第49話

 香絵を手伝って必要な書物を選び出すと、道長は香絵と共に執務室へ戻った。

 待っていた政次が道長へ報告する。

「道長様、賀川から催促の書状が届きました。机の上に置いています。」

 道長は机上から手紙を取り上げ、開ける。読み進めるにしたがって、眉間に皺が寄る。

「・・・・・・。やはり一度は出掛けねばならないか。」

「賀川へですか?」

 あまり感情を表情に載せない政次には珍しく、露骨に嫌な顔をした。

「ああ。断ってこれ以上機嫌を損ねると、あの父上の事だ、どんな無理難題を言ってくるか分からないからな。」

「その書状の内容も十分無理難題だと思いますが、」

 書状の中を見なくても政次には内容の見当が付いているのだろう。一つため息を挟んで、「そうですね。では出立はいつにいたしますか?」と訊いた。

「五日後。」

「かしこまりました。」

 政次は手筈を整えるため、部屋を出た。


 道長は横にいる香絵の醸す空気に気付く。この顔は・・・・・・。

 瞳はきらきら。胸はわくわく。

「道長様、お出掛けなさるのですか?」

「ああ。しかし香絵は、」

「はい?」

 きらきら。わくわく。きらきら。わくわく。〃〃〃〃〃〃。

「いや・・・いい・・・。」

 道長は迷っていた。香絵を連れていくか、置いていくか。しかし、今の香絵の様子を見て決めた。どうせ置いていくと言っても、素直に受けるとは思えない。その間に何が起こるか分からないし、何をしでかすかも分からない。

 それならば連れて行って、傍で見ているほうが安心だ。

「長居をする気はないが、どれほど掛かるか分からない。しっかり準備しておくように。」

「はい♪」

 飛び上がらんばかりの香絵の喜びように、道長は額に手を当てる。

『やれやれ。』


 道長が遠賀を離れる訳にいかず、徹元に来てもらったのは、このためだった。道長の父裕篤は、道長に山賊討伐を頼んできたのだ。山賊の悪行が目に余るが、賀川には現在手の空いた者が無く、道長に出て欲しいと。

 しかしここ最近、賀川に大きな問題が発生したとは聞いていない。賀川のような大国で人手がないはずはない。

 先日遠賀を訪れた際、裕篤の思ったように事が進まなかった、それに対しての嫌がらせとしか思えない。

 分かってはいても、賀川は大国、遠賀はその隅にある小国。力関係は目に見えている。

 先延ばしにしてきたが結局断ることの出来ない、道長の辛い立場があった。


 一抹の不安が、胸を過ぎる。

『何事も起こらねばいいが・・・・・・。』



 その夜。今夜こそはと決心を固め、道長は奥へ渡る。


 香絵は居室の中ほどに座って、脇息に身を預け物語を読んでいる。

 道長は右手の人差し指を立てて唇に当てながらそっと部屋へ入り、他の姫達に『退がれ』と左手で合図した。

 姫達は、道長が物語に夢中になっている香絵を驚かそうとしているのだと思い、『道長様も子どもっぽいことをなさるのね。』などと考えながら、香絵に気付かれないように後ろ側の襖から、くすくす笑って退出した。


 道長は静かに香絵の背中に近付く。不意打ちは卑怯だが、こうでもしないとまた香絵の空気に流されてしまいそうだ。

 後ろからふわりと香絵を抱き締めた。道長の冷えた右手が、香絵の寝衣の懐へと滑り込む。

 香絵は息を呑む。手の冷たさと突然の出来事に、心臓が止まるかと思った。

「香絵・・・。」

 左手で帯を解き、首筋に口付ける。

「道長様。待って・・・。」

「駄目だ。待てない」

 道長の手は、香絵の衣を取ってゆく。

 道長の心は分かっている。香絵も同じ気持ちだから。

 このまま道長に抱かれてしまいたい。

『でも・・・。だって・・・。』

 矛盾した心の葛藤が涙になる。

 多少の抵抗は無視するつもりの道長だったが、泣かれるとは思っていなかった。手を止める。


「香絵・・・・・・。そんなに嫌なのか?」

 香絵は首を振る。

「待って・・・。まだ・・・。・・・もう少し。」

 後ろからはうつむいた香絵の顔は見えない。ただ、涙が膝の衣を濡らしていく。

「分かった。今夜は止めておく。だが覚えておいてくれ。私は香絵を愛している。だから欲しいと思う。決してただの欲望のためではない。香絵が愛しくて仕方がないのだ。」

 道長が香絵を背からぎゅっと抱き締める。

「ごめんなさい・・・。」

『わかっています。でも・・・。』

 香絵は、次から次へと溢れ出す涙を、とめることが出来なかった。

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