黄暢の国

第86話

 こちらは黄暢の王宮へつれて来られた香絵。


「噂に違わず美しい巫子殿だ。」

 数日の間手足を拘束されたまま、荷物の様に馬で運ばれた。最低限の休憩と食事しか与えられず、着の身着のままで体を拭くことさえも許されず、馬の足が跳ね上げる土と誇りにまみれている。

 とても美しいと言える状態ではないのに、と不快に思いながら、香絵は雲甲斐うんかいの舐めるような嫌らしい視線に背筋を震わせた。

「こちらへ連れて来い。」

 王宮の一室。謁見等に使われているらしい広い部屋はその一角が一段高く作られていて、雲甲斐はその上から兵士に命じる。

 香絵一人にこんなに必要なのか?両腕も両足も未だ拘束したままのくせに。どれ程香絵を、都紀の巫子を、恐れているのか。と呆れる数の兵士が部屋いっぱいに整列している。


 兵士の一人が王の前へ引き立てようと香絵に手を伸ばす。二の腕に指が届いた時、香絵は触れたその手を払った。

「無礼者!」

 顎を反らし、少し目を細めて一同を見る。

「巫子に触れると、死が訪れるというのを御存知ないのですか?」

 辺りが波のようにざわめいた。

「巷ではそういう話も伝わっているな。しかし、伝説の書には載っていない。あれは流言ではないのか。」

 そう言った雲甲斐を、香絵が感情のない冷ややかな瞳で見る。

「人々の口に伝わるものこそまことの伝説。試してみますか?」

 両袖を口元に運び、「ふふふっ」と笑ってみせた。「それも一興かも知れませんね。」

 側にいた若い兵士の両腕を、香絵が突然掴む。膝を折って王に礼を取っていた兵士が驚いて香絵を見上げる。その首裏を捕まえ真上から見下ろすと、長く艶やかな黒髪が二人の顔を覆い隠す。香絵は自分の唇を兵士のそれに近付けた。

 不意の出来事に唖然としている兵士が、急に苦しみ始める。喉を掻き、口から泡を吹いて倒れ、気を失った。

 その様子を香絵は冷たい目で見下ろす。

「死にはしません。加減しましたから。でも次はどうかしら。まだ試してみますか?」

 香絵の近くにいた者が皆、一歩、二歩と後退った。

「ふふふふっ。」

 香絵が楽しそうに、くぐもった笑いを洩らす。

 雲甲斐は「ちっ」と舌を打った。

「座敷牢に閉じ込めておけ。食事を運ぶ者以外、誰も近付くな。」

 兵士が槍先を香絵に向け『歩け』と槍を振る。ここへ連れて来た時のように腕を引こうとする者はいない。


『よかった。上手くいった・・・。』

 さっき、香絵は袖の中に在る物に気付いた。それは都紀城で兄が“思い出の箱”に詰めて持ってきた物。たくさんの思い出の中の一つ。

 あの時道長に急かされてそのまま持って帰ってしまったから、紫紺かお婆々が城へ行くついでの時に返してもらおうと、手渡すため袖の中に持っていたのだ。

 さっきまで、すっかり忘れていた。でも思い出した。これは仕込み針の入った小箱だ。針の先端には仮死状態に陥る薬が塗られている。昔兄達と一緒に、そんな恐い物だと知らずにふざけて触って、ひどく父に叱られた。

 笑い話の一つにでもなればと、兄の誰かが箱に入れてきたのだろう。

 それを手に仕込んで、兵士の首裏に刺した。

 思った以上に上手くいった。もしかしたら薬を塗る前のただの針だった可能性もあったのだ。誤って刺してしまう危険を考えれば、むしろそうあるべきだった。兄の誰かの危機管理の低さが逆に幸運だった。香絵が思うに、たぶん星夕あたりだろう。平常時であれば叱責ものだが、今回ばかりは両手を合わせて感謝しておく。

 それにしても、父はいったい何をするつもりでこんな物を持っていたのか。思い出の箱に入れてきたということは、今回も父の棚の奥から持ち出したのだろう。穏やかそうに見えて実は狡猾な父の顔が脳裏に浮かぶ。悪戯っ子のような目で笑っている。



 必要以上に香絵から距離を取りながら兵士が連れて行った牢には、生活に必要な物が揃っていた。雲甲斐が巫子を捕まえた時のため、前々から準備してあったのだ。長い間執着して執拗に狙い続けていたことが明らかに分かる。

 床には絨毯が敷き詰められ、ベッドや箪笥等の家具類が置かれている。箪笥の中には充分な衣類―――早速着替えようと期待して開いた香絵ががっくりと肩を落とす程、香絵の趣味には合いそうもない物ばかり―――と鏡台には化粧品。

 一見、普通の姫が暮らす普通の部屋と変わらない。窓に、そして通路に面する壁の代わりに格子木がはまっていることを除けば。



 翌日の早朝、香絵の座敷牢へ雲甲斐がやって来た。右手で一人の美姫の手首を掴み、強引に引っ張っている。

「お前への罰はこれだ。失礼のないように、充分丁重におもてなしせよ。」

 牢番に格子を開けさせ、姫を牢の中へ放り込んだ。

「あんなつまらぬ男に引っかかりおって。まだ奴は生かしておる。が!もし再びお前が王宮ここを逃げ出したりすれば・・・。わかっているな?!」

 姫へ言い放つと、次は香絵へ向かって、

「と言うわけだ。巫子殿の世話は、この夢路ゆめじがすることとなった。」

『何が「というわけ」?さっぱりわからないわ。』

「女ならば例の伝説の心配もなかろう。それに、もし巫子殿に逃げられたら、夢路は責任を取ることになる。錠開けの名人である巫子殿には、何より重たい足枷というわけだ。」

「ふふん」と鼻で笑って背を向け、自分の思いつきの良さに笑いが堪えきれいと「ふっふっふっ―――」と去って行った。


「何て卑怯な男!」

 同じことを思っていた香絵は口に出す気はなかったが、隣に立つ姫が音にした。

 横顔を見詰めている香絵に気付き、彼女は笑顔で振り向く。

「はじめまして。夢路と申します。訳あってお世話をさせて頂くことになりました。歳はわたくしのほうが少し上かしら?よろしくね。」

 知らない土地で牢へ入れられ心細くなっていた香絵の心をちょっと明るくしてくれる。そんな笑顔だった。

 雲甲斐が去った後も、牢番は錠を開けたまま格子の前に待っていた。その男に夢路が訊う。

「あなたがまだそこにいるということは、わたくしはここから出るのかしら?」

「はい。夢路様がお出になった後、しっかり錠を掛けるようにと言われております。」

「そう。じゃわたくし、ここへ住むわけではないのね?」

 夢路はもう一度、香絵へ笑顔を向ける。

「では、一度退出致します。その様子だと、備え付けの浴室も使われたのですね?不備は有りませんでしたか?何か必要な物があればおっしゃってください。すぐに持って参ります。」

「はい。いいえ。いえ、今は別に。」

 一気に投げられた言葉に、遅れじと香絵が返答を返せば、

「そうですか。では朝食の仕度が調いましたらお持ちしますね。」

 と夢路が格子の戸をくぐり、牢を出てゆく。

 すぐに錠をかけ、牢番も姿を消した。


 誰もいなくなると、溜め息が洩れた。

『これからどうなるの?わたしは、どうしたら。』

 香絵は、はっとして天井を見上げた。「こんこんこん」とノックの音がしたような気がしたから。

 見上げた天井は板が一枚ずれて、そこから得丸が顔を出した。

「得ま・・・!」

 びっくりして出た声の大きさに、香絵は自分で驚き、両手で口を押さえた。

 通路の向こうにいるはずの牢番の様子を伺ってから、今度は小さな声で呼びかける。

「得丸様!」

 得丸が『はい』と頷く。

「香絵様。天井から抜けられます。行きましょう。」

 差し出された手に自分の手を出しかけて、香絵は首を振る。

「いいえ。わたしには出来ません。」

「香絵様の身の軽さなら大丈夫です。さ。」

 得丸が更に手を伸ばす。

「いいえ、そうではなくて・・・。今わたしが逃げ出すと、困る人がいるの。その人、殺されるかも知れない。」

 香絵が他人の事情を慮っている。得丸は知っている。こんな時の香絵はきっと何を言っても動かない。

「分かりました。取り敢えず、道長様に報告致します。必ずお助けに戻って参りますので、しばしご辛抱ください。」

 天井板をきちんと元に戻して、得丸が姿を消した。


『こんなに早くわたしがここにいることが分かるなんて・・・。』

 真欄に拉致されてから黄暢の王宮に着くまで数日かかった。黄暢とは違う方角から都紀を出たのは分かったが、後を追われないために遠回りでもしたのかも知れない。

 なのにもう見付けだすなんて。

 香絵はあらためて得丸のすごさに感心した。そして思う。

『やっぱり魔法使いなんじゃないかしら・・・。』

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