第42話

 香絵は奥の間まで戻ったが、悲しくて涙が止まらない。こんな様子で部屋へ帰っては、皆に心配を掛けてしまう。

 部屋へは帰れず、奥庭へ出て廊下から見えないよう、りらの樹と桔梗の花の陰に隠れて泣いた。



 道長は香絵を父に返すかも知れない。香絵には顔さえ思い浮かばない父に。

 手紙にれば父は遠賀の国の人ではないらしい。

 父の元へ返されたら、父の国へ行くことになる。遠い異国。道長には会えない、遠い所。

 香絵にはその国の記憶がない。知らない場所と同じだ。

 なのにそんな所で道長に会えない毎日を暮らすなんて、淋しい。淋しすぎる。

 ああ、切ない。我慢しても、泣き声は漏れる。

「ぅっうっぅ―――くっぅっ――。」


 道長は香絵の部屋へ行く途中、奥庭の隅に香絵を見付けた。

 隠れているつもりなのだろう。姿はりらの樹と桔梗の花に阻まれて見えない。

 だが、抑えきれない忍び泣きが漏れ聞こえる。

「香絵・・・・・・。」


 見つかってしまった。せっかく隠れていたのに。きっと今はとても酷い顔をしている・・・。顔を上げられない。見過ごしてくれればよかったのに。


 道長が、頑なにうずくまっている香絵の肩に手を置く。


 酷い顔を見せたくはないけれど、見つかったのなら仕方ない。

 涙に濡れた顔で香絵は振り返った。

 はすに見上げる。


 振り返ったその顔は涙に濡れている。

 灯篭の炎が花の色を取り込んで、涙に反射している。

 儚げなその泣き顔に、道長の胸が痛んだ。



「どうして?どうして帰さないと言ってくれないのですか。何故、父を呼ぶのですか。わたしが奥でおとなしくしていないから?わがまま言って道長様につきまとうから?お仕事のお手伝いしたいって言ったくせに役に立たないから?もう保護者の役は面倒になってしまった?」

「そうではない。そうではないよ。香絵のわがままなど可愛いものだし、香絵は十二分に役に立ってくれている。だいたい保護者の役ってなんだ?そんなもの求められても私は引き受けられんな。父の役も兄の役もごめんだ。」

 道長はうずくまったままの香絵を背中から抱き締める。

「男として愛している。放したくない。本当に。心から。」


 香絵が道長を好きだと言った日、香絵の気持ちを知った日に、はっきり、明確に、確信した。香絵は、香絵に対する道長の気持ちを思い違いしている。

 それからの道長は「男として」「男女として」と意図して言葉にしてきた。未だ、通じた様子はないが。


「道長様・・・・・・。」

 解かって欲しいと、道長は言葉を重ねる。

「しかし、香絵のお父上が連れて帰ると言えば、止めることは出来ない。そなたのお父上は都紀つきという国の王だった。そなたは都紀の王女だったのだよ。それを、いくら記憶を失っているとはいえ、勝手に妻に迎えるなど許されないことだ・・・。どう事が運ぶかは、会いに来られるお父上次第なのだよ。」

「そんな・・・。それが分かっていて、どうして道長様は父に連絡などしたのですか!?」

 香絵の顔を見ているのが辛すぎて、目を逸らした。

 身体を離し香絵の手を引き、部屋の方へ歩きながら話しを続ける。

「香絵には昔の想い出がない。遠賀へ来てから幾月も経つのに、思い出す気配もない。記憶が失いことなど、私にはどうでもいい。香絵さえいてくれれば。だが、香絵にはこのままでいいはずがない。」

「いいえ。わたしもこのままで、このまま道長様のお傍にいられるだけで・・・。」

 道長が歩くのを止める。


 香絵の言葉は嬉しい。それならば、香絵がそう思ってくれるなら、このまま・・・・・・。

 いや、香絵のために、それは出来ない。


 辛い顔を香絵に見せたくなくて、前を向いたまま言う。

「香絵は無意識で、気付いていないのだろうね。りらの花が・・・懐かしいと言ったのだよ。りらは寒い地方から取り寄せた樹だ。北に位置する香絵の国にも、きっとたくさん咲いているのだろう。そなたはりらを見て、故郷の国が懐かしいと思ったのだよ。」

 道長は歩きだす。

「香絵は都紀の国で幸せだったのだ。無意識に懐かしいと感じられるほど。その幸せな想い出を、記憶の奥に封じてしまってはいけない。今はよくても、いつか後悔する。私はそんな気がしてならない。香絵にはきっと思い出さなければならないものがある。」


 話しながら香絵の部屋へ辿り着いた。

 部屋で香絵の戻りを待っていた姫達は、香絵が道長と帰って来たので、いつものように気を利かせて自分達の部屋へ退がった。


「わたしは後悔などしません。想い出よりも、道長様のほうが大事です。今道長様のお傍にいることを選んでも、決して後悔することなどありません!」

 だから・・・。と訴える香絵を落ち着かせるため、

「まあ、お座り。」

 道長は大きな綿入りの背当てに胡坐をかき、『ここへおいで。』と膝をぽんぽんと叩く。

 言われるまま香絵は座り、いつものように道長の胸にもたれかかった。

「お父上が香絵を連れて帰ると言ったら、私はそなたを都紀に帰す。」

「!道長さ・・・」

 香絵の口に道長が人差し指を当てる。

「そして、すぐ正式に求婚する。小さくても一応私は一国の王。都紀の王女を妻に迎える身分はある。正式な輿入れならば、誰も文句はないだろう?」

「でも、もし駄目だと言われたら?」

「その時は私が都紀まで香絵をさらいに行く。都紀の王女は再び行方知れずだ。」

 香絵は道長の胸にしがみついた。

「きっとよ。その時はきっと迎えに来てくださいね。」

「任せよ。」

 道長は香絵を強く抱き締めた。


 ここで香絵はやっと気付いた。あれ?さっき道長様、なんて言った?

 道長と引き離されるかも知れない不安が胸の中を占め、聞き流してしまった言葉を記憶の中から手繰り寄せる。

『男として愛している。放したくない。本当に。心から。』『正式に求婚する。』『妻に迎える。』『私が都紀まで香絵をさらいに行く。』

 ここで、香絵にやっと、じわじわと喜びの波が寄せてきた。

「あの・・・道長様?」

「ん?」

「道長様はわたしを、好きなのですか?」

「ああ、男として、好きだよ。」

 いっきに香絵の頬に朱が差す。

『お?やっと通じた?』

「い、いつから?いつからわたしを、その・・・殿方として、わたしを好きになってくださったのですか?」

「ん?多分最初から?森で拾ったあの時から?ずっと。」

「そんなに前から?保護した者の責任で面倒見てくださったのではなく?」

「保護した責任だけで一生を面倒見るほど善人ではないよ、私は。まあ、あの時山に落ちていた香絵を拾ったのは私だから香絵は私のものだ、とは思っている。妻に迎えることも結構早い段階で決めたんだが・・・あれ?気付いてなかった?」

 道長はわかっていてわざと『まさか?』と言う顔で聞く。

「え?あ・・・、はい。」

「奥でも、屋敷内でも、香絵は奥方扱いだったはずだが?」

「ええ、それは・・・、まあ、そうです、か?そう?です、ね。」

 記憶のない香絵には判断できない事だったが、周りの姫達はそう言っていたのだからそうなのだろう。

「私は言葉でも愛しいと伝えているつもりだったが?」

「はい、それも・・・、はい。」

 愛しいという言葉は何度となく聞いている。香絵が真意を取り違えていただけで。

「それで何故気付かない?」

「あ・・・えっと・・・・・・。」

 なんとも答えようがない。

『やれやれ。』

 道長は香絵の顎を取り、瞳を見詰める。

「香絵、男として、好きだよ。愛している。」

 香絵の心がその言葉の意味を考える前に、道長は香絵の唇に自分の唇を重ねた。

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