第61話

「道長様?」

 香絵は離れに来ていた。

 寺の本堂や、尼僧達の住む庵から大分あるが、こんな時に限って迷いもしない。

 天には雲もなく、満天の星達が瞬いている。二十五日では月もまだ顔を出さず、本堂の灯かりも届かない小路は真の闇。

 勘を頼りに手探りで進む香絵は、燭台を持ってこなかったことを後悔した。

 こぢんまりとした離れの周りは竹林に囲まれひっそりしている。

 垣根の間の腰ほどの高さの木戸を抜け、足を踏み外さないように飛び石を渡り、離れの戸を開け、真っ暗な内をのぞき込んだ。

「道長様。いらっしゃるのですか?きゃっ。」

 戸に掛けた手を誰かが強く引いた。

 勢いよく中へ。横の小さな台所に直接つながった広めの三和土たたきでなんとか転ばずに踏み止どまり、振り返る。

 扉の横には裕篤が立っていた。

「ようこそ、姫君。道長でなくて申し訳ないが、私がお相手いたそう。」

 唇を舐め、血走った目をぎらつかせ、にじり寄る。

 香絵は背中に悪寒が走り、後退さった。

 数歩退がると背中が壁に着き、もう後ろはない。

 悪意を滲ませた裕篤の笑顔に危機感が湧き上がる。手は刀の柄を握り締める。だが、相手は道長の父。抜くことが出来ない。

 裕篤が、香絵の震える右手を捻り上げた。

「そんな物騒な物は捨てなさい。そなたには似合わない。」

 空いた手で香絵の持つ鞘から刀を拭き、後ろへ投げた。刀は戸の脇の柱に刺さり、刀身が、姿を現したばかりの月の光を反射してきらめく。

 裕篤は香絵の胸を衣の上からぐっと掴んだ。

 はっと息を呑み、香絵が怯えた目で裕篤の顔を見る。裕篤の鈍く光る眼に、香絵の全身が寒気そうけ立つ。

 胸の膨らみを確認すると、裕篤の手は下へ撫で降り、袴の紐を解く。袴が床へ落ちる。上衣の紐も解かれ、衣が肩から垂れ、隙間から胸の谷間がのぞいた。

 抗う香絵の左手も捕らえると頭の上へ持ってゆき、右手と共に片手で壁に押さえ付ける。

 香絵の顎を持ち上げ、息がかかるほど顔を近付け、目を細めた。

「美しい・・・。」

 細くしなびた指で、艶々と光る紅い唇に触れる。

「どうした?恐ろしくて声もでないか。ふふふ。鳴いてみよ。その可愛い唇で叫んでみよ。」

 片頬で「ふふふ」と笑いながら、指で唇を撫で、首を伝い、胸へ。

 そこで裕篤の動きが停止する。

「ぅっ。」

 裕篤の身体が硬直し、顔が歪んだ。

 香絵を放し、左へよろけると、裕篤の後ろに静が立っていた。両手で香絵の刀を持ち、刀には血が附いている。

 裕篤が静を振り返ると、静は刀を持つ両手を脇でぐっと握り直し、裕篤へ身体をぶつけた。

 そして一歩二歩退がると、その場に座り込む。

 裕篤を貫いた刀はその瞬間で心臓の鼓動を止めた。壁に刺さり、息の無い裕篤の身体を支えている。

「静様・・・。」

 香絵も静の横に座り込むと、静は香絵の衣の前を合わせた。

「このようなお姿で・・・。」

 そう言って、泣き出す。

「申し訳、ございません。わたくしが、お一人、にした、ばかりに。」

「いいえ、いいえ。」

 香絵も静に抱き付き、「わああ」と声を上げ泣いた。



「香絵!」

 凛に報告を受けた道長が、美平と共に離れへ駆けつけた。

 内の様子に二人は唖然とし、ごくりと唾を飲む。


 静が香絵を抱き締めたまま、真っ直ぐ道長を見る。もう、泣いてはいない。

「わたくしがやりました。裕篤様をわたくしが殺しました。父のかたき討ちです。」

 父親の仇討ち。だからここにいる香絵は関係ない。静は瞳でそう訴えた。

 一国の王を殺したのだ。この後、どんな咎めがあるか分からない。遠賀ならば道長の権力でどうにでもなる。しかし、ここは賀川。裕篤を殺した罪を逃れようはない。咎めは自分ひとりが受けねばならない。決して香絵に咎が流れてはならないのだ。


 道長は香絵の側へ寄り、自分の羽織で乱れた姿を隠した。

「香絵様は大丈夫です。何事なにごともありません。」

 静の言葉に、道長は頷く。

 立ち上がると、裕篤の前へ。

 最後まで好きになれなかった父だが、この姿ではあまりに可哀相だ。道長は刀を抜いてやろうとした。だが、

「道長触れるな!」

 美平が叫ぶ。

 美平は座り込んでいる静のところまで行き、手を取り、立たせると、

「ここはこのままにして、行くぞ。」

 静の手を引き、出口へ向かう。

「道長はそちらの姫君を連れて。早く!」

 兄に言われるまま、道長は香絵を抱き上げ、離れを出た。

「兄上どうするおつもりですか。」

「私に考えがある。」

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