第52話
政次の邸に着くとすでにもてなしの準備が出来ていて、香絵と栄、別室の兼良と和馬にもお茶とお菓子が振る舞われた。
主人が留守の時に、家族でもない男を奥方に合わせたりしない。それがこの国の常識だ。
だが政次が使用人に上手く伝えていたのだろう。それとも子どもと見なされたのか?男装した香絵と栄は邸の奥へ通された。
ふたりを奥の間で出迎えた梢はやはり具合が優れない様子で、顔色も悪い。静と同年と聞いているが、つわりで疲れているせいか、静より幾分年上に見える。
政次もその落ち着いた容姿と物腰から、三十に届かないとはとても思えないが、しっとりと穏やかな空気を纏うふたりはお似合いの夫婦だと思う。
「これを預かってきました。」
ひと通りの挨拶を済ませてから、香絵は梢に薬を渡す。昨日政次から梢の容態を詳しく聞き出し、御殿医に無理を言って処方してもらった。
妊婦には使えない薬品が多いらしく、中身は栄養を補給する薬のようだ。
「まあ。香絵様がお届けくださるなんて、恐れ入ります。」
梢はつわりのせいばかりでなく、青褪めた顔で恐縮する。
彼女は当然、香絵が誰なのか知っている。邸に招くのだから、しかも目的は梢に会うことなのだから、政次が梢に伝えておくのは当たり前だ。しかしそれは、梢に極度の緊張を与えてしまった。
遠賀では、夫の身分はそのまま妻の地位の上下を位置付ける。
最高位の殿方の奥。それはつまり、この国のすべての女性の内で一番高い地位を所持している、と言うこと。
政次は今では道長の片腕とまで言われ、側近くで仕えさせてもらっている。しかし、元は大した身分を持っていない。
父親は、朱雀御殿へ年に一、二度、それもただの使い走りにくる程度の、下っ端役人。いつも建物の玄関で通信担当の役人に伝言書を渡すだけ。
彼のような下級の役人にとって、朱雀御殿は雲の上の世界。そこへ住む王――その頃はまだ女王の時代だったが――ともなれば、天上の神にも同じ存在。
大きな行事に来賓として招かれた王の顔を、遠く一般席の一つから一方的に拝めることはあっても、肉声の聞こえるほどの距離に寄る機会さえ、一生訪れはしないだろう。
そんな家の五男に生まれた政次もまた、父と似通った人生を歩むのだと思っていた。王位を継いだばかりの道長に剣の腕と算盤の速さを見いだされ、政務の補佐として取り立てられるまでは。
梢は政次がまだ、街の警備役人の邸で経理の手伝いをしていた頃、望まれて輿入れした。
彼女自身もまた、一介の役人の娘。
夫がまさかこんな破格の出世をするなどと、当時は露ほども思っていなかった。
それが、王の奥方という雲上の貴姫と、こうして向かい合って座を共にするなんて・・・。
恐怖にも似た緊張が、梢の顔から血の気を奪う。
「梢様、お腹に触れさせていただいてもよろしいですか?」
「はい。どうぞ。」
尊い方に触れていただくなど畏れ多いが、所望されれば否はあり得ない。
香絵の傍へ寄ろうと動きかけた梢に、「いえ、わたしが行きますから。」と香絵から近付き、まだ普通と変わらなく見える梢の腹に、そっと手を当てる。
腹から香絵の手のくすぐったい感触が伝わると、その温もりが梢の硬まっていた体を溶かしていった。
体からゆっくりと心へ染み込み、柔らかく・・・温かく・・・。
「そうしていただくと、とても気分が楽になります。香絵様の手には不思議な力があるようです。」
「そう?では少しこうしていますね。」
梢はさっきまでの気持ち悪さがなくなって、本当に、とても心地良かった。
宙を漂うようなふわふわとした感覚に心を任せていた梢だが、暫らくすると香絵が手を引いた。香絵の顔は、何だか思い詰めた表情だ。
梢が心配して訊ねる。
「どうかなさいましたか?」
香絵は少しの躊躇いを見せたが、言葉にすることに決めたようだ。
「梢様は、毎日このお邸で政次様の帰りを待っていらっしゃるのでしょう?お仕事で朱雀御殿にお泊りになる日も多いのに、淋しくはないですか?」
梢は少し眉尻を下げて微笑む。
「淋しいです。」
たが母となる人の、優しく包み込むふんわりした笑顔に変えて、続ける。
「でも待つ事がわたくしのお役目なのです。政次様は外で大変なお仕事をして、疲れて帰っていらっしゃいます。わたくしはお帰りを待っていて、家にいらっしゃる間、出来る限りのことをして、政次様を癒して差し上げるのです。それに、」
梢は自分の腹に目をやる。
「もうすぐこの子も産まれます。そうすれば、わたくしにはまた、この子の母というお役目も増えます。待つ淋しさとは引き換えにならないほど、わたくしは政次様に幸福を頂いているのです。」
梢は腹に手を当て、それを幸せに見詰める。
その姿に、香絵は自分を重ねてみた。
『道長様もわたしに、梢様のような生き方を望んでいるのかしら。わたしは梢様のようになれるかしら・・・・・・。』
香絵は少しでも道長の側にいたくて、奥から出てついて歩いている。でも道長は、香絵には奥で自分の帰りを待っていて欲しいと思っている。
それを知っている香絵は、今回の賀川の遠征に本当について行っていいのか、迷いがあった。
「香絵様。これはわたくしの幸福です。わたくしと政次様の選んだ幸福。遠賀ではこれがあたりまえの夫婦の姿と思われています。わたくしは、いえ、遠賀の姫は皆、他の生き方があるなど考えることもありません。
でも、香絵様には香絵様の幸福があります。そして香絵様が幸福な生き方をするのが、香絵様を心から愛していらっしゃる道長様にとっても幸福なことだと、わたくしは思いますよ?」
おわかりになりますか?と香絵に微笑みかける。
「香絵様と道長様のお姿は、わたくしの憧れです。」
梢に言われ、香絵の心が幾分軽くなった。
「そうですね。わたしはわたしのやり方で、道長様のお役に立てばよいのですよね。」
そう言ってにっこり笑った笑顔は、香絵自身が光を放っているかのように眩しかった。
梢は目を細める。
「香絵様のその輝く笑顔は、何よりも道長様のお役に立っているのではないでしょうか。」
そうだろうか。確かに笑顔は力をくれる。道長が笑いかけてくれると、香絵の心は温まり元気になれる。もし道長も香絵の笑顔を見てそう思ってくれるなら、
「もしそうなら、とても嬉しい。ありがとうございます。梢様。」
香絵はもう一度梢の腹に手を当て、まるで中の赤児が見えているように話しかけた。
「少しの間、お父様に会えませんね。お父様は道長様にとってとても必要な方ですから、ちょっと貸してくださいね?なるべく早くお返しできるようにわたしも頑張りますから、元気で待っていてください。」
梢に目線を上げる。
「ごめんなさい。お見舞いに来たのにわたしのほうが励ましていただいて。今日は本当に、お会い出来てよかった。それでは、そろそろ・・・。」
疲れては体に障るのだからくれぐれも長居はしないように、と道長に言われている香絵が名残惜しく帰りの挨拶をしようとしたところで、梢の後ろの襖が細く開いた。
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