第87話

「・・・・・・・・・・・・・・・。」

 香絵は牢の真ん中に座して、真っ直ぐ正面の壁を見詰める。

『道長様・・・。逢いたい。逢いたい。逢いたい。逢いたい』「逢いたい。」

 口から洩れた呟きが耳から戻ってくると、それは涙となって瞳から溢れた。

 その時、香絵の肩の上に刀がきらめく。

「誰に逢いたい?」

 聞き覚えのある声に、香絵は急いで振り向く。

「返答に依っては容赦せぬ。」

「道長様!」

 香絵の見上げる先で、道長が優しく笑った。

「良い答だ。」

 腕を開き、香絵を迎える。

 香絵は喜びに胸を震わせ、両手を、


 香絵は目覚めた。座敷牢の床で、丸くなって寝ていた。

 一瞬の喜びと、夢幻の儚さに涙が零れる。

 両手を衝いてゆっくりと体を起こした。

『もう少しで道長様に届いたのに、どうしてあそこで目覚めるのかしら。』

 もう少しだったのに、と袖で涙を拭う。

 寝ている間に差し入れられた食事に気付き、引き寄せた。溜め息をついて、箸を付ける。

 ここの料理は口に合わない。でも、食べておかなければ。道長が迎えに来た時、足手まといにならないように。




 雲甲斐が香絵の牢へ、一人の若者を連れてきた。若者の後ろでは、牢番とは違う兵士が一人、彼の動向を見張っている。

 牢番が格子を開くと、雲甲斐が『入れ』と彼に顎で促す。

 若者は雲甲斐の顔色を伺うようにしながら、牢内へ入った。

「やれ。」

 冷めた目と声で雲甲斐が命令する。

 彼に何をさせようというのか。香絵は黙って座ったまま、若者の行動を見ていた。

 なかなか行動を起こせない若者に、焦れた雲甲斐が再び命じる。

「やれ!上手くいけば夢路とのこと、許してやる。」

 その言葉に、若者が動いた。香絵に寄り、その勢いに乗じて香絵を倒し、絨毯の上に両手を押し付ける。

『っっ!!』

 そこで勢いが止まり、若者はまた動かなくなった。

 苛ついた雲甲斐の命が飛ぶ。

「さっさとしろ!二度と夢路に会えなくてもよいのか。」

 ここで香絵は雲甲斐の考えが読めた。彼は人質に取られている、夢路の恋人なのだろう。伝説が怖くて自分では香絵に手を出せないため、彼で確かめようというのだ。

 これ以上雲甲斐を怒らせるのはまずいと、心を決めた若者が香絵に唇を寄せる。

「おやめください。夢路様が悲しみます。」

 香絵の口から恋しいひとの名を聞き、そこに触れる直前で彼は止まった。

「女はたとえ自分が殺されても、好きな人が他の女性と触れ合うところなど見たくはないものです。」

「その通りです。」

 雲甲斐の背後から声がした。

「あなたのそんなお姿は見たくありません。」

 夢路が立っていた。若者は驚いて、香絵の上から飛び退く。

「お父様。何と卑怯な事をなさるのです!」

「ふん。」

 夢路の出現でこの策を諦めた雲甲斐は、黙ってその場を去っていく。雲甲斐の合図を受けて、兵士が若者を引き立てる。若者は夢路の顔を見ることも出来ず、俯いたまま消え入るような声で謝った。

「夢路、すまない。」

「いいえ、わたくしの方こそ。あんな父を持っているばかりに・・・。」

 夢路は唇を噛み締める。恋人達はいだき合うことも許されず、再び引き裂かれた。


 気持ちを切り替えるように軽く頭を振ると、夢路は牢へ入ってきた。

「大丈夫ですか?どこもお怪我はありません?」

「ええ。」

 恋人のあんな姿を見て、きっとショックだったろうに、香絵を気遣うことを忘れない。そんな夢路に何と言葉を掛けたらいいのか・・・。言いあぐねている香絵に夢路は哀しく微笑んだ。

「親を選べないのは不幸だわ。」

 そしてすぐに笑みを消し厳しい顔をすると、香絵の両手を掴んで小声で言う。

「ここから逃げましょう。わたくし、何か方法を考えます。だから一緒に、王宮ここを出ましょう!」

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