第41話

 その日の夜。香絵は奥で道長が渡ってくるのを待っていた。しかし、夜が更けてもまだ来ない。

 今夜の月と同じ。二十三日の月は待っても待ってもなかなか姿を見せてはくれない。

 それで道長の部屋を訪ねることにした。


 国王の私室は誰もが気軽に訪ねていけるところではない。しかし、香絵ならばいつでも通って良いと認許済みだ。

 初めて来た時は酒に酔って醜態を曝したっけ。思い出すと――まあ、その時の記憶はないので人に聞いた話を思い出すのだが――頬がほんのり熱を持つくらいには恥ずかしい。


 そういえば夜に道長の部屋を訪ねるのはあの時以来。香絵がひとりで来るのは初めてだし、何だかどきどきする。

『ちゃんと袴に着替えたし、大丈夫よね。こんな時間にわたしのほうから訪ねたりしたら、迷惑かしら。用もないのに帰れ、と言われたらどうしよう。もしかして、他の姫君がいたりして・・・・・・。それは、嫌だなあ・・・。』



 道長の部屋の前。大きく息を吸って、吐いて。襖越しに声を掛ける。

「道長様。なかなかいらしてくださらないので来てしまいました。」

「香絵か。入れ。」

 香絵が襖を開ける。

 道長は机に向かって何か読んでいた。他には誰もいない。香絵はほっと胸を撫で下ろす。

 道長の脇まで行って座り、畳に両手を衝いてその手にある手紙らしき物を道長の腕越しにのぞき込む。

「恋文?」

「馬鹿者。外交の手紙だ。」

 むきになって否定して欲しくて、香絵はついそんなことを言ってしまう。そして道長はちゃんと期待通りに返してくれる。嬉しさに顔が綻ぶ。


 道長は手紙を折りたたんで封筒に戻し、返事を書くために墨と筆を用意した。

「もう少しかかりそうですね。」

 邪魔になってはいけないと思い、香絵は立ちかけた。道長がその袴を引っ張る。

「いいよ。ここで待ってなさい。退屈なら、これでも読んでいるといい。」

 そう言って、今自分が読んだ封書を渡す。

 宛名は当然道長。人の手紙を見ても良いのか?まあ、本人が渡してきたのだから良いのだろう。

 香絵は道長の背中に自分の背中を預け、足を前に投げ出し、封筒から手紙を出した。


「香絵の髪は良い香りがするな。」

「そうですか?」

 香絵は取り出した手紙と封筒をいったん膝の上へ置く。

 後ろに束ねた髪を一房鼻先へ持ってきて、くんくんと匂ってみた。香絵にはよく分からなくて、首を傾げる。

「花の香りのようだが?」

「ああ。」

 香絵は、ぱん、と両手を合わせた。

「りらの花を見付けたのです。懐かしくて・・・。少し切って部屋に飾りました。」


 道長は筆を止めた。

 記憶の失いはずの香絵が「懐かしい」と言った。

『そうか。』

 道長は、りらがの国のある北の方角に咲く花だったと思い出した。そのことがすぐに記憶の棚から見つかったのは、最近その花を思い出す機会があったからだ。

 香絵に母の話をした時、異国の花のことにも触れた。気候の異なるこの国で、母が苦労して根付かせた樹。

 母が大切に扱うその樹が、やっと咲いたと母を喜ばせたその花が、まだ子どもだった道長には面白くなかったのだ。稚拙な嫉妬をその樹にぶつけた。

 だが、折れ散った花や枝を哀しそうに拾い集める母を見て、ひどく後悔した。

 少し苦い思い出だ。


 道長は手紙を香絵に渡したが、本当は見せたくなかった。このまま見せずに取り上げてしまおうかと、香絵に話しかけてみたのだが、やはり読ませることにした。

 道長が筆を手に取ったのを見て、香絵も手紙を取り、読み始めた。

 冒頭の数行を読んだところで、香絵は驚きの声を上げる。

「道長様、これは・・・?!」

 道長は筆を動かしながら答える。

「嘘は言っていないよ?外国からの交流の手紙だ。」

「・・・でも、これは・・・。」

「うん。香絵のお父上からの書状だ。きちんと最後まで読みなさい。」

 静かに筆を運ぶ道長。香絵は手紙に視線を落とし「はい。」と返事をして、続きを読む。


 そこには、行方不明の娘をずっと捜していた事。知らせてもらった感謝の言葉。是非道長に会いたい旨。が簡潔に、しかし丁寧に書いてあった。


 手紙をたたみ封筒に戻し、道長の机の隅に返しながら訊いてみる。

「どうするおつもりですか?」

「今私は動きが取れないので、お父上に来ていただこうと思う。」

 現在、道長はある問題を抱えている。どうしても早急に解決しなければならず、国を離れることが出来ない。

「それから?それからどうするの?」

 道長が筆を置く。

「判らん。」

 香絵は左手を畳に衝き、右手で道長の袖の中ほどを掴んだ。

「それは、わたしを父に返すかも知れないということ?」

 香絵の瞳に涙が溜まっている。

 言いたくない言葉を吐き出すための力を取り入れるように、道長は大きく息を吸った。

「・・・・・・そういうことも、有り得る。」

「道長様!」

 香絵が掴んだ袖を揺さぶる。

「傍を離れるなと言ったではありませんか!」

 香絵の悲痛な叫びから、道長は目を背けた。

「すまん。私にも判らないのだ。どうなるのか。どうすれば良いのか。」

「嫌です!」香絵が立ち上がる。「わたしは父には会いません。」

 そう言い捨て、部屋を走り出ていった。



 道長は机に肘を衝き、掌で顔を覆った。

 香絵はまだ知らないが、香絵の父は一国の王だった。今は成人した長子が国政のほとんどをこなし、自身はそろそろ隠居を考えているそうだが。

 香絵は正式に遠賀へ輿入れしたわけではない。父親が連れて帰るというのを無理に止めたりすれば、戦になることも考えられる。

 いつだったか、国王ならば私情に流されるな、と言ったのは、香絵だった。

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