政次邸

第50話

 朝目覚めると、姫達の部屋が何だか騒がしい。食事を終えた香絵は訊ねる。

「静様、何かあったの?」

「はい。ここへ通いの姫君が『政次様の奥方様がご懐妊なさった』との噂を聞いてきたのです。」

「まあ。本当に?」

「はい。本当のようですよ。」

「きゃあ。素敵♡」

 折よくそこで、廊下に道長の足音が近付く。香絵は急いで迎えに出た。

「道長様、道長様。政次様が赤様をお産みになるのですって。知ってました?」

「何?香絵、政次は男だぞ。産むのは奥方だ。」

「あら?はい、そうです。奥方様の政次様が・・・。いえ、えっと政次様の・・・。」

「香絵、落ち着きなさい」

「だって赤様よ?産まれるのよ?きゃあ、嬉しい♪素敵♪きっと可愛いですよ♡」

 香絵は紅潮させた頬を両手で押さえ、なぜか興奮している。

「あ!」

 突然思い付いて道長に訊いた。

「男の子でしょうか?女の子でしょうか?」

 道長は頭痛を覚えた。

「そんなこと、まだ分かるはずなかろう。落ち着きなさいというのに。」

「ほら。早く行きましょう。政次様にお祝いを申し上げなければ!」

 香絵は道長の腕をぐいぐいと引っ張る。

『何なのだ、この喜びようは。そんなに赤子が好きなら、私を拒んだりせず、自分で産めばいいではないか。』

 昨夜の事を未だ引きずっている道長はちょっと不機嫌。


 夏の盛りの季節だが、朝の日差しはやわらかい。

 練習日和の穏やかな風が吹く裏庭で待っている政次を見付けると、道長の腕を放し香絵が駆け出す。

 置いていかれた道長は、またちょっと不機嫌を増す。

「政次様。赤様が産まれるって本当ですか?」

「はい。私も昨夜、奥に聞いたのですが。」

 政次が照れくさそうに答える。

「きゃあ♡おめでとうございます。」

 政次の手を取って――香絵は道長の嫉妬深ささえ忘れ去っているのだろう――ひとしきりぶんぶんと振ると、また「あ!」と思いたって道長の方へ駆け戻る。

「道長様、わたしにお休みをください。明日、政次様のお邸へお見舞いに伺いたいの。」

 不機嫌増し増しの道長は、仏頂面でわざと意地悪く言ってみた。

「休みはいいが、見舞いはどうかな。奥方はこのところ気分が優れないらしいからな。」

 道長の不機嫌な顔より、話の内容が応えたようだ。

「そうなのですか。ご気分がよろしくないのですか。」

 香絵の調子が下ちてしぼむ。効果がてきめん過ぎて、少し大人げなかったかと道長の心もちくりと痛んだ。

「大丈夫ですよ。是非、見舞いにいらしてください。気分が悪いのはつわりのせいですから、香絵様に話のお相手をしていただければ、奥も気が紛れると思います。」

 がっかりして落ち込んだ香絵の調子を、政次が救い上げた。

「本当?お伺いしてもいいかしら。ご迷惑ではないですか?」

「はい。」

 政次の笑顔に、香絵の調子が完璧に復活。

「よかった。何をお持ちしようかしら。つわりの時は酸っぱい物を好むというけれど・・・。」

 香絵は考えられるだけ考えて、めいっぱい思案している。


 道長はさりげなく政次の横へ。

「政次。すまんな。」

「いえ。香絵様にお見舞いいただければ、奥の心も晴れるでしょう。香絵様は人を温かくする不思議な雰囲気をお持ちですから。」

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