第89話

 香絵が昼の食事を摂っていると、何やら宮中が騒がしい。

 夢路が慌てた様子でやって来た。

「香絵様、逃げましょう。」


 それを聞いて驚いたのは牢番の男。

「夢路様、何を言って・・・。」

 近づいてきた牢番に、夢路は素早く懐剣を突きつけた。

「お父様に罰を受けるのが怖い?それならわたくしが、今ここで殺してあげましょうか?」

 黙って二人を逃がしたら、雲甲斐に殺される。しかし、ここで争って夢路に怪我をさせても、やはり雲甲斐に殺されるだろう。どちらもごめんだが、牢番には避けるための手段も思いつかない。

「先程から宮中が騒いでいるのに、気が付いてないの?耳を澄ませてよく聞いて。」

 夢路に言われて牢番が耳をそばだてると、通路を人々が何か叫びながら走っている。

『危険?爆発・・・?』

「分かった?何者かが王宮に爆弾を仕掛けたのですって。ほら、早く鍵を渡して、あなたもお逃げなさい。」

 好都合な頃合いで、誰かがすぐ前の通路を「爆発するぞ。王宮が崩れる。早く逃げろ!」と叫びながら逃げて行く。

「ひょぇ!」牢番は慌てて鍵を放り投げると、出口に向かって一目散に逃げ出した。

 床へ落ちた鍵を拾って「備品は丁寧に扱ってよね。」と一言ぼやき、夢路が格子戸を開けた。


「さ、香絵様。わたくし達も早く逃げましょう。」

「ええ。」

 格子を潜りながら、「この騒ぎは夢路様が?」と訊ねる。

「いいえ。」

「では本当に爆発するの?」

「さあ。突然宮中が騒ぎ出して・・・。とにかく今がチャンスです。逃げましょう!」

 美姫二人は牢を出て、裾を翻して通路を走る。

「地下の牢へ寄ってください。」

 走りながら、夢路が香絵に頼んだ。

「ええ。あの方を捜すのですね。」

 大切な恋人より先に香絵を迎えにきてくれたのだ。雪路の責任感の強さに頭が下がる。

 通路を左へ曲がり、下へ行く階段を下りる。



 ちょうど香絵の姿が消えた頃、同じ通路を道長が走る。得丸に聞いた道を、香絵の座敷牢へ向かって。

『あの角を曲がれば牢がある。香絵がいる。』

 はずが・・・。香絵の姿はない。

「香絵!香絵!!」

 返事もない。

『格子戸が開いている。一足先に逃げたのか?』

 懐から王宮の見取り図を取り出し、床に広げる。

「今来たのは・・・。」

 自分の来た道を指で辿った。

 行き違いになりそうな所は?香絵の向かいそうな場所は?



「ここで待っていてください。」

 夢路が恋人の姿を求め、牢の並ぶ通路を奥へ向かう。香絵の場所から牢内は見えないが、皆逃げ出した後なのだろう。とても静かだ。長い通路のつきあたりを曲がり夢路の姿が見えなくなった。


 ふと香絵は、道長の声を聞いた気がした。振り返り、階上に繋がる通路の先を見つめる。が、誰もいない。息をく。

「道長様。・・・・・・逢いたい・・・。」

 この言葉を何度呟いただろう。瞳が潤む。

「香絵!」

 あまりに近くで聞こえた恋しい人の声に驚き、もう一度振り向いた通路の先に、さっきはなかった人影が立っている。

「道長様!」

 香絵は考えるよりも早く駆け出していた。また幻かも知れない。それでもいい。お願い、消えないで。消えてしまう前に捕まえないと。あと数歩が待てない。足は床を蹴る。

 道長の首に飛びついた香絵は、道長に頬を摺り寄せ、軽く口づけた。嬉しい。これも夢かも知れないけど。

「道長様、逢いたかった。」

「私もだ。」

 道長も少し長いキスを返す。

 夢じゃない。温かい。本物だ。嬉しい。嬉しい。

 しばしの抱擁でお互いの存在を確認し合う。


「この騒ぎは道長様が?」

「ああ。皆で王宮が爆破されると触れまわり、警備を混乱させている隙に得丸が火薬を仕掛けている。」

「あら?順序が逆ですね。」

「はははっ。そうだな。」

 香絵が「くすくす」と笑った。

 道長がぎゅっと抱き締める。

「その笑顔がどれほど見たかったか・・・。ん?」

 抱き合う二人の横で、夢路が顔を真っ赤にして立っていた。

「香絵。誰かいるぞ。」

「ええ。夢路様です。王宮ここでとてもお世話になった方なのよ。」

「そうか。世話になったのか。それは、有り難う。」

 夢路の横には若者が、やはり顔を赤くして抱き合う二人の美しさに見惚れている。

「夢路様の愛しい方も見つかったのですね。よかった。」

 そう言う間も、香絵と道長は離れない。

 夢路は見続けるのは失礼と思い、かといって恋人の顔も恥ずかしくて見ることが出来ず、下を向いて答えた。

「ハイ。あの・・・。早く王宮を出た方が良いと思いますが・・・。」

「ああ。そうだな。」

 道長はやっと思い出したと、香絵の手を握り通路を駆け出した。




 王宮を出て、森まで走った。

 夢路は恋人の家族が待っているからと、王宮を出た所で香絵と別れた。

「風丸!」

 道長が呼ぶと、黒く美しい肢体を陽に輝かせて、一頭の馬が森の奥から駆けてきた。道長が乗り込む。

 香絵も風丸に手をかけると、道長がその手を止めた。

「そなたの愛馬が呼ばれるのを待っているぞ」

「吹雪が?ここに来ているの?」

「ああ、呼びもしないのについて来るのだ。おかげで香絵と相乗りの楽しみを奪われたわ。」

「また、道長様ったら。」

 香絵は笑いながら愛馬の名を呼ぶ。

「吹雪!」

 木々の間を雪が舞うように、白馬が駆けて来る。香絵の前に止まると、目を細め、鼻を擦り寄せた。香絵も頬を寄せる。

「吹雪。あなたも迎えにきてくれたの?有り難う。」

 香絵が乗り込むと、二頭の馬は森の奥へと駆けた。



 十分に王宮から距離を取って、道長は馬を止めた。香絵もそれに倣う。そこには小さな小屋が建っている。逃げる拠点として目星を付けていたのだろう。道長は迷うことなく戸を開けた。

「ここで皆を待つ。」

「はい。」

 間仕切りもないがらんとした一室だったが、隅に備え付けの暖炉には既に薪がくべてあって、室内は暖かかった。囲炉裏にも火がついていて、寄り添って座る。

 自然と見つめ合う二人。

 道長の方がこらえきれず、香絵を抱き締めた。

「逢いたかった。心配したぞ。何もされなかったか?」

「はい。何も・・・。」

 香絵は何者にも自分の体を汚されていないことを、道長に伝えたかった。道長が聞いているのは、そういうことではないと分かっている。でも、どうしても。

「わたしは・・・まだ、道長様だけの香絵です。」

 意外な答に、道長は一度体を離して香絵の顔を見、そして、にやりと笑って口づけた。

「では、確かめてみよう。」

 そう言って、香絵の首筋へと唇を這わせる。

「こんな場所ところで?」

「気にするな。」

 片手で羽織を脱ぎ、床に広げると、とまどう香絵をその上に押し倒した。

「え・・・。ちょっと・・・。待っ・・・て・・・。」

「待つのは嫌いだ。」

 そう言うと道長は己の唇で香絵の口を塞いだ。



 香絵の肌に浸り、香絵を取り戻した実感を得た道長は、香絵の衣を整える。

「それにしても、そそられる衣装だな。香絵不足の私には目の毒だ。このまま香絵に溺れていたくなる。」

 そう言われ、香絵があらためて自分の姿を眺めれば、着ているのは座敷牢の箪笥にあった衣装。襟は肩近くまで大きく開いていて、この寒い季節に胸は半分ほども外気に晒されている。全体的に体の線に沿う形で、ロングスカートではあるが左右のスリットが深く、動く度に腿まで露になる。座敷牢は床暖房がきいていて、露出過剰なこの衣装でも寒くはなかったが、一歩外へ出れば凍える寒さだ。気の利く道長が直ぐに外套を掛けてくれたから、凍らずにすんだが。

「こ、これは、わたしの好みではありません。黄暢で用意されていた物で、他も同じ様な感じで、仕方なく。」

「だろうな。」

 道長は羽織の上に座って香絵の肩に手をまわした。

 少し照れながら香絵が訊ねる。

「抱いてみると分かるのですか?あの・・・相手が他の殿方に・・・その・・・。」

「他の男に抱かれたかどうかか?ぷっ。はははは・・・。」

 道長は愉快そうに大きな声で笑った。

「分かるはずなかろう。」

「え?でもさっき・・・。」

 確かめてみよう、と道長は確かにそう言った。

「どちらかというと、傷の有無のほうを確認したかったのだ。まあ、途中からは私もそんな余裕などなかったが。大丈夫。私はそなたの言葉を信じているよ。」

 道長は体をよじって香絵を抱き締めた。

「香絵を抱きたかったのだ。この手に取り戻したことを実感したかった。許せ。」

 香絵は頭を振る。

「嬉しい。」


 香絵は心配そうな顔を上げて黄暢の方角を眺めた。

「皆様、大丈夫でしょうか。」

「心配ない。そろそろ大きな花火があがるはずだ。」

 言い終わるとすぐに「どーん」という低い音が空気を揺らした。

「ほら、始まった。」

 次々と大小の爆ぜる音が響く。

「治安の良さがあだになったな。王宮への侵入もたわいないものだった。他国に戦争をふっかけるつもりなら、もっと防御まもりも学習すべきだ。」


 我らが朱雀御殿は強固な護りを誇る。昨今は一段と防御の質も増している。見直しても見直しても奥の間へ侵入してくる千茅との攻防のせいだ。ネズミ一匹の侵入も許さないとは言えないが、そのネズミ一匹のおかげで完璧な護りに近づいているのだから、皮肉なものだ。


『王宮の人々はちゃんと逃げたかしら。』

 不安そうに爆音のするほうを眺める香絵に、

「何を心配する?自分の目的のためには手段を選ばぬ卑劣な奴等だ。香絵が心を痛めてやる必要はない。」

「いいえ。黄暢の民が皆そんな人ばかりではないわ。わたしに親切にしてくださった人だっています。それにたとえ悪人でも、傷つけてよいはずないもの。」

 道長は少し呆れて溜め息を吐いた。

『自分に危害を加えようと企む者に、どうしてこれだけ寛大になれるのだ。そなたは・・・。』

「心配するな。王宮中にくまなく警告した。逃げるに十分な時間はあったはずだ。犠牲者を出さぬよう、皆にもよく言ってある。」

「はい。」

 よかった。暫く会うことも叶わなかった仲間達の顔を一人一人思い出す。それならば彼等のことだ、きちんとやってくれる。香絵にはそう信じられた。


 胸を撫で下ろすようにして息を吐いた香絵を眺めて、道長が呟いた。

「香絵のこの姿を、黄暢の男達も見たのか・・・。」

 そして唐突に床に置いてあった刀に手を伸ばす。

「やはり許せん。ちょっと斬り捨ててくる。」

「え?ちょっ?道長様?」

 冗談かと思いきや、本気ガチの表情で立ち上がろうとする道長に香絵は驚いて、道長の筋肉質な腕と分厚い胸板を抑え込むように、慌てて手を回した。

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