延郭寺騒動

第60話

 夕方、橙色に染まる佐々木の町へ着いた道長達一行は、賀川御所で裕篤に任務完了の報告をし、もてなしの誘いを丁重に断り、延郭寺へ静を迎えに来た。

「暮れた街道を行くのは大変でしょう。出発は朝にしてはいかがです?どうせどこかで野営とするのなら、この寺の門前を提供しますよ。食物も差し入れましょう。」

 という住職の言葉に甘え、ここに一泊することにした。

 延郭寺は尼寺。故に、男子禁制。道長達が足を踏み入れることは出来ない。野営地で皆と食事をとった後、せめて香絵だけでもゆっくり休ませたいと、道長は香絵を静に預けた。

 御所で香絵が裕篤と対面するのではと危惧していたが、意外にも裕篤はしつこく引き止めることもなく、ネチネチとした嫌味攻撃を覚悟していた道長は少々腑に落ちない。

 しかし、明日の早朝ここを発てば、夜には朱雀御殿だ。道長はほっと安堵の息を吐いていた。



 夜も更けてから、美平が道長の天幕を訪ねてきた。側近の二人と帰国後の打ち合わせをしていた道長はそれを中断し、快く迎える。

「兄上、こんな時刻に如何なされました?」

「討伐を無事終えた祝いだ。皆の労をねぎらってやろうと思ってな。」

 美平は大きな徳利を掲げ道長に示すと、布を敷き詰めた地面にどかっと腰を降ろす。

「外に積んである樽は、父上からだ。供の者達にも振る舞ってくれ。」

「有り難うございます。政次、兼良。お前達も行っていいぞ。」

「はっ。頂きます。」

 政次はいつでも冷静だが、振る舞い酒があると聞いた兼良は嬉々として、揃って出てゆく。

 天幕には道長と美平の二人だけとなった。

「このために」と道長は徳利を指す「わざわざお運びくださったのですか?」

「いや、頼みがあってな。ま、それは後で。とにかく、飲んでくれ。」

 持参した杯を道長に手渡し、徳利の酒を注ぐ。

 何か話題をと、道長が話しかけた。

「兄上の国はどうです?高辺が建ってからもう二年ですが、上手くいっていますか?」

 美平は渋面した。高辺のことはあまり考えたくない。

「駄目だ。何かと理由を付けては父上が私を賀川へ呼び出す。高辺にいる間がない。」

「兄上は父上のお気に入りですから、側に置いておきたいのでしょう。私など、こんな時しか声は掛かりません。」

「お前がそれを言うのか。私はお前の自由さに憧れていたというのに。」

 美平が苦く笑った。


 道長が賀川にいた頃、すでに母の亡かった美平は、時々道長の母を訪ねていた。まだ子どもだった美平にとって、優しい道長の母は心の拠り所だった。

 道長ともよく遊んだ。母を取り合って喧嘩もした。あの頃の二人は、母は違っても、世間の兄弟と変わるところはなかった。

 道長が遠賀へ行ってからは、会うことも話すこともなくなった。道長はいつの間にか、美平も裕篤と同じだと思うようになっていた。自分勝手で奔放な父と同類の人だと。

 だが、今道長の前にいる美平は、昔と変わっていない。道長の母が大好きで、弟の道長を羨ましく、そして大事に思う。あの頃のままの兄だった。


 そんな話をしながら兄と水入らずの時間を過ごしていると、天幕の外から政次が声を掛けてきた。

「道長様。寺の住職が挨拶に来ました。」

「うん。通せ。」

 美平が道長の横へ移り、入り口近くの場を空ける。

 住職と静が入ってきた。それを見た美平の目が微かに泳いだが、気づく者はいなかった。

 一方住職も、この場にいると思わなかったからか、美平を見て足を止めた。

「静。香絵はどうしている?」

「住職様に案内を頼まれましたので、庵の客間に一人でお待ちです。」

「すぐに戻ってくれ。住職は後で誰かに送らせる。」

「はい。ではお先に失礼します。」

 住職に挨拶し、道長達に一礼すると、静は天幕を出た。

「あ・・・。静様・・・。」

 住職は不安なのか老いて曲がった腰を伸ばすようにして静を引き止めかかったが、道長達の目を気にして止め、その場に座した。

 香絵を心配して静を帰してしまった道長を、美平が温い視線で冷やかす。

「噂の奥方か。聞いたぞ。男の衣を着せ、遠征にまで連れてきたそうだな。」

「何故それを?」

「ああ、悪い。秘密だったか。往路に御所で見かけたから、ちょっと調べた。私にも使える臣下はいるのだ。心配するな。父には言わないよ。」

 道長の一行に女がまぎれていると最初に気付いたのは父裕篤だったが、美平はそれを伏せた。裕篤は噂の奥方とは別人だと思っているし、彼女の話をしたとたん神経を尖らせる道長を不安にさせるのも悪かろう。美平は道長の執着ぶりに半ば呆れている。

「そんなに心配なのか?随分と大切にしているのだな。」

「あれは特別です。目を離すと何をするか分からない。」

「それで男ばかりの遠征にまで連れてきたというわけか。」

「まあ。そういうことです。」

 二人の会話を聞いていた住職を何気なにげに見た美平は、その手に視線を止める。微かに震えている様に感じた。



 静は庵の自分にあてがわれた部屋へ戻ってきた。今夜はそこで、香絵と床を並べ休むことになっている。

「香絵様。ただいま戻りました。」

 声をかけたが、返事は無い。

 障子を開ける。

 誰もいない。

「香絵様?」

 中に入り見廻すが、やはりいない。

 床の間に置いてあった刀もない。

『何処へ・・・。』

 胸がざわりと嫌な感覚を伝える。

 すぐに部屋を出て、人を呼んだ。

「誰か、どなたかいらっしゃいませんか?」

 静の呼び掛けに、一人の尼僧がやって来た。

 隣の部屋にいた静の叔母、凛も顔を出す。

「香絵様がいらっしゃらないのです。どちらへ行かれたか御存知ですか?」

 訊かれた若い尼僧が「ああ、それなら」と答える。

「道長様からのお言伝ことづてをお届けしましたら、お出掛けになりましたけど。」

「道長様から?」

 そんなはずはない。静はたった今、道長のところから戻ったのだ。

「どちらにお出掛けになったのか、分かりますか?」

「『裏の離れとはどちらですか』と訊ねられましたので、お教えいたしました。」

「叔母様。道長様にお知らせして、離れまでお連れください。」

 言い置いて、静は離れに急ぐ。

 尼僧が廊下を駆けだした凛に叫んだ。

「でも、殿方は寺には入れません。」

「緊急事態です。お見逃しを。」

 凛は道長の元へ向かう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る