別れかもしれないし。」
徹元は、現地から直接遠賀へ帰るよう、香絵にも伝えていたようだ。
「外にいては危ないだろう。」
道長の中に香絵のいなかった日々の不安が蘇えり、少し手荒に香絵を家の中へ引っ張った。
「大丈夫です。お婆々様が警護の人を増やしてくださっています。」
そんなもの、どれほどあてにならないか。身をもって知っているだろうに。
「まったく気楽なお姫様だ。」
呆れるほど無邪気で無防備な香絵の頭を、くしゃくしゃっと撫でた。
香絵は夜が更けても、家の中を何かしら忙しく動き回っていた。
今のところ体調が悪そうな様子はない。黄暢でもちゃんと食事は摂っていたようだし、環境の変化や睡眠不足から少し体重は落ちていたが病気を心配するほどでもない。
だが、明日は遠出の予定で、成り行きによってはそのまま遠賀へ向かうかもしれない。道長としては、しっかり体調を整えて、当日に臨んで欲しい。
「香絵。ちゃんと休まないと、体調を崩すぞ。」
「はい。そうなのですけど・・・。」
明日出掛けると、またいつ帰ってこられるのか分からない。あれもしておきたいし、これも片付けたい。あと、あそこのアレと、あっちのコレと・・・。
「ほら、いい加減にしなさい。」
なかなか休もうとしない香絵にしびれをきらした道長が、ベッドの上から側を通りかかった香絵の手を引いた。急に引かれて平衡を失った香絵が道長の上に倒れ込む。そこで、香絵はこの家にベッドが一つしかないことに気付いた。
「いけない。道長様のお布団を運んでこなくては。」
起き上がろうとした香絵を、腰に回した手で止める。
「いいよ。ここで一緒に休もう。」
道長は真摯な眼差しで香絵の
「香絵。そなたを抱いてもよいか?」
「ぇ?いつも強引な道長様が、そんなことお尋ねになるなんて。」
「ここは、この国は香絵の領域だ。香絵はここに私の思い出を持たない。私はここで香絵の中に私を残しておきたい。香絵の縄張りに、私のものだと、印を残したいのだ。」
「おかしなことを。わたしはどこにいても道長様のものです。遠賀でも都紀でも変わりはありません。道長様がわたしを抱きたいと思う時、わたしはいつだって道長様に抱かれたいと思っています。」
答える香絵の頬は桃色に染まる。こんな問答にも羞恥する初心な所が堪らなく可愛い、と胸に抱き寄せ、道長は部屋の灯かりを消した。
さっきまで窓から部屋をのぞいていた二十日目の月は、今は雲に邪魔をされ、二人の姿は闇に隠れた。
明け鶏に覚醒の兆しもまだ見られない時刻。香絵ははっと目を覚ました。夢を見ていた。血に染まった道長と、体から光を放つ月の天使。
ここは巫子の
『そういえば、この国へ入ってから、道長様と抱き合ったのは今宵が初めて。』
予感が不安を呼ぶ。
『巫子と交わった者には死が与えられる。』
蒼く輝く月に照らされ蒼ざめた顔で、香絵は横で眠る道長を眺めた。
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