第84話

 お婆々は道長の傷を癒してくれたが、一刻いっとき前に事故で運び込まれた複数の重傷者のために癒しの能力を使っており、疲れが溜まっていた。

「すまんな。年寄りのわたしにはこれが限りじゃ。あとは明日にしてくれ。」

 それでも、息をするのに胸は痛まなくなった。体を動かせばその度痛むが、それくらいは静かにしていれば何の事はない。

「ああ、十分だ。ありがとう、お婆々。」



 道長は自分の部屋へ戻り、ベッドへ横たわる。目を閉じると、真欄の顔が浮かんだ。

『遠賀などほんの小国―――。』

『そんなもので満足しているから―――。』

 真欄が道長を嘲り笑う。

「くっ。」

 道長は悔しさに拳を握り締める。

 このまま横になっていても、身体はともかく、精神こころが休まらない。痛む体を起こし、部屋を出た。


 入れ違いに、香絵が道長の部屋を訪ねた。

「道長様。今、団から・・・。」

 誰もいない室内を見回して首を傾げる。

『道長様?どこへ・・・。』



 敵の数は多かった。それを敗北の理由に出来ればどんなに楽だろう。

 しかしあの時、敵の小者達の相手は道長を除く三人がしていた。一番手強いと思われる真欄に、道長が集中できるように。それなのに・・・。

 道長は敗れた。

 道長を心配して駆け寄った香絵は捕まり、それを阻止しようとした千茅は斬られた。

 嫌でも光景が脳裏に浮かぶ。

 悔しさのやり場が無い道長は、傷の痛みをおして、剣を振る。


「道長様、見ーっけ♪」

 館の裏手でやっと道長を見付け出した香絵は、服の裾と輝く黒髪をなびかせて駆けだす。飛びつこうとして道長の傷を思い出し、ぎりぎりのところで止まった。『ふう、危なかった~。』

「今、団から知らせが来ました。千茅は命を取り止めたのですって。あとは意識さえ戻れば心配ないって・・・。」

「そうか。よかった。」

 道長の手にある刀を見て、香絵が不審な顔をする。

「道長様、何をしているのですか?」

「ああ、剣の稽古だ。」

 刀を構え、振り始める。

「まだ、痛むのでしょう?」

「いや。」

「嘘!」

 香絵には分かる。道長が刀を振るたび、香絵の胸が痛むから。

「道長様、やめて!」

「止めるな香絵。私は強くなりたい。何者からでもそなたを護れる自信が欲しいのだ。」

「やめてください。でないとわたし、能力を使って道長様の傷を治します!」

 道長が剣を振る腕をぴたりと止めた。

「香絵。そういう身を盾にした言い方は卑怯だぞ。」

「だって・・・。」

 卑怯なのはわかってる。だけど・・・。出てこない言葉の代わりに、香絵の瞳にみるみる涙が溜まってゆく。

「わ、分かった。」

 道長は慌てて剣を腰の鞘にしまい、両手を挙げてみせた。『くそう。またもや敗北か。』

 まったくこればかりは、言い訳のしようもない。この敗北に理由など無い。香絵の涙には勝てると思えないし、勝つ気もない。無条件降伏だ。

「もうやめた。やめたから泣くな。」

 ぐずっと鼻をすすり、香絵が頷く。

 道長は香絵へ寄り、袖で涙を拭いた。

「都紀での私は香絵を泣かせてばかりだ・・・。」


 剣は収めたが、このまま一人で部屋へ戻る気のしない道長は香絵を散歩に付き合わせることにした。

 館の庭を歩く。

 すると、馴染み深い低木がそこここにあることに気付く。記憶のない香絵が、無意識に故郷を懐かしんで部屋に飾っていた、りらの樹だ。こんなにたくさん植わっていれば、花の季節にはその芳香が屋敷中を満たすだろう。香絵が故郷を思う伝手となるわけだ、と納得する。

 りらだけではなく、季節ごとに目や鼻を、中には口も楽しませてくれる草木が、巫子の館にはちりばめられていて、遠賀ではまだ蕾が硬かった山茶花の花も、都紀では今が盛り。巫子の館を華やかに彩っている。

「今頃遠賀では、皆何をしているかしら。」

 二人は故郷ふるさとへ思いを馳せる。あれこれと遠賀の事を話しながら、館の庭を歩いた。

「そういえば栄ったらね、いつだったか――――――。」

 香絵の他愛ない話が、道長の気持ちを和ませてゆく。



 千茅の容態が落ち着いたのを見届けて、紫紺は巫子の館へ帰ってきた。

 取り敢えず汚れの目立つ服を替えるため、庭を抜け直接自室へ向かおうとして、楽しそうに笑いながら庭を歩いているふたりを見かけた。邪魔をしないようにと思ったが、姿を隠す場所を探している間に、香絵に見付かってしまった。

「紫紺、戻ったの?千茅は?どう?」

 香絵が急き込んで訊ねる。

「もう大丈夫です。強い人ですから、すぐに意識も戻るでしょう。」

「そう。よかった。」

 香絵は胸に手を当て、大きく安堵の息を吐いた。


「明日も千茅のところへ行くのでしょ?」

「はい。」

「では、お見舞いを持っていって。」

 本当は自分で見舞いに行きたい。でも道長と約束した。能力は使わないと。

 明日にはきっとお婆々が治療に行ってくれるだろう。だがそれでも、意識のない千茅を前にして、約束を守り通す自信が香絵にはなかった。

「準備しておくから、明日、出かける前に取りに来て。」

「はい。かしこまりました。」

 思い立ったら、あれでしょ。これでしょ。――――――。折る指が足りなくなって、だんだん頭の中だけでは処理しきれなくなってくる。

 もう、気持ちはすっかりどこかへ飛んでしまっている香絵に、道長は『やれやれ』と声を掛けた。

「準備しに行っていいよ。後は紫紺殿に付き合ってもらうから。」

「はい。じゃあ、終わったらお部屋へ伺いますね。」

 香絵は疾風の如く走り去っていった。


「すぐ一つの事に夢中になって、他は見えなくなる。記憶を失くしても、そういうところは変わらないのですね。」

 言った紫紺の横顔を、道長はじっと見ていた。紫紺は道長の視線に気付きもせず、遠ざかる香絵の姿を熱い眼差しで見詰めている。

 道長は溜め息を吐いた。

「大丈夫ですか?」

 傷を負った道長を気遣って掛けた言葉だったが、振り向いた紫紺から、道長は目線を逸らした。

「・・・私は・・・。」

 一度言葉を切り、道長は迷った末、結局口から愚痴がこぼれた。


「私は遠賀にいた時、自信があった。国のまつりごとも、剣の腕も、香絵を愛することも、香絵に愛されることも。

 だが、都紀ここではどれも確かではないように思える。」

「私は遠賀も、そこにいたあなたも知りません。なので、政治も剣も存じません。

 ですが、香絵様への愛まで確かではないとは、情けないではありませんか。」

 仕事柄、感情は極力表面おもてに出さないようにしている紫紺だが、言葉終わりには非難の響きが含まれていた。

「ああ情けない。だが、事実だ。私は香絵を誰よりも深く愛していると思っていた。香絵からも愛されていると。

 しかし、本当にそうだろうか・・・。」

「それは、私のせいですか?」

 道長がちらっと紫紺を見て、再び目を逸らす。

「そうだ。私はあなたほど深く香絵を愛しているのか。香絵が愛しているのは私ではなく、あなたではないのか。」

 紫紺と目を合わせようとしない道長を、紫紺は真っ直ぐ見る。

「私は香絵様を愛しています。まだ子どもだった頃から何年もの間、ずっと。

 昔、勇貴いさき様のように人の生命を救いたいと、医者を志したことがあります。特別な能力を持たない私は地道に他者から医学を学ばなければなりません。だが、都紀にいては限界がある。

 香絵様から離れ他国へ医学を学びに行くか。医者を諦め香絵様の元に止まるか。究極の選択を迫られた結果、私は香絵様の側にいることを選びました。

 思春期の頃には、恋しくて恋しくて、香絵様を抱きたくて仕様がなかった夜もあります。必死で思いを封じました。言い伝えの死が怖かったわけではありません。香絵様の心を大切に思ったからです。」

 道長にも同じような夜があった。紫紺の気持ちは痛いほど分かる。

「あなたのことを殺してしまいたいと思うほど、羨ましく思っています。でも殺せません。私が望むのは香絵様の幸せです。私の心が報われることはなくとも、香絵様には幸せでいて欲しいのです。それほど私は、誰よりも香絵様を愛している。」

 真っ直ぐ道長を見詰めている紫紺の瞳は、自信に満ちている。

「あなたより深く愛していると私は自負しています。でも、そんなことは問題ではありません。香絵様があなたを愛しているということ、それが大事なのです。

 たとえ他の誰が、あなたより深く香絵様を愛していようとも、香絵様はあなたといることを望んでいるのです。それを幸せだと感じているのです。わかりますか?」

 道長の返事は無い。

 紫紺は眉を寄せ、くしゃくしゃっと己の髪を掻き雑ぜた。

「ああもう。どうして私があなたにこんなことを言わなければならないのですか。頼みますよ。まったく・・・。」

「すまん。」

「今の話をしたこと、ちょっと後悔しています。一人にしてもらえますか。」

 道長は黙って立ち去っていく。後姿にはまったく覇気が無い。


 紫紺はそんな道長の背中を睨むように見ていた。

『道長様、裏山であなたが私よりも速く香絵様に駆け寄った時、私は初めて嫉妬という感情を覚えました。そしてその後、あなたが香絵様の隣を私に空けた時、敗北を感じた。あなたには敵わないと、そう思ったのですよ。

 絶対に教えてはあげませんけど。』

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