都紀の香絵
第79話
香絵のベッドの横で椅子に座ったまま、道長はうとうとしていた。
一度は道長のために用意された部屋へ入った。衣も着替えた。
だが、お婆々の言葉のように香絵がこのまま目覚めなかったら・・・。そんな不安が心を占め、とても一人ではいられない。
一晩中、香絵の顔を見ていた。
香絵は次の日、すっかり陽が高くなって目覚めた。
「道長様?」
香絵の声を聞いて、道長は
「ああ・・・。目が覚めたか。」
「そんな所で寝たら、風邪をひきますよ。」
「ん、そうだな。」
椅子の背から重怠い体をゆっくりと起こす。
「気分はどうだ?」
「とてもいいです♪・・・?どうして?」
「いや。」
香絵は自分の体の異変を自覚していない。ただ一晩寝て、目覚めただけなのだ。
とにかく元気に目覚めたことに、道長はほっと胸を撫で下ろす。椅子から立ち上がり、硬まってしまった腰を「うーん」と伸ばした。
「腹が減ったな。朝食にしようか。」
香絵は館の廊下を歩く。足取りは軽い。奥底にしまい込んだ記憶は、直接目にしたものから甦ってくる。勝手知ったる巫子の館。見るもの、見るもの、懐かしい。
昨日門で寝てしまった香絵は、その後どうやって部屋まで行ったのかも覚えていない。もちろん、道長に抱えられて運ばれたのだが、そんなことは気にする余裕もないほど浮かれている。
こんな時が危ない。香絵は何をしでかすか。ここは一つ釘を刺しておく必要がある。と、道長が前を行く香絵に呼び掛けた。
「香絵。」
「はい?」
香絵は足を止め、振り向く。
「解かっていると思うが、香絵は遠賀からの旅の者だ。都紀には初めて来た。」
「解かっています♪道長様は遠賀のお医者様♪巫子の癒しの能力の噂を聞いて、研究の為に都紀へ来ました♪わたしはそのお供の中の一人です♪」
言っていることはちゃんとしている。都紀へ入る前に打ち合わせた通りだ。
だが、この締まりのない顔。浮かれた様子。本当はどこまで解かっているのか・・・。まったく心もとない。
『都紀へ帰ってきたことがそんなに嬉しいのか・・・。』
道長の心は複雑だった。
食堂へ行くと,数脚の椅子とセットになった5つの丸テーブルの中で、二席だけ食器のセットが残されていた。二人が入ってきたのを見て、給仕の女が温かい笑顔で席へと導く。他の女がやはりにこやかに厨房から料理を運んできた。「香絵様どうぞ。」とテーブルに置く。
香絵には見知った顔だ。しかしさっき釘を刺されたばかり。香絵は「ありがとう。」と満面の笑みで応えるに
給仕の女に道長が「他の者は?」と訊ねると、「巫子様は図書室にいらっしゃいます。」と教えてくれた。
「お供の方も御一緒です。お二人のお食事が済みましたら、御案内するように言われております。」
食事がほぼ終わった頃、一人の青年が食堂へ入ってきた。長身に都紀の衣――詰襟の白シャツに黒いズボン――を着け、その上にウエストコートを着ている。背中の中ほどまである茶髪は、首の後ろでひとつに纏めてあった。
「
整った顔に穏やかな笑顔をのせた男を見ると、香絵が歓喜の声を上げる。椅子から立ち上がり、紫紺に飛び付くために今にも駆け出しそうな香絵を、そっと手を掴まえることで道長が制した。
「香絵、会ったばかりの人に呼び捨ては失礼だよ。それにまだ食事の途中だ。座りなさい。」
食堂には給仕の女がふたり控えている。料理人からも食事の進み具合が分かるように食堂が見える造りの厨房には、朝食後の片付けをしたり昼食の下準備をしている使用人達がいる。
知人に会えばすぐに記憶は戻ってきたが、ここにいる全員が香絵の知っている人間ばかりではなかった。知らない人から見れば、異国から来た香絵が初対面のはずの紫紺に飛び付くのは奇行と見えるだろう。香絵もそれに気付き、「すみません。」と座り直した。
「いいえ、どうぞ「紫紺」とお呼び捨てください。私はこの館で執事をしております。」
香絵が『えっ?』という顔をした。それに気付いた紫紺が言葉を足す。
「長年この館で執事をしていた父が亡くなったので、この仕事を引き継ぎました。」
少し眉尻を下げながらも笑顔を崩さない紫紺の言葉に、香絵が顔を曇らせた。
『亡くなった・・・。』
紫紺のことは瞬時に思い出せた。紫紺の歳は香絵より幾つか上で、道長と同じくらい。昔から巫子の館で父の仕事を手伝っていた。
修行に追われ他の子どもと接点のない香絵にとっては良い遊び相手で、何でも話せる相談相手だった。
でも、思い出せない。知っているはずなのに。
食事が終わると紫紺がふたりを図書室へ案内した。
「ほれ。兼良。ここに書いた本を持ってきておくれ。」
お婆々に紙を渡されて、書き出された題名の多さに兼良が舌を巻く。
「えー。またこんなにですか?」
「読めん字しか書けん男は、ぶつぶつ言わんと体を動かせ。」
「ううぅ、ひどい。」
紙片を手に、しぶしぶ書棚へ本を探しに行った。
「政次はこっちじゃ。ここを抜き書きしておくれ。」
「はい。」
さすがに政次は二つ返事で引き受けるが、それでも朝からずっと本の抜き書きをしていて、横を見ればまだまだ高くなりそうな本の山。少々うんざりという顔だ。
やって来た三人の姿を見た途端、兼良は道長に泣きついた。
「道長様ぁ、助けてください。このお方の人使いの荒さは半端ではありません~~~。」
「兼良、さっさとおし!」
目敏くお婆々が檄を飛ばす。
「ひえーん。」
道長は苦笑した。兼良に音を上げさせるとは、お婆々もなかなかの強者らしい。
「お婆々。少し手加減してやってくれ。」
お婆々の眉が片方だけぴくりと動く。兼良が焦った顔で両掌を小刻みに降って、道長に合図した。
『駄目、ダメです、道長様。』
しかし、放った言葉はすでにお婆々の耳に届いている。
「誰が「お婆々」じゃ。気安くお婆々と呼べるのは香絵だけじゃ。『巫子様』と呼べ。『巫子様』と。」
『ああ、ほらあ。そう呼んじゃあ駄目なんですってぇ。』
どうやら『お婆々』は地雷のようだ。兼良も今朝、『お婆々』呼びで失敗したばかりだ。それはそれは冷やかな炎も凍る眼差しを放ちつつ、優しい猫撫で声で諭すという、人知を超えた説教をくらったのだ。思い出して『ああ、恐かった。』と両腕を
兼良が先に口にしたおかげで直接被害を被らなかった政次も、遠い目をしている。
道長はというと、自分の部下を顎で使われていることに目を瞑り、
「年老いた女はお婆々だろう。お婆々をお婆々と呼んで何が悪い。」
あ、お婆々の纏う空気が急冷した。まずい、この人怒るとホントに怖いのに。と兼良が再び背筋を凍らせたとき、
「道長様っ。」
『おおっ!女神降臨。』
香絵が慌てて仲裁に入った。
「ごめんなさい、お婆々様。道長様はこの国の人ではないので、巫子の事をあまり御存知ないのです。お婆々様を軽んじているわけではなくて、道長様の国はあまり女性の地位が高くない国で。あ、いえ、道長様はよい国王様なのですけど、えっと・・・その・・・み、道長様も、お婆々様は巫子様なのです。お婆々様は、お婆々様で、それは年を取っていますけど、もう数えられないくらい年を取ったお年寄りで、あ、いえ、えっと・・・。」
香絵が仲裁しているのか何なのか怪しくなってきて、お婆々はついくすりと笑いを漏らしてしまった。
「おっと。ふん。仕方ない。香絵の夫なら特別に許してやるわい。」
「そうそう。年寄りは素直でないとな。」
「むっ!!!」
「道長様っっっ!」
兼良が音を上げるくらい、以前から人使いは荒いが、基本誰にでも優しいお婆々が、道長に対しては当たりがきつい気がする。と香絵は思った。
道長もわざと煽るような言い方をして子どもみたいだ。
ふたりの様子に首を傾げつつ、一触即発の雰囲気に、香絵は無理やり話題を変える。
「お婆々様お婆々様。何か御用だったのでは?」
「ん?おお、そうじゃ。殿様のことじゃが、」
「あ・・・・・・。父様のこと、忘れてました。」
え?道長は驚いた。
昨日香絵が倒れて、道長の頭の中からは他の事がすっかり消え去ってしまった。だが、香絵まで父の事を忘れるなんて。
いずれは都紀を訪れるつもりではあったが、徹元が病に伏したというお婆々からの知らせで慌てて遠賀を発ったのだ。香絵もその知らせにかなり動揺していた。
なのに、やっと都紀へ辿り着いたのに、忘れていたなんて。記憶障害が悪化したのか?封印の悪影響なのか?
政次と兼良も驚きを隠せない顔つきで、こちらの様子を窺っている。
しかし、お婆々は納得顔をして頷いた。
「じゃろうな。殿様の病はわたしの嘘じゃ。」
「「「はあぁ?」」」
皆の視線がお婆々に集まる。
「香絵の様子を千茅の手紙で知って、ちょっと気になってな。都紀まで急いで呼び寄せるための口実じゃ。すまなかったな。」
香絵のためと言われては、道長にはお婆々を責められない。実際、香絵の身体は危ないところまできていると思われる。昨夕の出来事はそれを道長に実感させた。
「香絵は巫子じゃ。都紀におれば、家族の体調くらい心が感じ取る。殿様は元気だと、誰に聞かずとも分かるのじゃ。都紀での香絵は、そういうものなのじゃ。」
『都紀にいる香絵は、遠賀にいた香絵とは違う。そういうことか・・・?』
それは分かるような気がしたが、道長は認めたくなかった。
都紀にいる香絵は道長のものではない。そう言われているように思えたから。
お婆々は紫紺に、香絵を案内して都紀を
「都紀の記憶が戻れば、封印を解く手助けになるやも知れん。知った場所を見て、沢山思い出話をすることじゃ。」
「嬉しい。紫紺、行きましょ。」
香絵が紫紺の腕に回そうと伸ばした手は道長に捕まる。道長はその手を自分の腕に回した。
「おや。お主も行くのか。」
「あたりまえだ。香絵の傍を離れるなと言ったのはお婆々であろう。」
「それはそうじゃが・・・。まあ、よかろう。邪魔をするなよ。」
「邪魔などするか!」
道長は香絵を引っ張るように出てゆく。紫紺もお婆々に『では、行ってまいります。』と頭を下げ、ふたりに続いた。
『ついて行っても楽しくはなかろうに。』
香絵と紫紺は昔から仲が良かった。そんな頃の思い出を辿るのだ。道長が二人を見て、嫉妬に燃える姿を思い浮かべ、お婆々はくくっと笑いを洩らした。
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