逡巡

第47話

 その日、道長は奥へ香絵を迎えに行かなかった。

 昨夜は一睡もせず明け方まで話していたので疲れているはず。目覚めれば出て来るだろうと、執務の間に詰めていた。

 だが、香絵は現われなかった。夕刻、仕事を終える時間になっても、香絵は姿を見せない。

 体の調子でも悪いのかと心配になった道長は、執務の間から直接香絵の部屋へ渡った。



 香絵は机に向かっていた。夢中で何かをしている。そっと近付き、背中から被さるように、何をしているのかのぞく。

 香絵は白い紙に、植物や鉱物から採った絵の具を載せ、絵を描いていた。

「これは?」

「あ・・・。」

 描くことに夢中で、道長が来たことに気付かなかった香絵は、声を掛けられ驚き、筆を誤った。

「ああ。すまん。」

「いえ。いいんです。夢があまりに美しかったから、描いてみただけなの。」

 香絵は筆を置き、道長へ向く。

「ごめんなさい。いらしたのに気付かなくて。お仕事にも出なかったし。」

 道長は香絵の横で胡坐をかく。

「かまわないよ。私は今でも香絵は奥にいるほうが望ましいと思っているからね。」

 道長の意に添えない香絵は、苦く笑った。


 机の周りには香絵の描いた絵が四枚。どれもまだ絵の具が乾いていない。滲ませないように気を付けながら、道長は手に取って観る。

 背に空色の翼を持った美しい人が立っている。紫色の空に右半分の月が懸かり、その人は沢山の花を腕に抱える。見たことのない衣装を身に着けて、絵の外にいる誰かに笑いかけている。

 絵とは思えない細やかな描写で、その人はまるで生きているよう。腰まである巻き毛が風になびいて、揺れているような錯覚さえ覚えた。


「美しい絵だ。これを夢に見たのか?」

「ええ。」

 他の三枚と描きかけの絵にも、人と月がある。それぞれ季節が移り、月は違った形をとっているが、同じ人と月。

「これは誰?」

「さあ。夢の中で誰かに何とか呼ばれてたけど、よく覚えていないの。」

 しかし、道長には分かった。背に翼を持つこの人は月の天使だ。きっと徹元と再会した事で、記憶の断片が夢に蘇ったのだろう。

 封印が解け始めたのかも知れない。

 香絵の見た夢は、巫子の持つという不思議な能力と、何か関係があるのだろうか。

 この中に手掛かりがあるのではないかと、道長は絵をじっと見詰めた。


「この景色は都紀か?」

「どうかしら。わたし、都紀を思い出せないから・・・・・・。」

「この絵、私に貰えないか?」

「お気に召したのならどうぞ。これは?」

 香絵の指は描きかけの一枚を指す。

「描き終えたらそれも貰おう。」

「じゃあ、思い出せるうちに描いてしまいますね。夢で見たのはもっと美しかったのだけど、上手く表せなくて・・・。」

 残念そうにこぼすと、香絵は机に向かい筆を執る。


「香絵の見た夢か。どんな夢か聞きたいな。」

 香絵は彩色皿に絵の具を溶きながら答える。

「それが、覚えてないの。とても哀しかったような・・・。幸せだったような・・・。目覚めた時、本当に涙が流れているほど感動したんだけど・・・。」

 もう一度思い出す努力をしてみたが、やはり駄目だ。かるく頭を振る。

「ただ、風景の美しさは心に残っていて、忘れないうちにと描いてみたんです。」

 道長は横で香絵の手元を見ていた。筆が滑るように動き、色を乗せてゆく。


 以前、香絵の文字の美しさや、手の速さ、計算の速さに驚いた。

 徹元の話で巫子の修行に依る成果だと分かったが、絵を描く事も訓練したのだろうか。

 そういえば隣国から道長の父裕篤が突然香絵に会いに来た時、香絵は自分の顔や体に色をのせて重病にみせた。あれも大した出来だったが、絵を描く才能と関係するのか?

 道長はあの日の騒動を思い出し、喉から漏れ出そうになった笑いをクっと押し込んだ。集中している香絵を邪魔したくない。


 ただの紙に見る見る景色が浮かび上がり、間もなく一枚の絵画となる。

 香絵が筆を置いた。

「どうかしら?」

「うん。これもまた美しい。しかし・・・。」

 道長が香絵を抱き寄せる。

「香絵のほうが美しい。」

「道長様・・・。」

 香絵の、照れて少しはにかんだ様子が愛らしい。


 道長が口づけようとした時、香絵が道長の手を取る。

「あら?道長様、爪が伸びてますよ?わたしが切ってさしあげます。」

 香絵は小物入れから爪鋏と耳かきを取ってきた。

「ついでに耳のお掃除もしましょ。わたし上手なのよ?」

 灯りを近くへ運んで「さ。横になってください。」と香絵に促され、道長はその場で仰向けになる。



 右手を香絵に取られ、左手で側にあった絵を取る。


 差し込む月の光が、畳に窓を描く。庭の木々の隙間をさわさわと風が通る音が耳に優しい。

 部屋にはふたりきり。ぱちん、ぱちん、と爪を切る音だけが空気を揺する。

 静かに時が流れる。


 右手が終わると、香絵は左手の方へとまわる。絵を右手に持ち替え、左手を香絵に預ける。

 それが終わると右足、そして左足。

 爪を切り終え、香絵は懐紙に取った爪を包んで、屑入れに捨てた。


 正座した膝の上に、道長の頭を手で「よいしょ」と持ち上げ、載せる。

 香絵が耳かきを使いながら訊いた。

「いかがですか?」

「ん。なかなか心地良い。」

「痛い時は言ってくださいね。」

「うん。」


 右の耳を終えたので、左側を上にしてもらおうと道長に声を掛ける。

「道長様、・・・道長様?」

 道長は寝ていた。



 香絵は慎重に道長の頭を膝から降ろすと、部屋の隅のついたてに掛けてあった自分の衣を持ってきて、道長に掛けた。

 小さな声で、寝室の向こうにいるはずの静を呼ぶ。

「静様。」

「はい。何か?」

「道長様がお休みになられたの。お床へ移すのを手伝って。」

「はい、ただいま。」

 床はすでに寝室に延べてある。道長が渡ってくる前に、部屋付きの姫達が前もって用意することになっている。


 香絵の床は二人用の幅の広い物。普通夫婦なら一緒に寝るが、いつも香絵はそれに一人で寝る。

 眠るまで、傍に道長がついていてくれるが、一緒に床へ入ることはない。香絵が眠ったら道長は自室へ戻ってしまう。

 道長にしてみれば、朝まで香絵の横で過ごし、その上理性を保ち続けるのは、かなり辛い。睡眠不足になるのは目に見えている。香絵が忠勝の家にいる頃がそうだったのだから、辛さは身に染みている。

 そのため部屋へ戻ることにしているのだが、しかしそんなこととは知らない香絵は、目覚めた時に道長がいないのは淋しかった。


 姫達を呼んで道長を床へ移す。香絵が頭を支え、他の姫達と道長を持ち上げる。

「一、二、三。」

 すぐ横まで持ってきた布団へ一旦降ろす。そして布団の端を皆で持って、寝室へ運んだ。

 身体を移されても、道長は熟睡したまま。

『これで目覚めないなんて、よほどお疲れなのね。』

 徹夜で香絵と徹元の昔話に付き合って、午前中香絵が寝ている間も、道長は国務を果たしていた。

 疲れるのも無理はない。


 香絵がそっと道長に上の布団を掛けると、姫達は「お休みなさいませ。」と小さく言って退がる。

 灯かりを消し、香絵も道長の横にもぐりこんだ。

 窓の障子越しにす十六夜の月明かりが、ぼんやり部屋を照らす。

 これまでも一緒にひと夜を過ごしたことは何度もあるのに、いつも香絵のほうが先に眠ってしまうので、道長の寝顔を見るのは初めてだ。

 昼は決して見ることの叶わない、無邪気で無防備な顔。

 午前中寝ていた香絵は、今は眠れそうになくて、暫らくの間目の前にある道長の寝顔を愛しく眺めていた。

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