第53話
幼い姫が覗いている。
「桜。お客様だから、向こうのお部屋で待っているように言ったでしょう?」
「そちらの姫君は?」
「はい。娘でございます。桜、ご挨拶を。」
『えっ、嘘!政次様って子持ちだったの?意外。そんな風には見えない。』
歳から考えれば、政次は道長より上。結婚したのもずいぶん前のようだから、すでに子どもがいても不思議はない。まだいないほうが、なにか問題でもあるのかと勘繰られそうだ。
だが香絵は、政次から父親の雰囲気を感じたことがなかった。
見た目は多少老けて見えるくらいだし、若く見えるからという理由ではない。
落ち着いていて冷静。人を受け止める大きさも、柔軟性も持っている。それは護るべき家族があるから、包むべき人がいるからだと、今なら分かる。
それなのになぜか香絵は、政次に子どもがいると考えたこともなかった。
香絵には不思議でならなかったが、その理由は政次の仕事に対する姿勢にあった。
家を一歩出れば、何よりも第一に考えるのは我が主のこと。頭のすべてをそのために働かせ、他のことは一筋も思考に割り込ませない。
道長のことのみを考え、道長のためのみに行動する。
そんな真面目で、一途で、正直な政次の姿勢が、周囲の誰にも政次の私事を感じ取らせないのだ。
『ふうん、そっかー。こんな可愛い姫様を隠してたんだー。』
小さな姫がきちんと正座して、ぺこんと頭を下げる。
香絵の心の中の、弱点ともいえる部分が刺激される。目尻が溶けて落ちそうで、両手で押さえた。
『まあ♡何てかわいらしい♡政次様にお子様がいらしたなんて。知っていたらもっと前に遊びに来ましたのにぃ。』
心の声をそのまま出しては、引かれそうだというくらいは香絵にも判る。香絵は冷静を装って桜に呼びかける。
「ごきげんよう。桜様とおっしゃるの?」
桜が頷く。
『可愛いっっ。』
ダメだ。気持ちが抑えきれない。香絵はとろとろに
「お利口さんですね。こちらへいらっしゃって。一緒にお話いたしましょう?」
声だけでもなんとか平静を保って、香絵が両手を開いて招くと、桜は香絵の方へ歩いて来た。膝に抱くと、小さな体は両手の間にすっぽり収まる。
『んんーっ可愛い。』
何かあげたい。貢ぎたい!という衝動にかられた香絵は辺りを見回して、
「お菓子はいかが?」
香絵のために用意されていたお菓子を桜に差し出した。
一度は帰りかけたのに、桜の相手を楽しんでいる香絵はなかなか腰を上げようとしない。
お供に徹し、部屋の隅で黙って控えることに決めていた栄が気を揉んで、結局黙っていられずに何度か「香絵様、そろそろ・・・。」と促してみたのだが、効果はなかった。
もうすぐ昼という頃になってやっと、香絵は桜を膝から降ろした。これ以上居座ると、梢はお客様の昼食の心配をしなければならないだろう。さすがに体調の悪い妊婦にそこまで気を遣わせてはいけない。
「お名残惜しいのですけど、もうお
「いいえ。香絵様のおかげでとても気分が楽になりました。お時間がありましたら、また遊びにいらしてください。」
「はい、必ず参ります。その時もまた、香絵と遊んでくださいね?」
腰を屈め桜に言うと、こくんと頷いた。悲しそうに見上げる瞳は微かに濡れて、口はぎゅっと結ばれている。香絵が帰ってしまうのが寂しくて泣きそうなのを我慢しているのだ。
『なんって可愛いの。わたし、きっとまた来るわ。戻ったらすぐ、賀川のお土産を持って、きっと会いに来るわ。』
香絵は梢に、くれぐれもお身体を大切にと挨拶して、政次の邸を出た。
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