賀川遠征

第54話

 その日、明日賀川へ発つ者全員に休日を与えた。それぞれが準備を整えたり、家族と過ごしたりした。



 道長も政務を早めに切り上げ、明日の準備を確認し、香絵の様子を見に奥へと渡った。

 香絵は静と、明日の荷を確かめていた。

「静様、本当にこんなに必要なの?」

 香絵のために静が纏めた大きな荷に、香絵は不満そうだ。

「当たり前です。お出掛けの間は殿方の衣しか身に着けられないといっても、香絵様は女性なのですよ。きちんと身だしなみを整えておかなければ。」

「でもこれや、これ。あ、これも。必要ないと思うのだけど・・・。」

 纏めた荷の中から香絵が、紅や、香や、装飾品を取り出す。

「いいえ!昼はともかく、夜は紅を引いて、香や小物くらい身に着けて、道長様のお気に召すように努めなければ。」

 香絵の出した物を、静が荷に詰め直す。

 二人の様子を立ったまま笑って見ていた道長に、静がようやく気付いた。

「では、わたくしはこれで退がりますが、荷を勝手に減らしたりしないでくださいね。行った先で困っても遅いのですから。」

 言い残して、静は去る。


 香絵は溜め息を吐いた。

「ははは。相変わらず静の心配性は健在か。しかし、これはまた凄い荷物だな。」

 いつでも姫の荷というのは大きくなりがち。それにしても、目の前に積まれた荷は道長も呆れるほどの数と大きさだ。

 小柄な女性なら足を伸ばして寝られるほどの、大きな行李が二つ。はちきれんばかりに詰められ、蓋が浮いている。それでも入り切れなかった物が、風呂敷や袋に、これまたぎゅうぎゅうに詰め込まれ、五つ、六つ。

「これでは運ぶ馬がかわいそうだ。静には悪いが、やはり少し減らそう。」

 道長が手伝って、香絵が荷を選り分けた。

 香絵が必要と見なしたのは、ほんの身の回りの物だけ。一つの行李に収まり、余裕がある。

 道長がそれに、せめてこれくらいは、と思うものを足す。薄い色の口紅や、小さな髪飾り。

「持っておけ。私の楽しみだ。」

「はい。」

 昼間は殿方と同じ格好をして女らしくないと自覚している。でもいつでも、道長は香絵をちゃんと姫扱いしてくれる。嬉しかった。


 香絵が荷を結ぶのを待って、道長は香絵を引き、抱き寄せる。

 口づけると、香絵の手が道長の胸を押した。

「香絵、私にまだ待てと言うのか。・・・残酷なやつめ。」

 見詰める道長から、香絵は目を逸らす。

「その気にならぬなら仕方ないな。今まで待ったのだ。もう少し待つとするか。」

 明日からは賀川。道長は当分、香絵を抱くのは諦めることにした。



 香絵を寝かしつけ、自室へ戻ろうと香絵の部屋を出た道長を、静が廊下で呼び止める。

「道長様、お願いがございます。」

「静が私に願いとは、珍しいな。何だ?」


 二人は幼い頃から親しくしていた。道長は静を姉のように思い、懐いていた。

 しかし静にとって彼は、年下であろうと、どんなに自分に懐いていようと、仕えるべき主人。敬い、尊び、重んずる。決してそれを崩さない。

 だから私的な願い事など、珍しいどころか、これまで一度もなかった。


「わたくしを賀川へお連れください。」

「賀川へ?あんなに賀川を嫌っていたのに?」

「わたくしが嫌いなのは、賀川ではありません。」

 嫌いな男が頭に浮かび、嫌悪の表情が顔に出るのをおそれ、静は下を向く。

「父の裕篤か。」

 静は何も答えない。

「にしてもだ。何故賀川に行きたい?今回の遠征は山賊討伐。女は誰も連れていかない。」

「香絵様は行かれます。」

「あれは特別だ。静も解かっているだろう。」

「はい。」


 香絵は特別。道長にとって何より大切で、手放せない存在。言われずとも十分解かっている。

 しかしそれは、道長にとってのみではない。静にとってもまた、何より大切で特別な存在。今では道長と変わらない重さで、この心を占めている。

 だからこそ、許しを請う。無理を承知で、連れていって欲しいと。


「昨夜母がわたくしの元へ参り、賀川へ行くように言うのです。行って香絵様をお護りするようにと。」

「亡くなった母君が?」

 静は頷く。

「わたくしはきっと行かねばならないのです。どうかお連れください。」

 静が両手を衝き、額を廊下へ着ける。

 道長は心霊現象を信じているわけではない。しかし、全く否定も出来ない。予感とか虫の知らせということもある。

「分かった。考えておく。約束は出来ぬが、仕度はしておけ。」

「はい。」

 静は頭を下げたまま、道長を見送った。



 その返事は次の早朝にあった。

 道長が、出発の準備でごった返す奥の間へ渡る。

「静、仕度は出来ているか?」

「はい。」

 部屋の隅で静を捕まえ、再確認する。

「本当にいいのか。今回の遠征の目的は山賊討伐。女は戦いとなる国境まで連れていけない。静だけ父のいる佐々木の町にとどまることになるぞ。」

「はい。かまいません。」

「・・・分かった。祖父母の墓参りのため、静だけ特別に同行を許す。確か佐々木の町外れの寺に静の叔母上がいたな。私達が国境へ出ている間、そこへ滞在出来るよう手配しておこう。」

「ありがとうございます。」


 それを聞いて深い事情を知らない香絵は喜びの声を上げたが、

「どうしてわたくしは駄目で、静様はよいのですか?!」

 栄が以前にも述べた不満を、再び繰り返す。

 栄は香絵ほど袴に馴染んでおらず、男の中に混じるとどうしても浮いてしまう。それが香絵の存在を示すことになってはいけないと、栄の同行は許されていなかった。

「そんなの不公平です。静様が同行されるのならわたくしもお連れください。姫の衣で佐々木にお留守番でもかまいませんから。」

 しぶとく道長に懇願していたが、やはり許しは出なかった。

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