第85話

 都紀の香絵と遠賀の香絵は違うとお婆々は言った。ではどちらが本当の香絵なのか。

『たぶん都紀の香絵が本物だ。』

 遠賀の香絵には記憶が失かった。過去を持たない幻。幻の香絵が、道長の中に見つけた紫紺の影を愛した。潜在意識の中で、紫紺を求めていた。

 紫紺と道長は似ている。歳は同じくらい。背もあまり違わない。道長の方が筋肉質だが、衣を着てしまえば、体つきも大差ない。医学の心得もある。香絵は心のどこかで道長を紫紺と重ねていたのではないか。

 道長はそんな妄想に取り憑かれていた。

「はあぁぁ。」

 本日何度目の溜め息だろう。

 明かり取りの窓から西に傾いた陽が差す。

 体の傷のせいか、心の痛みのせいか、昨夜からよく眠れずにいる道長は、今日一日部屋から出ることもなく、ベッドの上でごろごろしていた。こんなに怠惰な一日を過ごしたのは初めてかも知れない。


 心配した香絵が、食事や飲み物などを持って、時折部屋を訪ねた。

「お婆々様が傷を治してしまいましょうと言ってましたよ。」

「ああ。」

「痛みますか?お婆々様にこちらへ来ていただきましょうか?」

「いや・・・。」

 怠そうな道長の様子に、香絵は長居せず部屋を去った。



 一人の女が巫子の館付近をうろうろとしている。

 女の頭の中で、我が子の泣き声がこだまする。母を求めて必死に手を伸ばし泣き叫ぶ幼い息子を抱え、細く切れ上がった冷たいを持つ、見知らぬ異国の男が言う。

「巫子の館にいる、異国の女を連れて来い。一人になるのを待って、こっそり声を掛け、その女だけを連れて来るのだ。人質を奪られたと言えば嫌とは言うまい。上手くやれば子どもは返してやる。よいか、しくじるなよ。女だけだぞ。他の者を連れて来たら、子どもは二度とその手には戻らぬ。」


 女は香絵を見つけた。一人だ。

 そっと声を掛ける。



「よく来たな。」

 巫子の館からさほど遠くない、国境に近い河原。ごろごろ転がっている大きな岩の一つから、真欄がゆっくり下りてくる。

「卑怯者。その子を返して!」

「その前に逃げられぬよう、これを付けさせてもらおうか。」

 真欄は太い鎖を取り出した。両端に付いた幅広の腕輪を香絵の左右の手首に巻くと、「かっしゃん」と高い音を立てて錠が掛かる。

「失礼。」

 香絵の前に屈むと、同じ物を足にも嵌めた。

「縄抜け、錠破りがお得意だそうで。前回はそうと知らず逃げられましたので、今回は特別に用意しました。我が国の職人が腕に縒りをかけた傑作の着け心地は如何です?お気に召しましたか?」

 香絵が睨むと、真欄は「くくっ」と笑った。

「本当に美しい姫だ。男達が狂わされるのも解かる。私でさえ、このまま連れ去りたい衝動に駆られる。」

 香絵は背中に寒気を感じ一歩後退さる。真欄がまた「くくくっ」と笑う。

「心配するな。どちらかといえば、私はお前の夫の方が好みだ。」

 そう言っていかにも楽しそうに顔を歪めた。


 子どもを捕らえている仲間に合図すると、子どもは男の手を離れ、母の元へと走った。

「さっさと立ち去れ!ぐずぐずしていると、命を失くすぞ。」

 びくっと体を強張らせ、それでも母親はすぐには去らず香絵を見た。

「早く行って!」

 叫んだ香絵に、母親は深く頭を下げ、子どもを抱いて走り去った。



 道長はうつろな意識の中、香絵の声を聞いたような気がして目を開けた。既に陽は落ち、薄暗い部屋を見回すが誰もいない。

 急に不安が胸に広がる。

 重い身体を起こし、部屋を出た。


「香絵はいるか?」

 書庫へ行き、お婆々と供の二人に訊いてみる。

 お婆々は道長の渡した絵について、気になる場所や文献を調べていた。香絵の描いた月の天使の絵だ。

 政次と兼良はお婆々に手際の良さを認められたらしい。館にも人はたくさんいるのに、今日も手伝わされていた。巫子の教えを乞うために都紀へ来たのだろう?というのが、お婆々の言い分だ。


 三人は道長の訊いに顔を見合わせる。

「いいや。昼に一度顔を見たきりじゃ。」

「そうか。」

 出て行く道長の様子が気にかかったお婆々は、

「どうかしたのか?香絵の夫よ。」

「ぐっ。お婆々。私のことを『香絵の夫』と呼ぶのはやめてくれ。私には道長という名がある。」

「お主が『お婆々』と呼ぶのを許してやったのじゃ。わたしも好きに呼ぶわい。」

 つん、と顎を上げた。

「わたしの全ての基準は香絵にある。生憎お主ではないでな。全ての中心は香絵。よってお主は『香絵の夫』じゃ。」

 道長は言い返そうとしてやめた。今はそれどころではない。嫌な胸騒ぎがする。

 そのまま出て行こうとする道長がやはり気にかかり、またもお婆々が呼び止めた。

「どうかしたのか?」

「いや。何でもない・・・こともないか・・・。何となく不安を感じて、胸が静まらないのだ。」

 香絵の姿を捜しながら、少しずつ動悸が激しくなる。どうしても香絵の顔を見たい。今すぐ。

「ふむ。ちょっと待て。」

 お婆々が瞳を閉じ、意識を集める。香絵に・・・。

 そして頭を振り、静かに目を開ける。

「香絵の夫よ。胸の傷を治してしまおう。今ならばわたしの能力ちからも満ちておる。

 香絵なら館を捜しても無駄じゃ。すでにこの国にはおらん。」

「どういうことだ?・・・まさか・・・。」

「とにかくここへ。」


 道長は黙ってお婆々の言葉に従った。

 胸の動悸はおさまらない。だが、香絵はもう館にはいないとお婆々が言うのなら、今やるべことは香絵の姿を捜し歩く事ではない。腰を落ち着け考えねばならない。香絵を取り戻す事を。香絵が自分の意思でこの国を出るはずはないのだから。

 側の椅子へ座り、衣の胸を開き、自らの手で湿布を剥ぎ取った。



「香絵の夫よ。わたしの独り言を聞くか?」

「年寄りの独り言など聞きたくないな。だが言いたいならば勝手に喋るがいい。多少耳障りでも我慢してやる。」

「ふん。可愛くない男じゃ。」

 言葉とはうらはらに、お婆々は嬉しそうに笑った。


「月の天使様の巫子についてはいくらか勉強したようじゃが、それでも絶対に知ることの出来ないものがある。書物や巷の言い伝えには残されぬ、巫子だけに伝承される話じゃ。歴代の巫子以外、知る者はおらん。」

 お婆々は道長に、巫子だけに伝わる伝説の秘密を語る。さらりと話すよう意識したつもりだったが、紡いだ音はいささか重くなってしまった。

「“継承の儀”。それは月の天使様から始まる、歴代の巫子達の記憶の引き継ぎなのじゃ。生まれてから死ぬまで、一生分の記憶をそっくり引き継ぐ。」

「そっくり?」

 聞かぬ、と言っていた道長の反応に、お婆々は『してやったり』と口角を上げた。

 道長は『しまった』と思ったが、もう遅い。

「やられたな。私の負けだ。聞かせてもらおう。そっくり引き継ぐとは?」

「たいしたことではない。手と手を結び思うだけでよい。記憶はすでに持って生まれる。引き継ぎの儀式は奥底に眠る記憶の封印を解くこと。新しく誕生した巫子は、それで自分のすべき事を悟る。」

「香絵もその記憶を引き継いだのか?」

「そうじゃ。自分で再び封印してしまったがな。」

 ここで言葉を切り、お婆々は道長の胸から手を離した。


「どうじゃ?もう痛まぬと思うが。」

 道長は腕を上げ、右胸を伸ばすように体を傾けてみる。

「うむ。何ともない。大した能力だな。」

 本当にすごい。さっきまで体を動かすと、ただ歩くだけでも、動くことが億劫になるくらい痛んだのに、もうまったく痛みを感じない。己の体で体験すれば、その能力の素晴らしさは身に染みて実感する。

 どこぞの国王が、その手中に収めたくなるのも頷ける。許せるものではないが。

「ありがとう。お婆々。」

 道長が素直に感謝を伝えたら、お婆々は「ふん。」とドヤった後、一息吸って話を続けた。


「わたしはな、生まれた時、薄紅色の翼があったそうじゃ。元来翼は真っ白が常。わたしには特別な役目があったということじゃ。月の天使様をお育てするという役目がな。・・・香絵は空色の翼を持つ者。つまり月の天使様じゃとわたしは思っておる。」

「香絵が月の天使?」

 道長には意味が呑み込めない。

「生まれかわりとでもいうのかの。香絵のなかに月の天使様がいらっしゃる。わたしは月の天使様、つまり香絵のためだけに生まれた。香絵のためだけの存在じゃ。」

「香絵のために生まれた・・・。」


 道長は自分の記憶の中に、同じ言葉を見つけた。

『私はね、香絵。きっと香絵のために生まれてきたのだよ。この世に生まれる前から、私は香絵を護ると、そう決まっていたのだ。』

 昨日道長が香絵に言った言葉だ。


『私は香絵のために生まれ、香絵のために存在している。そうだ。紫紺の愛の深さと比べる必要などない。私の持てる愛の全てを香絵に注げばいい。香絵が愛しているのが私であろうが、紫紺であろうが、または別の誰かであろうとも、私が香絵のための存在であることには変わりがないのだ。』

 紫紺も同じ様なことを言っていた。あの時は恋敵の言葉を素直に聞く耳を持てなかったが、彼もまた、そのような存在であろうとしているのだろう。

 今、道長の中の迷いはすっかりかき消えていた。



「巫子様。彼女が香絵様のことで話があるそうです。」

 少し後、紫紺がお婆々の元へ案内したのは、真欄に人質として捕らえられていた子どもとその母親。正直な母親はそのまま逃げてしまうことなど思いも付かず、巫子様へ知らせなければと館を訪れたのだ。


「み、巫子様、申し訳ありません。大切なお客様を・・・。わ、分かってはいたのです。お連れしてはいけないと・・・。でも、息子が・・・。息子が・・・。」

 道長やお婆々の前で、彼女は自分を責め、許しを請うことに必死で、なかなか道長の知りたい情報を教えてくれない。

「よいよい。人質がいたのでは、逆らえまい。誰もお主を責めたりは出来んよ。遠賀のお客様達とて分かってくださる。連れてゆかれたお方もな。」

 お婆々は時間を掛けて彼女を慰め、気持ちを落ち着かせ、やっとその場の様子を明確に知ることが出来た。


「予想通り、敵は黄暢か。許せん!」

「!!ぅっわ~~~~~~ん。」

 言った道長の恐ろしい顔を見て、子どもが泣き出してしまった。

「す、すまん。お前に言ったのではないのだ。」

 怯える子どもを、道長は一生懸命宥めるが、母親に縋り付いて泣きじゃくる子どもは、道長と目も合わせてくれない。

『くっそぅっ。これもすべて黄暢が悪い!』

 道長は黄暢への厳しい報復を胸に誓った。

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